第35話 『Café de la Paix』
これは、私の大切な思い出───。
私達の住む魔王城は魔物も近づかない冷たく暗い恐ろしい場所だと言われている。
でも、そんなことはない。少なくとも、私の部屋は違う。
明るくやわらかい照明にふかふかの絨毯、おしゃれなテーブルとイス。
棚には手摘みで集めた後、じっくり煮詰めて作った色鮮やかなフルーツのジャムが並び、部屋の中はほんのりシロップの甘い匂いがする。
それが私の部屋。
その部屋の中で、私は窯の近くで機嫌良さそうに鼻歌を口ずさんでいた。手元のフライパンの中では、ホットケーキが食欲を誘う音色を奏でている。
「うん、そろそろかな」
顔を上げ、時計を確認する……そろそろ時間だ。
ふわふわに焼けたホットケーキを皿にひっくり返すと、トタトタと廊下を走る軽い足音が聞こえてきた。
その足音が部屋の前でピタッと止まり、コンコンと扉がノックされた。
「ふふっ、どうぞ」
ガチャと扉を開けると、小さな男の子が息を荒くして入ってきた。
彼の名はゼオ。今日も日課の特訓を終えて来たみたい。
魔王様がリリオンに預け、魔王城で育てられたこの子を私はずいぶんと可愛がっていた。
「ヴァーミリアさま、しつれいします!」
小さな身体をぺこっとと曲げ礼をした彼は部屋の中央のテーブルに近づくと、小さな身体でよじのぼるようにイスに座った。
子供用のイスを用意するとも言ったのだけど、
「お疲れさま、今日の特訓はどうだった?」
「はい、きょうは剣のかまえ方を教えてもらいました!」
ゼオの前にホットケーキを置き、向かいに私の分も置いた。
近くに行くと、ゼオからは石鹸のいい匂いがした。お風呂でしっかりリリオンに洗ってもらったみたいだ。
自分も洗ってあげたい。そこはほんの少し、リリオンが羨ましかった。
「ふふっ、そうなの。頑張ったわね、偉い偉い」
「ヴァーミリアさまっ、えへへっ」
そう言いながらぎゅっと抱きしめると、ゼオも喜んでぎゅーってしてくれた。柔らかくてぽかぽかしていて、幸せな気分になる。最近は抱きしめようとすると、すっかり避けられるようになってしまった。少し寂しい。
ぐーっと、ゼオのお腹が鳴った。特訓をしてお腹がペコペコだったらしい。
「ふふふっ、じゃあ、おやつにしよっか。今日は何にする?」
「クリームを、おねがいしますっ!」
はぁい、と返事をして、ゼオのホットケーキの上にたっぷりとホイップクリームを乗せてあげた。ゼオの目がキラキラと輝いているのがよく分かる。
この子は昔から甘いものが好きだった。
私以外の幻魔候は妹を含め甘いものが好きではなく、私にとっては好きなスイーツを一緒に食べてくれる初めての相手だった。
ただ、ゼオはどうしてか甘いものが好きなことを私以外に内緒にしている。もう仲間たちには殆ど気づかれているのだが、一緒におやつを食べるこの時間も二人だけの秘密になっていた。
「おいしいですっ、ヴァーミリアさまっ」
口いっぱいにホットケーキをほおばり、口の端にクリームを付けたゼオを見て私も心から微笑んだ。
私はいつの間にかゼオのことを本当の弟のように思っていた。
もし、ゼオも同じように思ってくれているなら嬉しい。
*****
「はい、どうぞ」
ヴァーミリアはゼオの前にホットケーキを置いた。彼女の思い出の中にあるゼオの一番の好物。
カフェに来た彼が何を注文するか決め切れず、ヴァーミリアのおすすめをと言われて出したのがこれだ。
焼き具合はふわふわ、上に乗ったバターが溶けて食欲をそそる匂いを立てている。
自分の好物さえ忘れてしまった彼だが、身体はしっかりと覚えているようだ。ホットケーキを前に、子供の頃と変わらず目がキラキラと輝いている。
「い、いただきます……」
空腹だったこともあり、ゼオはホットケーキをおおざっぱに切り分けると一気に口にほおばった。
幸せな食感と久しぶりの好物に、ゼオは幸せそうな顔を隠そうともしない。
「ふふふふっ」
幸せそうなゼオの顔を見て、ヴァーミリアも笑みを浮かべた。自分の作った料理を美味しそうに食べてくれる。彼女にとってはこれ以上ない幸せだった。
あっと言う間に、ゼオはホットケーキを平らげた。食べ終えてもなお幸せな余韻は消えない。
ふぅ、と一息ついたあと、嬉しそうに笑うヴァーミリアの顔を見て彼ははっと我に返った。
「す、すみません。あの、美味しかったです」
「私も、美味しそうに食べるなあって。こちらこそ、ありがとう」
自分でもだいぶ表情が緩んでいた自覚がある。ゼオは顔が赤くなるのを自覚した。
それにしても、このカフェは居心地がいい。表の大通りの喧騒から切り離され、ゆったりと落ち着ける場所だった。
何よりも、雰囲気がいい。記憶喪失になってから感じたことのない、心から落ち着ける空間───それがここだった。寮の自室以上に、安らぎを感じる。
その理由はこの店主の女性にあるかもしれない。
もしかしたら、彼女は───。
「……あの」
意を決し、ゼオは問いかけた。
「失礼とは思いますが、以前どこかでお会いしませんでしたか……?」
ゼオの質問に、ヴァーミリアは笑顔を崩さないまま答えた。
「ええ。前に一度、会ったことがありますよ」
やっぱり───ゼオは思わずイスから立ち上がった。
「この前あなたが決闘をした翌日に、学園の食堂で。覚えてませんか?」
「え……」
冷静に思い出す。決闘の翌日、ファンガルと一緒にレヴンやハルラと相席した後……図書館で助けてもらった綺麗な女性に褒めてもらったことがあった。
あの時、あの女性の隣に確かに彼女はいた。
「す、すみません。忘れてしまっていて……というか変なことを聞いてしまって」
当てが外れて落ち込むよりも先に、変なことを聞いてしまった恥ずかしさが勝った。慌てて訂正するゼオの様子に、ヴァーミリアは笑顔の裏で心を痛めていた。
(……ごめんね、ゼオ。寂しい思いをさせて)
リリオンの決意を無駄にするわけにはいかない。彼女も自分の正体をゼオに告げるつもりはなかった。幸い、事情を知っているヒューグは口を挟まないでくれている。
このカフェはそのせめてもの償いだった。人間界での情報収集の拠点、そして孤独なゼオが安らげる場になるように───。
カランカラン、と来客を知らせるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
ヴァーミリアの声と共に、ゼオも振り向く。すると。
「あら?ゼオくん、こんなところで会うなんて♪」
艶のある黒髪に冷たく鋭い目つきと、それを忘れさせる愛嬌のある笑顔の二面性を秘めたその彼女は、三大国家の姫君の一人。
「セナリス、様……」
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