民俗学者とチャーリー・パットン
森新児
民俗学者とチャーリー・パットン
蒸気機関車5115号機の汽笛が、とつぜん夜のしじまを切り裂いた。
一人用の客室で本を読んでいた佐々木修造は驚いて顔をあげた。
時間は真夜中で窓の外は真っ暗でなにも見えない。
列車はアメリカ南部ミシシッピ州の平原をひた走っていた。
今は八月でミシシッピは一年でもっとも暑い時期だ。
そのため昼間夏の日差しにさんざん焼かれた綿花畑の甘い土の匂いが、夜になっても車内に霧のようにうっすら立ち込めていた。
(さっきの警笛はなんだろう? 線路に人でもいたのか)
と佐々木が思ったとき、また汽笛が鳴った。
夜一人で聞く汽笛は哀切な響きがある。
佐々木は旅の孤独をかみしめ、感傷的な気分になった。
そして今年の春、帝都東京で体験したあるできごとを思い出した。
その日佐々木はいいなずけの喜多川綾子と友人たちと一緒に上野の公園で花見を楽しんだ。
宴は盛りあがり、友人たちはあっという間に酔っぱらった。
佐々木は綾子を誘って公園を散策した。
園内はおおぜいの花見客でにぎわっていた。
ふらつく足取りの酔漢をよけながら歩いていると、桜の下で合唱している女学生のコーラスが聞こえてきた。
「春、
と、それまでずっと黙っていた綾子が急に口を開いた。
「芥川龍之介先生が自殺されたのはいつでしたかしら?」
「あれは……二年前ですね。昭和二年の八月です」
「芥川先生はどうして自殺されたのでしょう?」
「さあ……」
佐々木は思わず腕組みした。
芥川の遺書には「ぼんやりとした不安」という文言があったはずだ。
それはいったいなんだろう?
佐々木はもうすぐ三十になる。
芥川が死んだ年齢に近いが、念願のアメリカ留学を目の前にして佐々木の心は希望に燃えている。
ぼんやりとした不安など影さえない。
「自分にはわかりませんね」
と佐々木がいったとき
「花びらが」
綾子は佐々木の肩をそっと撫でた。
細い指でつまんだ桜の花びらを、綾子は大切そうに自分の胸に抱いた。
そのとき近くで花見をしていた一団がドッと笑い声をあげた。
「ワハハハ!」
「さわがしくなってきましたね。綾子さん、みんなのところへもどりましょう」
「わたくし」
「はい?」
「わたくしこの花びらを、佐々木さまと思って大切にします」
「花びらがぼく? その花びらは綾さんあなたでしょう。あなたのほうがぼくよりずっと美しいしそれに……」
「いいえ」
綾子は妙にきっぱりいった。
「お美しいのはあたなです。それにわたしはよく知っています。美しいものの盛りが、とても短いことを」
「綾さん……」
佐々木がとまどっていると、さっきの女学生のコーラスがまた聞こえてきた。
「千代の松が
「むかしの光、今いずこ、か」
と走る機関車の車内でつぶやき、それから佐々木は窓際に手を伸ばした。
そこに一台のラジオ受信機が置かれていた。
佐々木が今乗っているカナディアン・ナショナル鉄道のいちばんのセールスポイントがこのラジオだ。
ほかの鉄道とちがってカナディアン・ナショナルではCNRというラジオ局の放送を乗車中に聞くことができる。
スイッチをひねると、ややノイズがまじったラジオの音が流れてきた。
「眠れないあなたに今宵もすてきな音楽を。今夜最初におとどけするのはホーギー・カーマイケルのヒット曲『スターダスト』……」
と、そこでとつぜんラジオの音が聞こえなくなった。
となりの部屋から聞こえるはげしいギターの音にかき消されたのだ。
「……」
佐々木はしばらく耳を澄ませてギターに聞きいった。
それから紳士らしく帽子をかぶって背広のしわを伸ばし、身なりを整えると佐々木は部屋を出た。
「カムイン」
佐々木がドアをノックすると、すぐ返事が返ってきた。
ドアを開くと白いワイシャツのそでをめくり、細いネクタイをしめた黒人男性が壁からおろしたベッドに腰かけ、怪訝そうな表情で佐々木を見あげていた。
相手は二十八歳の佐々木より十歳ぐらい年上に見えた。
今黒人といったがその顔は白人のようにも見える。
ミステリアスな風貌の隣人は胴の部分がやすりでひっかいたみたいに傷だらけのギターを抱え、無言で佐々木を見つめた。
「失礼。わたしは佐々木修造、日本の民俗学者です。あなたのギターが聞こえたのでお話をうかがいにきました」
「二ホンジン?」
そこで相手の表情が一気に柔らかくなった。
「日本人はみんなチョンマゲをしてると聞いていましたが、あなたは白人みたいな身だしなみのジェントルマンですね。うるさかったですか?」
「いえ。わたしはアメリカに黒人霊歌の採集にきました。それであなたのギターに興味を持ったのです」
「ゴスペルのコレクション? それは変わってらっしゃる。まあお座りください」
佐々木が固定式の窮屈なソファに腰をおろすと、隣人はすぐ手を伸ばしてきた。
「パットンです。チャーリー・パットン。流しのシンガーです」
チャーリー氏のてのひらはプランテーションで綿をつむ労働者のようにざらついていた。
音楽家とは思えないたくましい手だ、と佐々木が驚いているとまた汽笛が鳴った。
「あれは線路で寝ているホーボーを追い払っているんですよ。ホーボーはごぞんじで?」
「ええ、季節ごとに土地を移動する渡り鳥労働者ですね。移動するさい無賃乗車するので鉄道会社に嫌われているとか」
「そうです。『線路は夜冷えるから枕にすると気持ちいい』と年寄りのホーボーに聞いたことがあります。その爺さんはアイルランドの出身で若いころ太平洋でクジラをとって暮らしていたそうですが、今はどういうわけかアメリカでホーボーになって大陸を無賃乗車で横断してます。人間の運命ってやつはわかりませんね……自分はオヤジが黒人でおふくろが白人とインディアンの混血なんです」
とチャーリーは唐突にいった。
「白人とインディアンの? それは……」
珍しい、という言葉を佐々木は危うく飲み込んだ。
ルーツと人種に関するうかつなコメントは、今もむかしもアメリカ社会における重大なタブーだ。
佐々木はきわどく言葉を飲み込んだ。
しかしチャーリーの表情がにわかに変わった。
意地悪そうな笑みを頬に浮かべると、チャーリーはこんなことをいった。
「自分が生まれたのはハイチです」
「おお、中央アメリカの西インド諸島にある世界初の黒人独立国ですね」
「ええ、今はアメリカの支配下にあります。ブードゥー教はごぞんじで?」
「はい。民俗学の知識として多少」
「ハイチのゾンビ伝説は?」
「知っています」
そのとき窓の外でまた汽笛が鳴った。
「ゾンビはよみがえった死者です」
佐々木はいった。
「土葬からよみがえった死者が暗い森をさまよい、ときに人を襲って食べる。ハイチにそういう伝説があると聞いたことがあります」
「なんでもよくごぞんじで」
チャーリーはそういうととつぜん佐々木の鼻先にグッと顔を寄せた。
「二ホン人のだんな、この顔よくごらんなさい。あっしがそのゾンビなんでさ」
「……」
チャーリーにせまられても佐々木は表情を変えず、静かにソファに座っていた。
遠くの部屋からシャンパンに酔っぱらった女の嬌声が聞こえてきた。
やがてじれた口調でチャーリーがいった。
「だんな、あっしがこわくないんですか?」
「こわくないです」
佐々木の口調は穏やかだ。
「どうして?」
「ハイチのゾンビ伝説ですが、あれは家族や恋人を亡くした人が、森でたまたま会った精神障害者に亡き人の面影を見て『死者がよみがえった』とかんちがいしたのが始まりと聞いています。だからこわくないんです。むしろ人情味のあるいい話だと。
それに日本には
もしパットンさんがゾンビならキリスト教徒はあなたを悪魔というでしょう。
わたしたち日本人はあなたを神と呼びます」
「……二ホン人ってやさしいんですね」
チャーリーの顔から意地悪そうな笑みが消え、代わりにあわい感動が浮かんだ。
「失礼しました。ハイチで生まれたってのはウソです。今のは白人のお偉いさんをからかうときのジョークです」
「もちろんわかってましたよ、パットンさん」
「チャーリーと呼んでください。自分が生まれたのはハイチではなくミシシッピ州のミズーリです。ミスターササキ、つまらないジョークのおわびに一曲いかがです?」
「ぜひお願いします。曲名は?」
「『ポニー・ブルース』といいます。レコーディングしたての新曲です」
チャーリーはそういうと叩きつけるようにはげしくギターをかき鳴らし、歌を歌った。
そのしわがれた声を聞いた瞬間、佐々木の全身にさっと鳥肌が立った。
(おお、これがブルースというものか)
感動とともに、佐々木はそう思った。
せまい客室に熱烈な拍手の音がひびきわたった。
「すばらしい! あなたは音楽の歴史に名前を残す巨人になりますよ! チャーリーさん!」
「そりゃあどうも」
チャーリーが照れ臭そうに頭をさげたとき、佐々木の背広のポケットから、床にひらひらなにか舞い落ちた。
「チェリーブロッサムですね?」
とチャーリーはふしぎそうにつぶやいた。
季節はずれの桜の花びらは床にべったりはりついた。
濡れて色あせた花びらを見ながら、佐々木はいった。
「これでやっと成仏できる」
「なんですか? ミスターササキ」
佐々木が『ジョーブツ』と日本語でいったからチャーリーにはなんのことだかわからない。
しかし佐々木はかまわずそのまま日本語でつぶやいた。
「最良の音楽を求めわたしはアメリカを目指した。しかしそのこころざしはかなわなかった。太平洋の真ん中で、わたしが乗っていた船は沈んだ。クジラとぶつかったのだ。乗客は全員死んだ。こころざし破れたわたしはおのれの無念にひきずられて幽霊になり、この世をさまよった」
「ミスター……」
「しかし長かった旅も、今ようやく終わる。わたしはついに最良の音楽と出会うことができた。ありがとうチャーリー・パットンさん」
ありがとうと日本語で告げると、佐々木修造は傷だらけのギターをかかえてふるえるブルースマンの前からけむりのように消えた。
彼が消え去る瞬間、異国のざわめきと異国の音楽が、残り香のようにチャーリーの耳をくすぐった。
そのとき突如雷鳴がとどろき、降りだしたはげしい雨が車窓を叩いた。
雷鳴と雨はすぐにやんだ。
奇妙な静けさに包まれながら、チャーリーはさっき自分の耳にかすかに聞こえた異国の歌をメロディーに乗せて口ずさんだ。
「ムカシノ、ヒカリ、イマ、イズコ……」
『デルタの声』といわれたデルタ・ブルースの始祖チャーリー・パットンが日本語の歌詞を歌ったのは、そのときが最初で最後であった。【完】
民俗学者とチャーリー・パットン 森新児 @morisinji
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