第102話 その全てと、共に


 例え記憶を封じても。


 素直で賢く勇敢なあの子なら、きっと大丈夫──。






 そんな見通しはこれ以上ないほど甘いものだったとリリオンは思い知らされた。

 記憶を失い、過去を無くすということがどれだけ人を不安に陥れるのか。それを彼女はまったく分かっていなかったのだ。


 自分のしたことが予想以上にゼオの心を追い詰めていた。その事実が彼女の胸に深く突き刺さる。




「……」


「あの、えっと……リリオン様?」




 目を伏せ、言葉を発しない彼女の様子を心配し、ゼオが声をかける。

 せっかくの観光なのに、妙なことを言ってしまったという自覚はあった。こんな話をするべきじゃなかったとも思う。

 後悔しても遅いことは分かっている。とにかく、なんとか話を戻して観光に専念できないか。


 そんなことを考え始めた、その時のことだった。




「っ……」




 突如、リリオンは俯いていた顔を上げ、急ぎ足でその場を離れていった。

 呆気に取られたゼオを置いて彼女が向かった先は、数メートルほど離れた場所にあるクレープの店だった。思えば、さっきからほのかに甘い匂いがしている。匂いの元は間違いなくあの店だろう。


 それから間もなく、彼女はゼオの元に戻って来た。

 右手にはチョコ、左手にはフルーツがトッピングされたクレープを持って。


 すう、と息を吸ってから彼女ははっきりした声で話し始めた。


「どちらにしますか?ゼオ」

「朝食から時間も経ってますし、丁度小腹も空いた頃でしょう。

 ……私は残ったほうで構いませんから」


 そう言いながら、彼女は両手のクレープを差し出す。


 ……確かにちょうど小腹が空いてはいる。いきなりのことで唐突なのは間違いないが、差し出されたものを受け取らないのも失礼だろう。話の続きは食べ終わってからでもいいはずだ。

 そう結論付けたゼオは、差し出された2つのクレープのうち、より好みであるチョコトッピングを手に取った。

 奥の奥までずっしり中身が詰まってる嬉しい重量感が手に伝わり、甘い匂いが一際強まる。ゼオはいただきますと告げてからぱくっと口に含んだ。




「あ、美味しい」




 ふわふわと雲のように柔らかい生クリームと濃厚なチョコレートが混ざり合い生み出す上品な甘さが口の中いっぱいに広がる。

 大勢の人に声をかけられ、気疲れしていた心が心地よい甘さに癒されていく。


 リリオンの前と言うのも忘れ、ゼオは目を輝かせながらばくばくとクレープにかぶりついた。年の割には落ち着いている彼には珍しい、無邪気で子供らしい光景だった。




 少しして。


 ゼオははっと我に返り、自分が夢中になってクレープを食べていたのを、リリオンにじっと見られていたことに気づいた。

 クレープは早くも残り半分まで減っている。


 そしてそれに気づいた瞬間、ゼオの顔が恥ずかしさで真っ赤に染まる。彼女が居ることも忘れ、クレープに夢中になっていた自分を殴ってやりたい。

 そんな彼の様子にリリオンはふっと頬を緩めた。そして穏やかな笑みを浮かべたまま、母親が子供と話すときのような、優しい声で語りかけた。




「とても、夢中になって食べてましたね。美味しかったですか?」




 素直にはい、とは言いにくかった。


 だがあんなに夢中になって食べていたし、そもそもクレープは彼女にいただいたものだ。誤魔化すわけにもいかず、ゼオは顔を真っ赤にしたまま声も出せずに頷く。

 その様子を見て、彼女はまたふふふと笑う。

 神秘的な銀髪と見惚れるほど美しい彼女が見せる、優しく慈愛に満ちた微笑みに、ゼオの顔は赤くなったままだ。




「さて。これでひとつ、わかったことがありますね」




 彼女は目を閉じ、満足そうに頷きながらそう呟いた。

 ゼオには彼女の言う『わかったこと』が、わからなかった。


 そんな彼に向けて、彼女はゆっくりと口を開く。




「あなたは年相応に甘いものが好き、ということですよ。

 それも、果物よりはチョコレートが好みのようですね」


 


 ……それだけ?


 思わずそう呟きかけたゼオに、リリオンは続ける。




「これで一つ、あなたのことを知ることができました……。

 少なくともこれでもう、あなたは何もない『からっぽ』ではありませんね」


「えっ……?」




 リリオンはすっと手を伸ばし、ゼオの頬に触れた。

 彼女が自分を思いやってくれているその気持ちが、手のひらから温もりと共に伝わってくるような、そんな気がした。




「ゼオ」



 ゆっくりと頬を撫でながら、優しい声音でゼオの名前を呼ぶ。



「あなたは、決してからっぽなどではありません。

 記憶を失っても、あなたはあなたであり……私が見込んだゼオ・オークロウ以外の他の何者でもありません。この私が、保証します」


「それでも、もし……自分の中のからっぽが不安で仕方ないというのなら」


 


 すっと、彼女は頬に添えていた手を離し、ゼオの手を優しく握った。




「これから共に、『あなた』のことを知っていきましょう。

 『騎士』としてのあなたではなく……素直で優しく飾らない、ただの少年としてのあなたのことを」

「あなたがどんなものが好きで、どんな物語に心を打たれて……」

「何に喜び、怒り、悲しみ、楽しむのか……私も、それを知りたいのです」






 ────そうだ。


 彼が自分をからっぽというなら、そのからっぽを少しずつ埋めていけばいい。

 そして出来ることなら────それを一番近くで見守りたい。






 ────私は、ゼオのことは何でも知っていると思っていた。


 赤ん坊の頃から世話をし続け、共に過ごした時間は誰よりも長い。私以上に彼のことを知る者はいないはずだ。私の力になろうとする彼の努力をずっと見守ってきたし、そんな彼を誇らしく思っていた。


 だから、あの子の全てを知ったような、そんなつもりでいた。




 だが、ゼオの記憶を封じてからはそんな自信も少しずつ薄れていった。


 所詮は私は、私に仕える『騎士』としてのゼオしか知らなかったのだ。ピンと背筋を伸ばし気を張って、騎士という立場に相応しい姿であろうとする、そんな彼しか。


 記憶を失ってからの彼は違う。

 孤独と不安に駆られる中で『忠犬』と半ばからかわれながらも、自分の信じた忠義を貫こうとしている。私の知る騎士としてのあの子の姿とは似て非なるものだ。


 そんな彼の日々を見守りながら記憶を封じた張本人として罪悪感に苛まれるのと同時に、私の知らない彼の様子をもっと知りたいと思うようになった。




 その思いは、私がゼオに向ける気持ちが愛だと気づいてからは、より一層強まっていった。




 そして、今この瞬間に気付いた。




 長い間共に過ごした『騎士』としてのゼオも、記憶を失っても忠義を貫く『忠犬』としてのゼオのことも。

 その全てを、私は愛している。『ゼオ・オークロウ』を形作る、その全てを。


 だから、彼のことをもっと知りたい。


 どんな彼でも私は、必ず好きになるから───。






「り、リリオン、さま……」


 リリオンの告白を終えてもなお、ゼオの顔は真っ赤なままだった。

 『全てを知りたい』と語った彼女の告白のその意味を、彼は理解できていないらしい。彼女に握られたままの彼の手も居心地が悪そうにそわそわと動いている。


 リリオンとゼオが手を握ったことは何度もある。幼い頃を含めれば、数えきれないほどにもなるだろう。だが、最近は握っていないように思うし、記憶を失った彼と手を繋ぐのはもちろん初めてだ。


 また、新たな経験が出来た……嬉しい。

 そう思い笑みをこぼしたリリオンを見て、ゼオはまた言葉を詰まらせた。




「ふふっ……さあ、ゼオ。ひとまず、コレを食べてしまいましょうか。

 良かったら、こちらも食べますか?交換しましょう」




 繋いだままのゼオの手を引き、リリオンは道端のベンチにゼオと座った。そのままチョコとフルーツと、二つのクレープを二人でゆっくりと味わった。


「お、美味しいです、リリオン様」


「そうですか。ふふふっ」


 周りにはゼオを見つけ声をかけようとした騎士もいた、が……流石にもう声をかけられたりはしなかった。


 今日の間は、もう誰も二人の邪魔は出来ないだろう。

 



 恐らく、これからもずっと、ずっと……。







 それから二人は、列車の時間になるまで……ゆっくりと、二人だけの時間を心から楽しんだ────。









 第四章『魔界の侯爵たち』 完───。



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