005 CASE030 IT関連企業男性社員・G

 時刻は夕方五時を回った。夏だからというわけではないだろうが、窓から見える景色はまだ明るい。まるで久しぶりにこの時間帯に帰れる俺を祝福しているかのようだ。俺は席を立ち上がりながらそう思った。


「お疲れ様です」

 そう小声で言って、急な仕事を振られないように、そそくさと正面にあるドアへと向かう。フレックス制である俺の出向先のこの会社において、本来であればコアタイムさえオフィスにいれば、例え協力会社の人間だとしてもそれ以外の時間に帰って問題ない。だが、それは建前のみで、この時間帯付近に俺のような人間が帰宅すると、いつも気まずい雰囲気がその場に流れる。なので、可能な限りまるで手洗いに行くかのように会社を退散するのが帰宅時の鉄則だ。


 会社のエレベーターへと向かった。すれ違う人々は全員正社員であるらしく、いつもの通り出向社員である俺の行動など眼中にないようだ。彼らにとって、仕事を依頼していない時の俺は、ミジンコのような存在であるからそれは当たり前で、彼らは俺の帰宅時の障害にはあまりならない。


 気を付けなければならないのは、デスクを共にする俺と同じ出向者である別の会社の人間たちだ。彼らとは常に足の引っ張り合いを行う仲だ。自分たちより先に帰宅させまいと、どんな嫌がらせや妨害工作を受けるのかわかったものではない。

 その中でも最も危険であるのは、事あるごとに俺を出し抜こうとする俺の所属する会社のライバル会社の男だ。この場で出くわそうものなら、正社員の奴らがいる前で、俺が早期に帰宅することを言いふらす。自らの立場を俺より上げてより良い待遇を得ようとするような姑息なやつ。立場が低く波風を立てたくない俺からすると迷惑でやっかいこの上ない。可能であれば同じ仕事をしている時でさえ話したくはない。


 とそのようなことを言うと、俺がさも彼を恨んでいるかのように聞こえるが、俺は彼の行動はある意味当然だと思っていた。俺たちにとっての上級国民であるこの会社の正社員たちにより、使い捨てカイロのような出向者である俺や彼のような人間は、そのような競争をするよう常に煽られているからだ。


 その上級国民たちにより、コロッセオの奴隷剣闘士のように俺たちは扱われているのだから、奴隷同士が少しでも自らの待遇を少しでも良くするため、もしくはいつ勝ち取れるかもわからない名誉市民の資格を得るため、そのように醜く争いあうのは至極自然のことだ。


 幸いその彼とエレベーター前で出会うことはなく、そのまま下に降りて会社の外に出ることができた。その会社の前にある通り沿いを100メートル程行くと、北船橋駅へ通じる道がある。

 横断歩道を通るため、周囲を確認した。再び前へと視線を戻した時、その先に数人の集団が現れどきりとしたが、それは会社の人間ではなかった。俺は会社の誰にも見つからないよう細心の注意を払いながら、少し先にある北船橋駅へと向かって行った。


「あれ? もう帰りですか?」

 その北船橋駅の駅の改札を抜けた時、俺の最も会いたくなかった例の彼が、ごった返す人波の陰から突如として俺の目の前に現れ言った。

「はい、そうです」

 俺は短く答えた。

「いや、僕はね。今からお客さんのところに行くんですよ。いいですね、早く帰れる人は」

 と、嫌みな口調で言ってくる。


 もうお互い会社の外にいて、出向社員同士なんだから、仲良くすればいいものをとはもちろんいかない。それほど俺とこいつは因縁深い間柄だ。

 

 この事から何かさらに嫌みを言ってくるかと思ったが、近くに出向先の会社の正社員がいないせいか、彼はそれ以上何も言うことはなかった。


 そのまま何となくなし崩し的に、ふたりで近くにあった登りエスカレーターに乗った。呉越同舟であることもあり、お互いに何も言葉を発しなかった。


 沈黙を貫いたまま、プラットフォームに出た。少し先の方から電車が駅構内の線路に入ってくる音が聞こえた。速度を落とす気配が感じられないことから、それは急行電車であることが、電光掲示板を見なくてもわかった。当然その急行電車はこの古臭い駅に止まることはない。


 俺はまだこいつとしばらく一緒にいなければならないのかと、表面にはおくびにも出さず、胸の内のみで深く吐息をついた。それは少し後ろにいて、俺の視界にも入ろうとしない彼にとっても同じ事を思っているに違いなかった。

 

 そんな事を考えている時、誰かに背中を押された。背骨に残っていた手の感触からすると、どうやらそれは何者かの右手による犯行であるらしいことが判別できた。


 明らかに意図した悪意に満ちた強い力。その意志の強さに比例するかのようにプラットフォーム下へと俺の身体は落ちそうになった。


 俺は咄嗟に背後にいた例の彼の腕を引っ張った。経験則からまず間違いなくこいつが押したのだろう、と思ったからだ。だが、俺が掴んだのは彼の左腕だった。そして、俺か位置していたのはその彼の左側だ。彼は右手に鞄を抱えており、どう見ても右手で俺を押せる状態ではなかった。


 ということは、彼が最もその動機が強いように思えたが、どうやら俺の背中を押したのは彼ではなさそうだ。プラットフォーム外に身が投げ出されそうになりなからも俺は瞬時にそう考えた。


 俺の身体に起こった事態にすぐ気がついた彼は、その様子を見るや否や、意外にもその場に鞄を投げ出し、両手で俺の身体を掴んでから、後方へ俺を引っ張り上げようと身体の体重を後ろにやった。そのおかげで俺の身体はすぐにバランスを取り戻し、またプラットフォームの通路側へと全身が戻った。


 こちらへと向かってくる急行電車が造った風が柱に跳ね返り、俺たちの髪の毛を吹き付ける。急行電車の先頭が俺たちの横を突き抜けるまでもう間もなくだ。彼がいなければ、もう少しで引かれるところだった。俺はそう思った。胸の動悸はまだおさまらないが、心はずいぶんと平静さを取り戻しつつあった。


 だが、そんな俺が安堵した表情を彼に向けた次の瞬間だった。その彼の方が俺の時よりさらに強い力でおそらく誰かに――何かに背中を押され、そのままプラットフォーム下へと彼の身体は向かっていった。


 すでに態勢を整えていた俺は彼を引っ張り上げようとして、再び彼の腕を掴んだ。


 だが、そのタイミングで屈み込むようになっていた俺の腰を、また誰かが強く押した。先ほどと同じように誰かの右手の感触が俺の皮膚の奥に残った。

 線路へと転落するふたり。急行電車は紛う事なくもう目の前だ。歯ぎしりをしたくなるような警笛の音が間近で鳴った。


 俺と彼は、おそらく先程までお互い絶対に同時期には死にたくない間柄だったのだが、図らずもその同時期に身を寄せ合いながら電車の車輪に巻き込まれ死んだ。

 

 その結果、どちらがより長く生存していたのかは、細かい肉の塊となった今ではもうわからない。

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