化ける
バタバタとした足音と共に扉が閉まる音で目を覚ます。ぽかぽかとした朝の陽気が身体を温め、動く気力を作ってくれる。のっそりと起き上がると、すぐ傍のエサ皿にカリカリが用意されている。
私は猫。正確に言えば猫又という妖怪だ。
生まれも育ちも見当がつかない。一番古い記憶の中の私はぐちゃぐちゃの赤い肉の上で、爽快感と共に丸まっていた。
それからすぐに、私は小さな部屋の中に閉じ込められた。たまに来る人の話し声によれば私はある村を守る神として入れられ祀り上げられたらしいが、当時の私は若く、人間を守る気なんか更々なかったし、そもそも閉じ込められていた私に彼らを守る手段なんかなかった。
少し後になると少しだけ……3日3晩ほどだろうか、雨が降り続いて、轟音が辺りに響き、それから人が来ることはピタリと無くなった。
しかし猫というのは難儀なもので、人が来るときは鬱陶しいと思うのに、来なくなると途端に寂しさでいっぱいになってしまう。
最初の数年はずっと鳴き通していたが、誰も来ないだろうという諦観が私の頭を支配すると、鳴くどころか目を開けることすら億劫になり、ひたすら寝るようになった。
それから数百年は経っただろうか。初めて眠れない夜というものを体験して、その不気味さにニャーニャーと喚いている時に、今の御主人が祠の扉を開いてくれた。
あの時の月明かりと、それを後光とした御主人の美しさと言ったら、この世にそれを表現しうる言葉は存在しないと断言できるほどだった。
そんな訳で私は今、御主人から家と食事と「フウ」という——二股の尻尾から着想を得たらしい——名前を与えられ、御主人の部屋で過ごしている。彼女は高校という場所に、7日中5日も通い詰めて勉強している大変に勤勉な方だ。しかしそこには
昨日、その教師から多大な量の課題を出されたらしく、夜遅くまで泣きながら机にかじりついていたのをよく覚えている。その努力の成果であるノートはカリカリの横に誇らしげに置かれて——
なぜここに置かれている?
私は驚いてノートの方を向く。これが此処にあるということは御主人は今ノートを持っていないということだ。もし話に聞くあの鬼島がそれを知ったら、御主人はただではすまないだろう。良くて居残り、場合によっては奴から手を上げられるやも……
そう考えた時、私の身体は独りでに制服を着た御主人の姿を形作っていた。普段は使う機会がないので忘れていたが、猫又というのは人間に化けることができるのだった。二股の尻尾はそのままになるが。
ともかく、この機を逃す愚は犯すまいと、私はノートを持ち、全力で学校へと走り出した。場所は分からないが、幸いにも御主人の通っている学校の名は知っている。あちこちの看板に名前が書かれているところを見るとかなり有名らしい。その看板に書かれた矢印に従って学校へと向かう。
体力の限界に達し走ることすらままならなくなった頃、ついに学校と思わしき建物の正門が見えてきた。しかし、鬼の面をそのまま顔に縫い付けたかのように厳しい表情をした大男が、今にもその門を閉めようとしていた。私はほとんど限界の身体に鞭を打ち、もう一度全力で走った。そして門を飛び越え、学校の敷地に足を踏み入れた。
「おい、何してる!遅刻だぞ!」
鬼の面が口を動かし怒鳴りつけてくる。このような男が御主人の学校にいるとは、何と嘆かわしい。その面に縦線を刻んでやろうかとも思ったが、御主人の姿をしている以上はおとなしく応対するしかない。
「す、すいません……鬼島先生の課題を家から持ってこようとしたら……」
「そうか、課題を持ってきたことに関しては甘く見てやるとしよう。だがな、その変な尻尾は一体なんだ!?」
その声ではっとする。そういえば人間に化けても尻尾はそのままになる。御主人にはついていない尻尾がついていたら、怪しまれるのも無理はない。
「二股に分かれた尻尾をつけて学校に来るなんて一体どういう神経をしているんだ君は!?」
「そ、それは……」
「すいません、ちょっといいですか?」
鬼面の後ろから御主人の声がする。
「鬼島先生、この子は私のいとこです。ほら、顔立ちも制服も微妙に違うでしょう?私が忘れた宿題を取りに来てくれたんです。だから、あまり怒鳴らないであげてください。」
御主人がそう声をかけると、鬼面、もとい鬼島は一気に顔を青くする。
「そ、そうか……ごめんね、嬢ちゃん。おじさんが大声を出しちゃったことは誰にも言わないでおくれ。」
そう言った奴がふらふらと建物の方に戻っていくのを見た御主人は、私の方に向き直る。
「あいつ、ああ見えて他校の生徒には弱いんだよ。昔、教育委員会って所のお偉いさんの息子を怒鳴っちゃったらしくてさ。知らない人にああいう態度を取るのが一気に怖くなっちゃったらしいんだ。それなら最初からああいう態度を取らなきゃいいのにね。」
御主人はそう言うと、私の手からノートを抜き取った。
「これ、私のために届けてくれたんだよね。ありがとう、フウ。大好きだよ。」
そう言った彼女は、私の頬に唇を触れさせた。
彼女はなぜ状況を把握した状態で正門に現れることができたのか。どうやって彼女は「いとこ」という真っ赤な嘘をあの場で堂々とつくことができたのか。そして、あの口づけは何を意味しているのか。
ぐるぐると頭の中を巡る疑問に答えを提示することができないまま、私は帰路についた。
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