生存指標

大出春江

生存指標

 12月の初め、雪国と持て囃されるここ北海道は、例年に比べて雪が少ないようだ。しかし、雪が少ないから寒くない、なんてことは断じてない。気温はマイナスであることが普通で、「2度」と言ったら「マイナス2度」のことを指すのが普通である。もっとも、つい2年前に大学入学を機に越してきた私としては、未だに慣れない表現ではあるが。

 時刻は23時を過ぎたころである。山の中である。なぜこんなところにいるのかと言われれば、当然といえば当然であるが、死にに来たのである。そう、私という人間は、どうにもこうにも今に疲れ果てて、雪国の山の中を、死に場所に迎えてやろうと、こんな時に限って一丁前な行動力で山中に足を運んだのだ。今に疲れ果てた、なんて言い方をすれば「さぞお前はご立派に頑張ったのだな」だなんてことをそこらの木々が囁いてくるようだが、私が思うに、私という人間は、何も成さなかったからここにいるのだと思う。


 事の発端は一週間前である。一週間前? そんな直近の出来事に疲れた程度で自死を選ぶものか、と思うだろう。そうである。そんなことで死にたいのである。一週間前、数年を共にした彼女が亡くなった。まあ、待ってくれたまえ。なにも惚気のろけ話をしたいわけではないのだ。


 彼女と出会ったのは、高校の一年の時。私は人と話すのが面倒な性分で、ろくに人と話そうとは思わなかったし、それでも構わないとそう考えていた。そんな私の隣の席に、それもまた随分と不景気な顔で座っていたのが彼女である。

「君、私と生徒会に入れ」

「私が?」

「そうだ」

 あまりにも唐突に会話が始まった。

 高校に入って初めての会話がこんな形で始まるとは思いもしなかった。

「理由を聞いてもいいですか?」

 そう聞くと彼女は。

「君は、勤勉な顔立ちをしている。生徒会長なんかには向かないだろうが、これ以上ない裏方の才を持っているだろう。君は生徒会に入るべきだ」

 一切の遠慮もなく、また茶化すような話し方でもない。恐怖を覚えるほどに真剣な眼差しで勧誘してきたことを鮮明に覚えている。

 しかし、私も黙ってはいなかった。

「見ての通り、私は人と話すのが得意ではないですから、あなたとともに生徒会に入っても悪目立ちをするだけでしょう。そもそも、生徒会に入りたければお一人で入られては?」

 今にして思うが、随分と素っ気ない返しである。いや、内心では「君は何様のつもりだね」と、そう思っていたのだから、仕方なくもある。

「悪目立ちもなにも、君も知っての通り、この高校は全日制じゃない。週に数日行くだけの通信制だ。悪目立ちも何もないさ——。それと、まあ、入るのは私だけでもと思ったのだがね……」

 そこまで言って、彼女は一呼吸置いた。


「——心細いのだよ、私も」

 目の前に、虎と鼠がいるような感覚。時に虎であり、時に鼠である彼女に、私という人間は、人生で最初で最後のように思えるが、一目惚れをしてしまったのである。恋どころか他人に対して一切の興味を示さなかった人間が、まさか、こんなにも一瞬で堕ちてしまうとは。

 私という人間が、なんとも愚かに見えてきた。

「そういうことなら、わかりました」

「助かるよ、ありがとう。早速用紙に記入してくれ」

 引き下がる気など無かったのか。はたまた、私でダメなら他の誰かに頼っていただろうか。そんなことを考えながら、自身の名前を丁寧に記入していく。

「君——、さてはギャップやらなんやらに弱いな?」

「いやいや、そんなことは……」

「——ま、いいか。キャッチセールスなんかには気を付けるんだよ」

「あなたの思う5倍は気を付けてますよ」

「ならば、その5倍だ」

 彼女との出会いは、こんな感じだった。


 それから色々、——本当に色々なことがあったが、実際に彼女と恋仲になったのは高校3年の夏であった。私から告白した、と言えば若干の語弊があるだろうが、事実のみを掻い摘んで話せば、私からである。彼女は思いがけずすんなりと応じてくれたのだが、お互い一目惚れで、高校最後の夏にようやくといった次第である。いや、まってくれ、これではやはり惚気話ではないか。

 彼女は、とにかく才に溢れていた。勉学も、運動も、洞察力も、弁論術も。唯一の欠点と言えば、感情があまり表情に出ない性分らしく、いざ人間関係を構築しようとすると、いつも初動で失敗するところだろう。しかし、最終的にはその人間関係の構築さえも上手くいくのだから文句の言いようがない。


 そんな人間とつい一週間前まで共に過ごしていたのだ。——いや、結局こんな惚気話をウダウダと話しはしたが、ハッキリと言ってしまおう。私という人間は、私が思う以上に、欲深く、嫉妬深く、だらしがなく、悪い意味でよっぽど人間らしいのだ。そんな醜い人間が、唯一の救いとしていた彼女を失ってしまったのだ。突如として世界から色という色を奪われたと表現しても、なんら過言でないのだ。

 私としても、なにも勤勉さの欠片もないわけではない。だが、それはあくまでも尽くすべきそれがあってこそ。あの日から、飯はろくにのどを通らず、一歩踏み出す気力も失せ、それこそトカトントンと聞こえてくるようで、ただ惰眠を貪るのみである。そして、そんな自分があまりにも惨めなものだから、今、こうして死出の最中にあるわけなのである。


 気が付けば雪が降り始めていた。コートの肩に積もった雪が少しずつ溶け出し、濡らし、それに体が反応したことで初めて雪の存在を認識したのだ。観測されなければ無いものと同じ、とはよく言ったものだ。あの日、ただ無口に席に座し、その一日を終えようとしていた自身の小さな姿に重なった。

 少し歩くと、遠くに、鈍くうごめく何か小さなものが見えた。近づいてみてみれば、キツネの子供であった。力なく倒れこんではいるものの、その微かな吐息や、こんな山の奥でしか聞こえぬ鳴き声を発していた。道の中央に落ちているそれを、私は、どうすることもできない。ただ、せめて草むらにでも動かしてやろうかと、自身の自尊心を満たすようにと、そう思った。その時、自身でも驚いたが、ふと口からこぼれるように呟いた。

「エキノコックス……」

 なるほど、それでは危なくて触れることもできない。あたりを見回すと、草むらの陰に、木の実がほんの数個落ちていたため、その数個を残らず集めて、子キツネの元に持って行った。

「私はもうすぐここを去る。もう、会うことはないだろうが——、お前がもし元気に生きていれば、また会うことも私とて、やぶさかではない」

 らしくもない台詞が、何故だか、口からスルスルと出ていた。

 私は、また歩き始めた。

 ふと思い出す。

 彼女はいつも「生きることは、なぜこんなにも美しいのだろうね」と、事あるごとに口にしていた。

 私には——解らない。生きることは汚れることだと、そう思うし、今の子キツネを見ても何も美しいとは思わない。ただ、皆平等に命をすり減らしているだけだろうと、そう思う。

 だが、もしも、それを美しいと表現するのだとするなら、

「それは、そんな表現ができるあなたが美しいからだ」

 呟く、一人。彼女と出会う前までは、ほぼ毎日のように独り言を呟いていたはずだ。しかし、何故だろうか。どうにもこの独り言が今だけは一層、寂し気に、女々しく感じられた。そんなことを感じていると、いやでも思い浮かぶのは彼女の声だ。私がこんな独り言なんて呟けば、気の利いた返しや、予想外の台詞を呟き返してくれるだろう。そんな彼女のように——彼女のように? いや、彼女と共に生きていられれば、どれほど——。

 暗闇と、寒さでそろそろ意識が危ういか、とそう感じた時。遠くに、今度はぽつんと光が見えてきた。いよいよ迎えが現れたかに思われた。——しかし、それは紛れもなく人工的な明かりであった。そこでようやく気付く。あのキツネに木の実をやって、らしくもない台詞を投げた後、彼女のことを考えながら、あろうことか来た道を返してしまっていたのだ。

 無機質で、どこか生ぬるいオレンジ色の街灯を受ける。湿ったコートに自身の温もりを感じ、「ああ、なんと愚かなことか」そう呟きながら、その身の醜さを心底思い知る。

 生きるとは何なのか。生きるとは美しいのだろうか。しかし、それは今もわからない。いや、分かるが、解らないし、きっと判らない方が美しいのではないか。

 どうでもいいか、と、黙った森に向かってこれでもかと馬鹿笑いを飛ばし、妙に悟ったようなふりをして帰路についた。

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