006 CASE315 男子中学生・O

 パスワードを入力した。ログインボタンをクリックする。すると、ブラウザがリロードされ、そのウェブサイトは別の画面に切り替わった。


 僕は画面を見ながら、左手に持っていたスマートフォンに話しかけた。

「おばさん。大丈夫だ。ああ、事件はもう追わない」

 そう言ってから、僕はあいつの母親との通話を切った。


 男子中学生・T。


 一時期同種のテレビの報道番組の醜い群れの中で、あいつはその名で呼ばれていた。だが、被害者がその後また絶え間なく増え続けた事により、掲示板サイトにおいて、書き込まれてはすぐに上へと消え去っていくコメントのように彼の名は、利用価値のないウェブサイトを忌み嫌う液晶テレビの世界から消えた。なので、今となっては誰も彼をその名を呼ぶ者はいない。


 しかし、それはあくまで節操のない冷酷な野次馬がその正体である善人面した上級国民たちの世界での話だ。


 鬱屈した魑魅魍魎たちが辺りを蠢くネットの世界では、彼の名はまだその身分とイニシャル、たまに実名を伴った形でブラウザの中に現れる。


 僕は書き込まれたその彼の実名が記載されたタイトルのコメントをウェブサイトのコメント欄から削除した。


 真相究明・JR東日本南北総武線連続駅プラットホーム転落死事件の謎


 男子中学生・Tと僕、そしてその友人たちが管理者権限を持つウェブサイトだ。そのほとんどのコンテンツは彼が加工しウェブサイトにあげたもので、僕を含めた他の者は誰もそのような真似はできない。なので、今僕たちにできることはまだ不気味に息をしているこのコメント欄をメンテナンスすることくらいだ。


 彼の他にも女子高校生・Fを筆頭に様々な身分とイニシャルが重ねられた呼称がそのタイトルには時折見える。僕の友人も彼らもそんな身分とイニシャルで呼ばれるような人間では本来ない。そのような名前は彼らの実態を表さず本来無視して然るべきものだ。彼らには本当の名前があり、本当の顔があり、本当の姿があり、そのような名前では到底表せない、そして今を生きている僕たちでは計り知れない、複雑で込み入った実生活を送っていた筈なのだ。


 だが、僕はその彼らの親から貰ったものであろう大切な本当の名前をこのコメント欄のタイトルやその内容から削除しなければならない。その名前や書き込まれた内容から彼らの家を割り出し、その遺族に冷やかしに行くような、まさに正義面したマスゴミとほとんど同じ行動を取る不届き者がこの世には五万といるからだ。


 僕は特に友人である彼に関する書き込み情報には注意深く気を払っていた。あの綺麗な彼の母親の悲しむ顔をもう見たくないからだ。


 あの日の彼の葬式であった彼女の打ちひしがれた姿。幼少期から彼女の事を知っているが、あのような様を見た事がなかった。


 葬式が終わった後、僕が彼女に彼の敵を取るというような事を言ったら、彼女は事あるごとに僕にこの事件は危険だから近づくなというような電話をしてくるようになった。そして、最も最近のものが、先程のスマートフォンでの会話だった。


 もう何回目の同じ内容の通話になるのだろうか。僕はその度に事件には首を突っ込まないと言っているのだが、彼女はその言葉を疑っているようで、こうして何回も電話をかけてくる。何かしら女の直感のようなものが働いているのだろうか。彼女の声をスマートフォン越しに聞く度にそう思う。


 そして、その彼女の直感のようなものは当たっていた。僕はこの事件の謎の解明を諦めるつもりなどさらさらなかった。僕のスマートフォンには様々なその事件に関する情報がおさめられている。中には彼にまだ伝えていないものも多数あった。これを元に事件の謎をすべて解き明かしてみせる、と僕は長らく心に誓っていた。それは彼が死ぬ前、女子高校生・Fの事件から今の今まで変わることのない僕の固い決意だ。


 その僕のスマートフォンにはあいつの最後のメッセージが残っていた。


 今から北船橋駅に向かう。


 短い文章だった。恐らく以前伝言アプリに書き込んだものをコピペをしたのだろう。朝彼が遅れそうになるといつもこれと同じ台詞がその伝言アプリに送られてきた。なので、僕の推測にまず間違いはない筈だ。


 そして、そのコピペが彼の辞世の句となった。こんな短く単に行先を示したコピペが彼との最後のやりとり? 冗談にも程かある、と彼と共に秋葉原に買いに行ったスマートフォンケースの中に佇む無機質な黒い端末に目をやりながら、僕は思った。


 次にスマートフォンのケースを取り外した。このスマートフォンケースは彼との最後の思い出の品だ。これが割れてしまっては、もう彼との関係を示す実体がある物は何もなくなってしまう。ある意味スマートフォンが割れることよりも重要な物だ。だから、ケースを取り外す必要があった。馬鹿げていて子供じみた行動だが、これから何が起ころうとも、それだけは譲れなかった。


 僕はその姿が露わとなったスマートフォンを後ろポケットに入れ、椅子から立ち上がった。


 彼の最後となった北船橋駅に向かうためだ。


 部屋から出てすぐそこにある玄関口を抜ける。両親と妹住む古びたマンションの共有スペースに出た。と言っても僕の家のドアの前だから、本来であれば僕たちの敷地であるとカウントすべきだ。だが、不動産屋の大人たちは何故かそのマンションの共有スペースという詭弁を使い、それを僕たちの物として使わせない。だから、壁の窪んだ位置に僕の家があるのにも関わらず、その手前には何も僕たちの荷物を置いていない。


 そんな馬鹿げた背景を持つ玄関先から、身体を前へとやり、少し汚ない通路に出て、その先を進んだ。エレベーターで下まで行くと、小狭いエントランスを抜け、最寄り駅へと向かった。


 最寄り駅の電車に乗った。今は平日しかも昼間なので車内にはほとんど人がおらず、悠々として黄緑のシートにに座り込むことができた。

 

 あの事件の被害は、朝、夕方に集中しているので、わざわざこの時間帯を選んだ。何をするかと言えば、もちろん彼の殺害された現場を調べることだ。そのために僕は一度も休んだ事のない学校を初めて休んだ。それもずる休みだ。


 彼が何かに殺された時の状況を頭に思い描く。その際の監視カメラの映像は公表されておらず、ネットの動画サイトにもアップされていない。なので、そのすべてが僕らのウェブサイトの書き込みか他サイトに落ちている文字情報に頼って想像するしかない。


 彼はプラットホームから落とされる時に一回、線路沿いで一回の計二回何者かに身体が押されたようだ、というのがそれらの情報を取捨選択した結果わかった。もちろんネット情報なので不確かだが、それは警察の発表もマスコミのニュースも同じ事だ。


 そして、その二回目に押された時の彼の恐怖に怯えた顔が想像の中でちょうど頭に浮かんだ頃、北船橋駅に着いた。


 壁際に置かれているコンクリートに打ち付けられたベンチに腰を下ろした。すぐに腕とそのベンチの手すりを持ってきていたロープでくくり付ける。これでどうやっても下に落とされる事はない。何しろ身体を押されたとしても、このロープとベンチが防波堤となり、何をどうやっても僕の身体はこのプラットホーム上に滞在する他ない。


 そう思ってから、視線を前に向けた。次に

現在の状況を観察するため、周囲を見回した。


 北船橋駅のプラットホームには人がまばらにいた。僕の近くを何人か人が通り過ぎる。少しおかしな行動をしているのにもかかわらず、その全員が、僕の事を気にしているような素振りは見せなかった。また、身の危険を感じるような気配もない。どうやら、ゆっくりと現場検証ができそうだ。


 そう思った矢先の事だった。

「偉く警戒しているよう――でも、それだけで安全が確保できるとでも思って――」

 良く聞き取れなかったが、そのような事を述べる男の声が聞こえた。

 目の前に人が数人歩いているが、先程と同じく誰もこちらを見ていない。そして、その口は一様に固く閉じられていた。


 そして、周囲をもう一度確認しようと顔を横にやった時、何か違和感のようなものが僕の身を襲ってきた。


 繋ぎ止めていたロープと僕の腕が離れていたのだ。それに気がついた次の瞬間背中を押された。それは誰かの右手によるものだった。


 前へと転びそうになったが、何故か身体のバランスが元に戻った。


 また背中を押された。


 僕はよたよたと前へよろめきながらも全力を振り絞って身体を後ろへと振り向けた。誰の姿もベンチ側にはない。誰かに押されたのが嘘のようだ。なお、振り返った際、周囲を歩いていた人々の姿が目に入ったが、その全員が何事かと呆気に取られているようだった。彼らと僕の距離は相応にあり、彼らが僕にこのような事を行なっているわけではなさそうだ。


 そして、また押された。

 今回は胸だった。


 そこで急行の車輪が奏でる地響きが僕の耳に入ってきた。


 また押された。


 踏ん張った足が後ずさる。スニーカーの底が鈍く擦れる音がした。そのスニーカーの底と密着しているプラットホームの床を構成するコンクリートの摩擦力ではその後耐えきれないことは明白だった。


 僕はポケットから急いでスマートフォンを取り出した。誰かにこの事を伝えなければならない気がしたからだ。周囲にいる人々はこれに巻き込まれまいと身を後ろにやっており、僕を助けようとする者は一人もいなかった。


 適当にスマートフォンの画面を押した。すると、誰かと通話が繋がった。画面を見ている余裕などなかった。また誰かに身体を押されたからだ。


 その後何度も押された。


 身体を前にやっても抗えず、スニーカーは何度もずさずさとした音を立てて、後ろへと下がる。僕の身体はその度に走ってくる急行電車の先頭へと近づいていった。


 また押される。

 また押された。

 もう一回押された。

 さらに押された。

 押された。


 もう間もなくプラットフォームの外れだ。急行電車の窓ガラスからそれを運転する車掌の怯えた顔が見えた。そこでもう一回胸を押された。ぐしゃりと鈍い音がした。血とガラスと肉片と目玉が辺りを舞い散った。


 そして僕は男子中学生・Oとなった。

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