本文
※冒頭から8ページ程度※
【プロローグ】
『号外! シシド平野で閃光発生! 隕石落下か!? 原因究明が待たれる』
月夜の下。
そんな文言の記された瓦版と手綱を握りしめて、
アラヤは美しい犬獣人の少女だ。犬の相は薄く、透き通った肌に白くてふわふわの髪と犬耳、袴からぽこんと突き出た尻尾程度。ポメラニアンの相だ。大きな瞳には、強い意志を感じさせる光を湛えている。
黒い羽織袴が風になびき、腰に佩いた大太刀が揺れた。
見る者が見れば、それがサムライの装いだとわかるだろう。天下に名を轟かせる、
(……そろそろ、隕石落下予測地点です。)
すでにシシド平野に入り、半刻ほど走っただろうか。
アラヤは目を細め、騎犬の首をそっと叩いた。
「ガクマル。あそこ、見えますか」
わん、と騎犬ガクマルが応じた。
シシド平野の、背の低い茂みの中に、大きくえぐれるように穴が開いている。
穴の中央には、丸い円柱状のなにかが突き刺さっていた。
(やはり……。)
ごくり、とアラヤは唾を呑んだ。
ただの隕石ではないらしい。
……話は一刻ほど前、玄氏幕府家老の銅鐘チユジに呼び出されたことから始まった。
●
銅鐘チユジは壮年の犬獣人だ。アラヤと違って犬の相が強く、青い
玄氏城の座敷に、その家老がどっしりと座って、アラヤを待っていた。
「夜分にすまんな。寝ておっただろう」
「いえ。家老殿の命とあらば、即座に参りますとも」
家老といえば、将軍に次いで権力を持つ役職。ただのさむらいであるアラヤにとっては、なにかを請われて断れる相手ではない。
「火急の用とお聞きしましたが」
「明日朝に出される瓦版だ。配られる前に押収した。見ろ」
銅鐘チユジが、ぱさり、と座敷に紙束を投げた。
アラヤは一瞥し、首をかしげる。
「……隕石、ですか? 我が玄氏幕府の領土ですが、シシド平野は人の住む場所ではありません。被害対応するほどではないと思うのですが」
ドーベルマンの鼻先が、ひくり、と動いた。
「『はぐれ神』かもしれん」
「まさか! なにか、確証が……!?」
銅鐘チユジは首を横に振って嘆息した。
「もちろん、隕石かもしれん。その可能性は高い。だが……ミャウライヒの
「……猫たちが、玄氏幕府領に落ちたはぐれ神を回収するつもりだ、と?」
「可能性の話だ。隕鉄を求めているだけ、という可能性もある。かの帝国はいま、からくり技術に傾倒しておるからな。だが……」
眉をひそめるアラヤに、チユジが黒い瞳を向けた。
「わずかな可能性であっても、はぐれ神であれば……是が非でも手に入れたい」
「手に入れる、ですか。神様を」
「そう苦い顔をするな、褒倉。若は……玄氏カコウ将軍は、まだ幼く、力も後ろ盾もない。ここで『はぐれ神』を確保しておけば、若の治世は盤石のものとなろう」
銅鐘チユジは、ぱん、と握りしめた瓦版で膝を打つ。
「よって、褒倉アラヤよ。すぐにシシド平野に騎犬を走らせ、貴様が確認してまいれ。もし隕石であれば、構わん。ミャウライヒには外交筋から抗議する。しかし『はぐれ神』であれば……猫どもから守り、必ず連れ帰れ」
もちろん、断るという選択肢は、アラヤにはない。
「はっ。御意に。すぐに向かいます」
●
そうしていま、
幸いにも、猫たちはまだ辿り着いていないらしい。
隕石によって生まれた大穴の中央に刺さっているのは、縦長の円柱状のなにかだった。
ちょうど、獣人一匹がすっぽりと入るくらいの大きさだろうか。どう見ても隕石ではない。
「ガクマル。ここで待っていて」
ばう、と鳴く騎犬の首筋を撫でて、アラヤは大穴の斜面を滑り降りた。
円柱に近づくと、それがつるつるした金属製であるとわかる。
触れると『ぱしゅ』と各部から空気を噴いて、変形し……観音扉のように開いていく。中には、気配があった。
おおよそ、この世のものとは思えないほどに濃密な魔力。
アラヤは確信した。
(神様です。はぐれ神が、降臨なさったのですね……!)
慌てて膝を付き、首を垂れる。
「我が名は玄氏幕府がサムライの一匹、褒倉アラヤと申します! ご降臨をお待ちしておりました、神様!」
失礼のないように、と告げた言葉に、「あのー」と頼りない声が返ってくる。
アラヤがおそるおそる顔を上げると、若い創造神族と目が合った。黒髪黒目で、獣耳も尻尾も鱗も角も毛皮も牙もなく……一切の、ケモノの相がない。
間違いなくはぐれ神で――その神様は、多数のケーブルに逆さまに吊り下げられるという滑稽な格好で、アラヤを半目で見ていた。
「僕、神様じゃないんだけど」
【一章】
僕は動物が嫌いだ。
どれくらい嫌いかっていうと、できれば半径五メートル以内には入ってほしくない程度には嫌い。
やつらがいると部屋が毛だらけになるし、臭いも気になるし、お気に入りのクッションをずたずたに引き裂いたりするし……総じて、一緒に暮らしていいことなんてないのだ。
だから、コールドスリープポッドから目覚めてケーブルにがんじがらめにされているのに、犬耳コスプレ女にふざけたことを言われて、むっとしてしまった。
「ふざけたこと言ってないで、おろしてもらえないかな」
目の前の……なんだ? このコスプレ。
白いふわふわの毛に、同じ色の丸っこい犬耳と尻尾を着けて、そのくせ格好は和装で黒袴に黒羽織、腰にはでっかい刀を帯びている。いかつい格好だけれど、犬耳に加えて、きらきらくりくりした瞳が全部の印象を台無しにしていた。
「ふざけているわけではないのですが……」
犬耳コスプレサムライは、何がそんなに嬉しいのか、わふ、と微笑みながら僕をがんじがらめにするケーブルに手をかけた。
「説明は、のちほど。まずは玄氏城までお連れ致します」
「え? どこって? なに城?」
ケーブルを解かれながら、なんとなく周囲を見渡す。背の低い草の生えた平地で、まばらに生えたくすんだ緑色の茂みが、月の光に照らされて影を作っていた。
「……ここ、どこ? 日本……じゃ、ないよね。アメリカ?」
「玄氏幕府直轄領、シシド平野です」
知らん。どこだよ。
僕は両手で顔を覆って、寝起きでぼやけた脳を必死に動かす。
そうだ、僕はずっと眠っていたはずなのだ。
コールドスリープすることになったのは、厄介な持病のせいだった。
長ったらしい正式な英語の病名は割愛するけれど、症状はいたってシンプルで……要するに、骨がぼろぼろになって消滅してしまう病気。重度の骨粗しょう症のようなもの。何百万人にひとりだかの確率でかかってしまったソレのせいで、僕の大腿骨を含む全体の四割の骨が消滅した。
二十世紀の医療では解決できない病気を治療するため、僕は冷凍休眠処理され、医療用ポッドに詰め込まれ、未来へと打ち上げられた。……と言えば聞こえはいいけれど、要するに問題の先送りだ。
太陽光によって自家発電する小型のひとり用宇宙船、あるいは冷凍棺桶の中で、持病を治せる技術が生まれるその時まで、数十年か……長くても百年ほど、僕は眠っているはずだった。
なのに、目覚めた僕を迎えたのは笑顔のお医者さんではなく、広い平野と犬耳コスプレサムライ女だった……。
という現状を、改めて理解する。ふざけやがって。どんなドッキリだ。
絡まったケーブルから降ろされて一息つき、改めて犬耳コスプレ女を見る。白い髪、透き通るような肌にくりくりした大きな瞳。はっとするほどの美少女だけれど……何のキャラだろう。僕が寝ているあいだに流行ったアニメだろうか。
平野に立つと、貫頭衣に裸足だったから、土と草の感触がちょっと気持ちいい。
「……おろしてくれてありがと」
「わふ。当然のことです」
犬耳がぴくぴくと動いた。どういう仕掛けだろう。まるで本物の耳みたいだ。
「……僕はイサナ。イサナ・コンドー。イサナが名前で、コンドーが苗字。日本生まれ、日本育ちの十六歳。……ええと、褒倉さん? だっけ? そんで、結局ここはどこなの?」
「拙者のことは、どうかアラヤとお呼びください。ここは玄氏幕府直轄領、シシド平野です」
またそれか。
「……あのさ。そういうの、いいから。少なくとも言葉が通じるから、日本だよね? でもこんな平野は見たことないし……あ、もしかして北海道?」
「ええと、申し訳ありません。神々の国がどこにあるかは、拙者には到底わからず……」
「神々の国って、北海道が? なにそれ? これさぁ、どういうドッキリなの?」
「……ううむ。やはり拙者には、少々説明がむずかしゅうございます」
褒倉アラヤは困ったように頬を掻いた。
「玄氏城に戻れば、家老殿よりいろいろと説明がございましょう。ひとまず、そちらへ」
そして、ぴゅい、と指笛を吹く。
なんだなんだ――と思っていると、ポッドの前に信じられないものがやってきた。
「う、わ……な、なに、こいつ」
馬鹿でかい犬だ。
牛や馬ほどの大きさの……ダックスフントである。
きりりとした顔で正面を見据えていて、黒くて長い胴には鞍が三つも乗っかっている。
「どうぞ。ガクマルはこう見えて力持ちで、足も速いのです」
「あー……」
口から変な声が漏れる。
なんだこれ。こんなでっかいダックスフント、見たことない。
口をパクパクさせてから、僕が捻りだした言葉は、
「その、僕、動物嫌いなんだけど……」
という、かなり間抜けなもののだった。
ガクマルの背中は意外と高くて、鞍を掴んで体を引っ張り上げようとしても、うまくいかない。四苦八苦していると、アラヤが微笑んだ。
「お手伝いいたしますよ」
「いらない。……自分のことは、ひとりでやるから」
「ですが……」
「いいから。そういうポリシーなんだ」
なんとかガクマルの背中によじ登って、走り始めてすぐのことだった。
アラヤが手綱を引いて、ガクマルを急停止させたのだ。
「わっ、なに!?」
「イサナ様。しばし、お待ちを」
「様はやめて。なんか変な気分になる」
「では、イサナ殿で」
アラヤは鞍からひらりと飛び降りて、「なにやつですか!」と言い放った。
近くの茂みから、がさがさと音を立てて、カーキ色の軍服に身を包んだ男女が六人も出てきた。……今度は犬耳ではなく、猫耳だった。手には、おそろいのごつい銃を持っている。
戦闘に立つ男が、僕やアラヤをじろじろと眺めまわして、呟いた。
「……臭いは消したつもりだが。よく気づいたな、犬」
「どれだけ臭いを消したところで、殺気を消せなければ意味はありません」
アラヤはすまし顔で答えた。
「何用です。迷子の子猫……というわけでもありますまい」
「ふん。わかっているだろう。そちらのニンゲン、我らミャウライヒがいただいていく」
そちらのニンゲン――というのは、僕のことか。
「ここ、シシド平野は我ら玄氏幕府の領土。武器を持って堂々と領土侵犯した挙句、神様を強奪しようとするとは。ミャウライヒ陸軍の矜持は失われてしまったようですね」
「レックス大佐は『なにがなんでも連れ帰れ』と仰せでな。上官の命令に従うのが、兵士の矜持だ」
「……なるほど。お互い、苦労しますな。イサナ殿。ガクマルの背で、少々お待ちくださいませ」
褒倉アラヤは、腰の大太刀をずらりと引き抜いた。
「国際問題になるのも面倒です。
「ほざけ! イヌ風情が! 穴だらけにしてくれるわ!」
猫耳軍服コスプレ集団は、一斉にマシンガンみたいな武器をアラヤに向け、叫んだ。
「魔力充填! 掃射開始ィ! ニンゲンには当てるなッ!」
電光石火、という言葉が脳裏に浮かんだ。
褒倉アラヤは射撃が開始されるよりも早く、兵士たちのあいだを走り抜けたのだ。
月光に照らされた白い毛のさむらいの軌跡が、いなずまみたいに見えた。
ちん、と音を立てて大太刀を納刀すると、どさどさと猫の兵士たちが平野に倒れ伏す。
いつ刀を振るって、どう気絶させたのか、僕にはまったくわからないけれど……褒倉アラヤが達人なのだ、ということだけは、わかった。
唖然とする僕に気づいたのか、褒倉アラヤは嬉しそうに頬を掻いた。
「拙者、こう見えても遠吠一刀流免許皆伝なのです。機械に頼り切った猫には負けません」
●
そうして、僕は再びガクマルの背で揺られながら玄氏幕府なる街に到着した。
……ただ、コールドスリープ空けで思いのほか疲れていたのか、ガクマルの背中で爆睡してしまい、気が付くと翌日の昼だった。
座敷に敷かれた布団で目覚めた僕は、いつのまにやら浴衣のような服に着替えさせられていた。傍らには白い髪の犬獣人……褒倉アラヤと、時代劇でしか見たことがないような立派な裃を着たドーベルマンがいた。
ドーベルマンの名前は、銅鐘チユジというらしい。玄氏幕府の家老だという。面食らったけれど、ガクマルほどの衝撃ではない。
「整理すると……整理すると、だけど」
なんとなく、現状を理解しつつあった。
「この世界には獣人しかいなくて、みなさん獣人の『創造神』は、空から降りてくるんだね? だから、医療用ポッドで落ちてきた僕を見て、神様だと勘違いしたと」
「いいや、イサナ様」
渋い声で応じるチユジから、窓に目をやる。障子の外に広がる風景は、古い時代劇で見たような、江戸の街並みに近いものだ。長屋に灯篭、行きかう和装の人々……ただし、その頭には犬耳がくっついていて、腰からは尻尾が生えている。
都市国家『
「イサナ様がニンゲンだとおっしゃるのであれば、それこそ神様で間違いございませぬ。我らが創造神族様とあがめるのはまさしく『ニンゲン』でございますゆえ」
「チユジさん、様づけはやめてほしいんだけど」
「はっ。では……イサナ
「もっとやめて」
はあ、と大きなため息が漏れた。
もはや、ドッキリを疑う余地はない。これが僕の見る夢とかじゃないのであれば……この世界は、少なくとも地球ではない。
「あなたたちのいうニンゲンと僕は、たぶん違う種類だよ。そもそも、同じ世界なのかどうかもわかんないし……あっ」
「どうなさいました?」
ぺたぺたと自分の体を触る。筋肉はないけれど、しっかりしている。日本の脚で歩けてもいる。
「僕の骨……ある……!」
だいぶ間抜けな言葉が出てしまった。
「わふ。拙者も骨は大好きです。いつまでも噛めます」
ちげえよ。
気づくのが遅すぎたけれど、長ったらしい名前の病気を感じさせない程度には、骨がしっかりしている。消滅したはずの脚の骨すらもある。
「骨に、病気があったはずなんだけど……治ってる」
「ふむ。褒倉、わかるか」
「……失礼いたします」
アラヤの手がすっと伸びてきて、僕の顎に触れた。
「な、なんだよ」
「しばし、そのまま」
じっくり、いろいろな角度から僕の顔を見てくる。時折、鼻を近づけてくんくんもしてくる。犬のような仕草ではあるけれど、顔面は真っ白な美少女なので、大変心臓に悪い。
ややあってから、アラヤはうなずいた。
「……なるほど。骨に魔力が充填され、魔石化しているようですな。それによって、強度を保っている……というより、より強靭になっているのではないかと」
「……よくあることなの?」
「まさか。骨の代わりに魔石を詰め込むなど、前代未聞です。一流の魔術師、呪術師でも不可能でしょう」
「魔術師とか呪術師がいる世界なんだね……」
ともあれ、すかすかになった骨に『魔力』とやらがみっちり充填されて、僕の体を擬似的な健康状態にしている……らしい。健康になったと喜んでいいものかどうか。
もう一度、窓の外に目を向けてみる。青い空、白い雲、明るい太陽――それから、玄氏幕府の街並みに、行きかう獣人たち。
ポッドが地球の惑星軌道上を外れて、宇宙を数千年も漂い、獣人しかいない星の不時着したのか。
あるいは、にわかには信じられないけれど、僕はあの円柱状の宇宙棺桶の中でとっくにくたばっていて、哀れに思った神様がファンタジーの世界に送り込んだのか。
異世界転生させるなら、この世界以外にしてほしかった。
動物嫌いを獣人の世界に送り込むなんて、なんて性格の悪い神様なんだろう。
※100ページ前後(見開き)【三章】終盤地下水道でのシーン※
アラヤの手が、僕の頬に触れた。
無理な魔力強化のせいか、内側から弾けて皮膚はずたずたで……真っ白な髪も耳も尻尾も、血と泥で滲んで黒く汚れてしまっていて。
「……はしたない姿を、お見せしてしまいましたな」
けれど。
「ううん。そんなことない。アラヤは……ずっと、きれいだ」
「嬉しいことを……おっしゃる」
「待ってて、すぐに治すから。『治れ』……!」
魔力を集めて、注ぎ込む。人間の指令を受けた『M461.C』が細胞単位で傷を治療していく……けれど、利きが悪い。
アラヤはぼんやりとした光を湛える瞳で僕を見た。
その瞳に、おぼえがあった。……迫りくる死を見据える者特有の瞳。
ずきり、と胸が痛む。
「……泣いておられるのですか、イサナ殿」
「だめだ、アラヤ。だめ……いかないで」
「……それは、むずかしゅう……ございますな」
アラヤは困ったように笑った。なんで笑えるんだよ。
僕なんかのために、死にかけてるっていうのに。
「……チユジさんに、僕を救えって命令されたんだろ。そんなの、無視しとけよ。僕のために、幕府のために死ぬなんて、そんなの、そんなの……」
アラヤは薄く息を漏らして、力なく笑った。
「違いますよ、イサナ殿。銅鐘殿は……拙者に『待て』と命令なさったのです。ミャウライヒと本格的に敵対するわけにはいかない、外交的手段を模索するから、と……」
「チユジさんは、アラヤを止めたの……?」
こくり、と白い顔がうなずく。
でも、そうすると、アラヤは。この命令に忠実なサムライは。
「無視、してきたの? 『待て』って、言われたのに?」
「はは。無視、では……。きちんと
信じられなかった。サムライであることに誇りを持つアラヤが、サムライの身分を捨ててまで、ミャウライヒに突っ込んできたなんて。
「なんで……なんで、そんな……!」
「どう、しても。イサナ殿に、言わなければならないことがあった、の……です」
アラヤはそこで、大きくせき込んで血を吐いた。
下水道は暗いし、アラヤの黒い羽織袴の色もあって、正確にはわからないけれど、失っていい量の血だとは思えなかった。
「だめだ、アラヤ。もう喋っちゃだめ、ああ、くそ……! 『治れ』……!」
再び魔力を集めて、アラヤを治療しようとする。
けれど、大昔に滅んでしまった未来人どもが作った厄介な人間専用の人工粒子は、獣人の体を結合させてはくれなかった。
「イサナ殿……」
「喋るな、アラヤ」
じっ、とアラヤの瞳がイサナを捉えた。
「……申し訳、ございませんでした。イサナ殿、の……ご家族のことを、聞いていたのに。拙者は、夜伽の命を断らず……お気持ちを、踏みにじってしまい、ました」
呆れて、とっさになにも言えなかった。
「……このばか! そんなこと言うために、わざわざここまで来たのか!」
こいつは、ほんとうに。
ほんとうに……。
「『治れ』! 『治れ』って! アラヤ、謝りたいなら、生きて謝れ!」
「はは。それは……むずかしゅう、ございますな……」
そう言って、アラヤは笑って。
笑って……瞳を、閉じた。
震える指先を、口元に持っていく。……息を、していなかった。
だめだ。だめだ、だめだ、だめだ!
「アラヤ、『治れ』――『生きろ』! 頼むから!」
僕はアラヤの鼻をつまんで口に口を押し当て、目いっぱい息を吹き込む。
互いの血肉の味がした。肺が胸を押し上げ、けれど……それだけ。
「ぷはっ、くそ、くそぉ……っ! 『生きろ』! 魔力、もっと魔力が……」
周囲の魔力が、尽きている。吸い取りすぎた。だったら。
「僕のを使え、僕の……『僕の全部を使っていい』! だから『生きろ』、『生きてくれ』!」
まずは僕の脚から、魔力が抜けた。僕自身の肉の重みを支えきれず、痛みが走る。大腿骨が……その代わりを果たしていた魔石が、消えたのだ。
「っつ……!」
痛い。でもそんなのどうだっていい。
骨にみっちりと詰め込まれていた魔力をぜんぶ、アラヤに注ぐ。人工呼吸も何度もおこなって、けれど、けれど……。
アラヤはもう。
動かなかった。
「……やれやれ。気は済んだかね。ンン?」
ざらついた女科学者の声が、背後から響く。
ゆっくり振り向くと、にやにや嗤うレックスが、僕を見ていた。背後には兵士たちもいる。
「……なんだよ、クソ猫」
「死ぬまで待ってやったというのに、なんだその言いざまは。やはりニンゲンは下等だな、状況把握すらまともに出来んとは」
レックスは笑みを消して、手を振った。
「連れていけ。今度逃がしたら貴様らの髭を一本残らず引きちぎってやる」
「はっ、はいっ! おらニンゲン、こっちに来いッ」
「おい、アラヤに触るんじゃ――」
がっ、と僕の側頭部で音がして、視界が急に横転した。
殴られて、倒れたのだ……と、一拍遅れて気づく。
「ふん。護衛のない貴様など、毛ほども怖くないわ」
「閣下、犬ざむらいはどういたしますか」
「知るか。ゴミ捨て場にでも捨ててこい」
やめろ、と声を捻りだそうとしたけれど、僕の唇はどうしたことか、震えながら吐息をこぼすことしかできなかった。
暗くなっていく意識の中で、それでもなんとかアラヤのほうに手を伸ばそうとして――。
「まだ意識があるな。もう一発いっとけ」
「はっ! せいっ」
そこからの記憶は、ない。
③けもの嫌いとポメざむらい 巨大ねこ帝国の野望 ヤマモトユウスケ @ryagiekuru
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