007 CASE666 専業主婦・M

 私は夫以外の男に抱かれたことがある。それは夫以外としたことのない私にとって初めての経験だった。


 相手は雑誌記者の男で、当時まだ中学生だった息子の死の真相を知っていると私に連絡を取ってきた。彼はそれを教える代わりに私と身体の関係になる事を求めてきた。今思えば、誰も抑止できない事件の情報を一介の雑誌記者であるその男が知っているはずがない。だが、当時息子を失ったばかりで精神を病んでいた私にとっては、その申し出が地獄の中に垂らされた一筋の蜘蛛の糸のように思えた。


 そのような理由と共に、ただの専業主婦で情報を手に入れる手段を持たなかった私は、少しも迷う事なくその男の手で身体を汚される事を選んだ。息子の敵を取るためだったら、私は人殺しも厭わないと心に誓っていたからだ。


 私はその男がする汚らしい行為の要求に、下半身だけではなく、持てるすべてを使って全力で答えた。だが、その後何度も彼とは情事を重ねたが、彼は一向に息子の死の謎について語ろうとはしなかった。


 結局、私の彼に対する疑念が頂点に達しようかという頃、その男は息子が死んだ場所と同じ北船橋駅で雑誌記者・Aとなった。彼から手に入られたものは、身体中にこびり付いた洗っても取れない汚らしい彼の欲望に満ちた液体の臭いだけだった。


 今現在がらんとした息子の部屋にいる。手に持っていたスマートフォンの画面に表示されている今は男子中学生・Oとなってしまった息子の幼馴染である友人からかけられた着信履歴をぼんやりと眺めていた。彼が最後に私にかけてくれた電話は、雑誌記者のあの男に身も心も陵辱され尽くした私にさらに追い打ちをかけるような悪夢の惨劇を想像させるひどいものだった。


 私はJR東日本南北総武線連続駅プラットホーム転落死事件で息子を失った。週刊誌を含めたマスコミは被害者、男子中学生・Tとして事が起こった当初は騒ぎ立てたが、すぐに彼の存在は忘れ去られた。また別のイニシャルを持つ者が被害にあったからだ。それも日をあけず連続して。


 彼の幼馴染であるその友人も、事後、男子中学生・Oと呼ばれ、間もなく私の息子と同じような目に合う事になった。


 現在、息子や彼の存在を忘れていないのは私と夫、彼らの仲の良い友達、さらに警察。そして、複数ある転落死事件の謎を追ったウェブサイトサイトの管理者とそのユーザーくらいのものであろう。


 それらのウェブサイトのほとんどが馬鹿馬鹿しいオカルトチックな内容で、真面目に事件を追及しようとしているものは極少数だった。その極少数も素人が謎を解明できるはずもなく、見当はずれの推理合戦をその狭い空間で行なっているように私には見えた。


 事件があったあの朝、息子がいつもの通り学校へ向かうのを玄関先で見送った。その時は彼にもう会えないとは想像もしていなかった。もちろん北船橋駅の事件は知っていて、女子高生・Fの件は強烈に記憶に残っていた。


 だが、当時北船橋駅近辺でその事件に巻き込まれる場合は、北船橋駅から他の駅に向かうケースがそのほとんどだった。一方、私の息子は朝北船橋駅に到着し、そこから北船橋の学校に通うというその被害者たちとは逆のルートを通学路としていた。事件が多発していた時間帯も彼が帰宅時に乗る電車の時間とはずれていた。それに万単位の人々が通勤・通学で駅を行きかう中、たまたま自分の息子が狙われる可能性など天文学的な確率であるかのように当時は思っていた。だから、事件に巻き込まれることはないだろうと高を括っていた。


 転落死事件事件については確かに不安だったし、北船橋駅を使わせずかなり遠いが隣駅から徒歩で通学をさせようとも思った。だが、彼にそれとなく確認したところ、家から遠くなると学校に行く気がしなくなると言ったので、そのままなし崩し的に常日頃使っている通学路で学校へ通わせることとなった。


 そして、それから数日後に彼は死んだ。

 

 今考えると学校など行かせなければ良かったのだと思う。このインターネットが発達した世の中で馬鹿みたいに電車に乗り学校に勉強させに行かなくても、ネットにあるウェブサイトや動画サイトを利用して勉強すれば今の時代事足りる。過去入学が困難だった大学など今や全入の時代だし、お金だってないわけじゃない。何故学校に行かせることをパブロフの犬のように信望していたのかが今の私にはわからなくなっていた。


 息子の部屋で一人寂しく佇んでいる私の目に、ふとモニター画面が映った。先程まで周囲を掃除をしていたせいか、いつの間にかスリープが解除されてしまっていたのだ。


 デスクトップに黄色と赤が混じったようなアイコンがあったので、何気なく机に置かれていたマウスを手に持ちそれをクリックした。


 ブラウザが立ちあがった。その中央には女子高生・Fのモザイクで目隠しされた写真があり、そのすぐ傍ににコメント欄が見えた。


 真相究明・JR東日本南北総武線連続駅プラットフォーム転落死事件の謎


 ブラウザ画面上部のタイトルにはそうあった。息子は自らが巻き込まれる事になった事件のウェブサイトへ死の間際にアクセスしていたのだろうか。そう思った私は思わず口元に手を当てた。胃液が腹部から込み上げてきたからだ。


 気分が悪くなった私は、そのままブラウザを閉じようとした。だが、そこでコメント欄に『女子高生・Sの失踪』というタイトルのコメントが現れた。吐き気が若干おさまったこともあり、私は若干興味を引いたそのタイトルをクリックした。


 女子高生・Sは女子大学生・Sではないだろうか。

 彼女の書き込みは、女子大学生・Sが死んだその時間以降、今の今まで途絶えている。このような事は、このウェブサイトが立ち上がってからというもの、なかったことだ。

 これは推測に過ぎないが、彼女は事件の真相を追っている最中に、何らかの証拠を発見し、一連の事件の犯人に殺害された可能性がある。今一度彼女の発言をおさらいしてみよう。


 そう長々と書かれた文字の下に、ずらりと彼女が過去書き込んだと見られる内容が日時付きでコメント欄に貼り付けられていた。


 私の目を引いたのはその一番上にあった彼女の最後のコメントだった。そのコメントはかなり短かった。さらに普通の人から見れば馬鹿げた内容のものだった。だが、その馬鹿げた短いコメントは、私の脳にかつてない衝撃を与えた。

「そうか……そういう事だったのね」

 その衝撃に閃きを得た私は、震えた声で独り言を零した。


 次の瞬間には身支度を済ませ、長年夫、そして息子と過ごした家を飛び出した。目的地はもちろんJR東日本南北総武線北船橋駅だ。


 息子が殺された場所。一連の事件の犯人が現れる可能性が最も高い場所。私が恨みに恨んだ姿形もわからないそいつを殺せる場所。


 そう、私がその場所で今日そいつを殺すのだ、と心に固く誓った。


 警察などにそいつを任しては、逮捕の後の裁判で判決まで数年かかる。さらにその後そいつを待っているのは長い刑務所暮らし。死刑までとなるといつまで待てば良いのかも不明だ。そんなことになってしまえば、下手をすれば息子と過ごした期間以上にこの世でそいつと同じ空気を吸うことになってしまう。


 さらに言えば、日本の殺人犯に甘い司法制度上、そいつは死刑にさえならない可能性もある。


 いや、と早足で最寄り駅に向かいながら私は首を横に振った。そして、思う。そいつは捕まらない可能性さえある、と。


 例え捕まったとしても、おそらく死刑執行までにどうにかしてしまうはずだ。そいつであれば、そう考えて然るべきだ。


 だから、誰にも追われていないと油断している今しかそいつを殺す機会はない。


 駅前にたどり着いた私は、周囲に警察がいないか確認した。肩にかけている革製のバッグの奥底には、朝、昼、晩、息子に料理を食べさせるため幾度となく使った包丁があった。職務質問でもされようものなら、息子の敵を取るどころの話ではない。


 注意深く改札を抜け、エスカレーター上にあるプラットフォームに辿り着き、そのタイミングで来た各駅停車に乗り込んだ。


 ほっと息を吐いた。さすがに電車の中まで来て警察に職務質問されることはないだろう。


 現在時刻は夕方四時二十分。太陽がもう少しでビルの陰に差し掛かる頃だ。事件が発生するとすれば、一時間後ないしは二時間後、といったところだろう。そう考えた私はそのままゆったりと人の少ない車両の黄緑色のシートに座り込んだ。


 北船橋駅に着いた。各駅停車のドアが開く。ちょろちょろと人がプラットホームに降り立った。私もその後に続いて、そのコンクリートの通りに足を踏み入れた。壁際へと進み、ベンチへと腰を下ろし、辺りの様子を伺った。


 人が少しばかり多くなってきているようだ。そいつが人を狙うとしたら、もうちょっと人数が増えた後のことだろう。私は自分が先刻推理した彼の正体から鑑みて、そのようなことを思った。


 そいつが私を狙う可能性を考えてみる。今私はベンチに座り、壁を背にしている。そいつが私の背中を押すとしたら、若干やりにくい位置にあるだろう。だからと言って安全というわけではない。息子の友人である彼はベンチにいるところを狙われたというのがネットでは噂になっていた。そんな状態でそいつが私を狙うだろうか。いや、と私はすぐに胸の内で首を振る。人間であるはずのそいつがそんな浅はかな真似をするはずがない。


 狙うのであれば、できれば私を狙って欲しい。そう願った。そうしてくれるのであれば、不意をついて私のバッグにある包丁で一突きにしてやる、と思っていたからだ。


 私はベンチから立ち上がった。その後すぐに急行電車がプラットフォームの敷地内にある線路に乗り込んでくるような音が聞こえてきた。


 さあ、来て。今なら私の背中を押す絶好の機会よ。息子と同じように私の背中を早く押して。くずぐずしていると、急行電車が通り過ぎてしまうわ。早くしなさい、このクズが。

 とばかりに、ふらふらとプラットホームの中央寄りに自らの身体をやった。


 その次の瞬間に、どん、という音が聞こえた。良かった、今日も馬鹿みたいに来てくれたんだ、とそいつの変わりばえしない行動に感謝した。


 だが、そいつに私の背中が押された訳ではなかった。背中どころか身体のどこにも押されたような感触を感じない。それに気がついた私は急いでその音がした方向に顔をやった。


 背丈の低い少年がプラットホームの中央へと身体を押し出されている姿が見えた。

 

 誰もいない。


 だが、彼はまた押された。かなり踏ん張っているようだが、足がふらついており、そのままでは耐えきれないであろうことは容易に想像がついた。


 私は息を殺しながら、素知らぬ顔をして彼に近づいた。次にそいつがいると想定される場所からは死角になるような位置へと身体を持って行った。


 前へと足をやる。

 そう、そのタイミングだ。

 再び身体を押されたその少年の姿を見て、私は思った。


 男子中学生・Oとなってしまった息子の友人との通話で聞こえていたその音の余韻の間隔――そのタイミング。姿は相変わらず見えない。だが、そのタイミングであることは間違いない。私はバッグの中の包丁に手を忍ばせながら、そう確信を持った。


 そして、ついに私はそいつの腕を掴んだ。


 女子高生・Sの書き込みコメントは正しかったのだ。私はそう思ってから、そいつを追い詰めたことを確信した。これで殺せる。右手にある包丁に力を込めた。


 その次の瞬間、

「これは驚いたな」

 と、男の声が聞こえた。


 次の瞬間に、身体が宙に浮いたかと思うと、そのままプラットホームの敷地外へと放り投げられた。いつの間にか私の手の中からそいつの腕がなくなっていたことは、その後に気が付いた。包丁はもっと前にどこかにいってしまっている。


 まさか……いや、絶対にそうだ。電車の風圧を側面に感じながら、私は思った。

 女子高生・Sも私も勘違いしていた。いや、私は勘違いしていた。それはそいつではない。そいつではなかったのだ。


 それに気がついた私は、息子の幼少期を感じさせるそいつに背中を押されていた少年の姿を目で追った。良かった、無事だったのね、と私は安堵した。すでにエスカレーター付近で、駅員に保護されている様子が見えたからだ。


 彼はこの後何事もなく、彼を待つ愛する母の元に帰るのだろう。そう、私が息子を愛したように、彼を愛するその母の元に。


 私はそんな事を思いながら、エスカレーターの先へ消えていくその少年の背中を追いかけるかのように前へと手を伸ばした。


 次の瞬間、いつの間にか間近に来ていた急行電車が、その大きな口を開けながら、速度を落とすこともなく舐めるように私の全身をさらった。


 その後、それはいつもの通り何の迷いも見せず、どこまでも前へと進んで行った。

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