008 CASE050 女子高生・F

「近頃、人身事故が多いから、あなたも気をつけなさいよ」

 台所で洗い物をしていた母が声をかけてきた。

「ちょっと、私が自殺するような人間に見えるの? 自分の娘でしょ。子は親に似るんだから、ママの性格受け継いでいる私がそんなことするわけないじゃない」

 座り込んでいた椅子の手すりを軽く叩いてから、私はそう返した。

「馬鹿ね。人身事故って言っても何も自殺だけがその単語を表しているわけじゃないわ。本当の事故だってあるんだから。だから、気をつけなさいって言っているの」

 と、母の呆れ声。

「はいはい。じゃあ、学校行くね」

 テーブルの上にあった自分の食べかけのパンを口に挟み、私は椅子から立ち上がった。

「お金ちゃんと持った? もう携帯なくさないでよ」


 以前JR東日本南北総武線北船橋駅付近でスマートフォンを無くしたことがあり、私の注意力のなさに激怒した母からしばらく代わりの物を買うことを渋られていた。


 スマートフォンを無くした日に母の怒りの沸点が少し下がった後、連絡さえとれないのは流石にまずいだろうと次のスマートフォン代をせびったのだが、母は迷いも見せずメールくらいしかできないガラケーをかわりに手渡してきた。


 それから長期間友人たちとの連絡はメールでしか行うことができず、うら若き女子高生の間で必須のツールである伝言アプリさえ使えないその状態に、私は心底辟易としていた。そこで私に甘い父を使って母を説得して貰う事にした。母は父を愛しすぎる程愛していたので、その目的は簡単に達成できるかと思われた。だが、その父をもってしても母を納得させることはできず、結局直近まで彼女はそれを承認しなかった。


 その日の朝、突如として母は私にスマートフォンを買っても良いと私に宣言した。私は何故母がいきなり心変わりをしたのか初めわからなかったが、その後家の階段から降りてきてリビングルームに足を踏み入れた父が母に声をかけた時、その父に向けて母が見せた久しぶりの女の顔が、その前の日の夜、私のために父が何をしたのか私に想像させた。


 言うまでもなく、二人のプライベートについて何ら触れたくもない私は、そっと胸の中で父に感謝してその場をやり過ごした。そして、母が上機嫌でその場からいなくなった後、大好きな父の胸に抱きついた。


 学校の鞄に現金の入った封筒があるのを確認してから、玄関口から家先に出た。いつもの通り、そこから歩いて十分くらいのところにあるJR東日本南北総武線北船橋駅へと向かう。空は今日も曇ひとつない晴天だった。そして、念願だったスマートフォンを再び買う私の心も晴れやかだった。


 私は今日買う予定のスマートフォンの種類をすでに決めていた。それは最新型のスマートフォンで、超高性能カメラ付きのものだった。さらに友人たちも羨むであろう流線形のフォルムをそのスマーフォンは携えていた。惜しむらくはそれがSIMフリーでないことだけだ。


 あの日無くしたスマートフォンは、元々SIMフリーのものだった。当然、今回もSIMフリー版を買うつもりだったが、欲しい型のそれはネットで売り切れており、今回は不本意ながらもキャリアのショップでSIMロックのものを買うしかない。SIMフリー版には強く拘っていたのだが、こればかりはどうしようもないことだ。


 なぜ私がそのようなものに拘っていたかというと、母から月額スマートフォン代をプラスした形でお小遣いを貰っており、その辺の事情に疎い母に黙ってその後格安SIMに変えてお小遣いを増やしていたからだ。


 だが、どうやら今後その手を使うには、購入したスマートフォンのSIMロック解除を自分で行う必要がありそうだ。ネットで調べたところ若干面倒な手続きがいるらしく少し陰鬱になるが、今までの苦労と比べれば何でもないことだ。


 そのような鬱屈とした気持ちを多少抱えながら、私は北船橋駅の改札を抜けた。エスカレーターの前へと進んでいく。通学・通勤ラッシュの時間帯で、周囲は人でごった返していた。何の変わり映えもしない常日頃の光景だ。

「あれ? 私の空蝉さん」

 そんないつもの日常の中、私はいつもと違う声色を漏らした。

 人混みに紛れて、私が前のスマートフォンケースに取り付けていたストラップとその先にある私の物であるはずのぬいぐるみが目に入ったからだ。


 そのぬいぐるみは、投稿数四十万以上を誇るアクセス数ナンバーワンのウェブ小説投稿サイトに投稿を行なっている、とあるド底辺作家の小説の中に出てくる山伏の格好をした空蝉という大男をモチーフにしたもので、そのキャラは、たいしてアクセス数もないその小説の中でもその大雑把な性格からさらに不人気で、世界広しといえど絶対に私しか愛していない特殊なものだった。


 そして、何故そのような人気もなく姿も良くわからないキャラがぬいぐるみになっているかというと、もちろん私がハンドメイドでその姿を想像して作ったからだ。


 とにもかくにも、そのような物が北船橋駅の人混みの先に見え、しかも私の身を離れた状態でそこに所在する事など絶対にありえないことだ。そう述べても決して過言ではない。私以外に私の空蝉さんのぬいぐるみを造ろうとする者などひとりもいるはずがないからだ。


 私はその私の空蝉さんの行く先の後を追った。エスカレーターに乗り込み、そこにできた列に並んだ。空蝉さんの行方を追うため、少し身を横へと乗り出した。するとスマートフォンを持つ手が見えた。肌の質感からして男のそれのように思えた。


 だが、私の目を引いたのはそれではなかった。その手の下にはストラップに括り付けられた私の空蝉さんがいて、その男の手の中にあるスマートフォンのケースは間違いなく私の物だった。

 

 エスカレーターの階段がプラットホームにたどり着くと周囲を見回した。ちょうどそれと時を同じくして、プラットホームの線路に急行電車の乗り込んで来る音が聞こえた。その後、近くにいたそのスマートフォンを手に持つ者の姿がわたしの目に映った。


 だが、次の瞬間私が見た物は、プラットフォームの外にあった雲ひとつない青空だった。いつの間にか誰かに抱えられたように身体が宙に浮いていたのだ。


 そして、一呼吸の間もなくまた私は地上に足を着けていた。次に線路に敷き詰められ砂利の音がした。車輪の音が鳴った。何も思わなかった。


 急行電車が来た。私は轢かれた。

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