第78話 月と星空の下で③
数時間前のこと。
ぱしんっ、と乾いた音が響く。
視界が明滅し、頬の痛みが殴られたという事実を突き付けてくる。口の中が切れたのか血の味がじわりとにじんだ。
「……なんだ、その眼は」
調和やバランスを考えず、派手で豪華な装飾品ばかり飾られた応接室にて、低くしわがれた声で禿頭の老人が苛立ったように呟く。
老人の名はラーバ・ボーガロウ。表向きは平穏に見えるこの
そして、たった今頬を張られた半獣人の少女、ハルラの主である。
正確に言えば────彼女の主は王女であるシャルティナの他に居ない。
だが、こうして彼と相対してその落ち窪んだ眼でぎろりと睨まれると、ハルラはその言葉に逆らえなかった。怯えた子犬のように、身体が縮こまり震えが止まらない。
目の前の男が悪人であり、仕える価値などない相手なのは彼女にも分かっている。だが幼少期に骨の髄にまで刻み込まれた痛みと恐怖に、彼女はどうすることも出来なかった。
「申し訳、ありません……」
目を閉じ、感情を閉ざし。
かつて主と誓わされた男に教わった通り、自分を殺し無に徹しようとする。
だが、ボーガロウの怒りは消えない。
「ゼオ・オークロウの襲撃任務に失敗したお前が、この私に進言するなど……一体何のつもりだ?えぇ!?」
不機嫌な様子を隠そうともせず、ボーガロウは手に持った杖で強く床を突いた。
「申し訳、ありません……ですが、これもボーガロウ様の今後を案じればこそ……。
今夜の舞踏会の警備は厚く、ボーガロウ様の意にそぐわない騎士たちが眼を光らせております。機をお待ちくださいませ」
頭を下げ、ハルラは淡々と告げる。
彼女の言葉に嘘はない。今夜、ボーガロウが実行しようとしているある計画。
それはあまりに時期尚早なものだった。時間も準備も戦力も足りない、
だから、彼女は目の前に居る救いようがない悪人に、親切をするような気持ちで────ある提案をした。
その結果、ボーガロウは烈火のごとく怒り、彼女は頬を張られることとなった。
今まで一度も反抗したことの無い忠実な駒が意見を述べたのが、よほど癪に障ったらしい。
「半獣人の孤児の小娘が、一丁前に参謀のつもりか?
貴様ら騎士は、言われた通りに働けばいいのだ……!」
ハルラの忠告は、ボーガロウにはまったくの無意味だった。どこにそんな自信があるのか不思議なほど、彼は自信に満ちていた。
妄執に取り憑かれたのでなければ────何か、秘密がある。ハルラもそう感づいてはいたが、その正体までは当てることは出来ない。
「しかし……」
なおもハルラが粘ると、ボーガロウは呆れたようにハァァ、と深いため息を吐いた。
「……いいだろう。
お前の提案を呑んでやる」
思わぬ言葉に、ハルラは顔を上げた。
そんな彼女の顔を見て、ボーガロウは嫌味たらしいニタニタとした笑みを皺ばかりの顔に浮かべる。
「お前が、本気でゼオ・オークロウと戦い……そして負けることがあるようなら……
今夜予定していた作戦は見直すことにしよう」
「ぁ、あっ……ありがとうございますっっ!!」
再び頭を下げながら、上擦った声でハルラは感謝の言葉を口にしていた。
まさか、本当に約束してもらえるとは。希望を抱いた彼女は準備のため急いで部屋を後にした。
────ハルラは、ボーガロウが約束を守ると信じ切っていた。彼が約束を破るとは、考えもしない。
哀れな少女は目の前に差し出された唯一の希望に縋るしかなかった。
だが、彼女は本当の意味では理解していない。
友人であり、憧れであるはずのゼオと本気で戦う。
それがどういうことを意味するのか。
(ゼオさんなら、ゼオさんなら……
きっと、私に勝って……この国を、守ってくれる……!!)
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