第2話


「大地、適度に水分飲めよ〜!」

「う…、…っうん……!」

 蝉の声が、無駄に広い校内に響き渡っていた。グラウンドに引かれたトラックを、半ば足を引きずりながら海斗が走っている。汗だくになって走る──恐らく三輪車を漕ぐ五歳児より遅い──海斗を、木陰で英単語帳を見ながら見守るのが夏休みの大地の仕事だ。グラウンドは陽炎の揺らめきでより一層熱く見える。何より、真上の太陽が雲にも遮られず照りつけているせいで木陰にじっとしていても汗が噴き出した。

 海斗は睡眠不足に連日の真夏日で、体力が更にじわじわと削られていた。文句を言いながら海斗よりも遅れてきた生徒たちが、さっさと走り終え海斗を置いて帰っていく。それを視界の端に映すのも、まぁ仕事と言えば仕事だった。

「はぁ゙……! はぁ…ッ…! お゙わ、った……!」

「プールの補習でこんなに走らせるやつがあるかよ、なぁ?」

 ようやく三周目のゴールに到達して倒れ込んだ海斗に、タオルとドリンクを渡しながら大地が独りごちる。タオルで顔を覆い隠し、呼吸を落ち着かせながら海斗は呟いた。走っている間に口で息をするから、少し声が掠れている。

「っ仕方、ないよ……! 泳げな、っから……!」

 海斗の言葉に、大地は曖昧に返事した。カナヅチだからプールを見学したいと言った奴は中学時代に一人いたが、水中にいられないから見学したいと言った奴には初めて会った。

 海斗は、水が怖いらしい。

「八歳の時、海で事故に遭ってさ。それからはとにかく、水が怖くて……」

 プールの授業が始まってから、海斗は体育の授業を保健室で過ごすようになった。聞くと恥ずかしそうに俯いて、海斗は苦々しさを無理矢理誤魔化しはにかみながらそう言う。子供の頃は港町で育ったらしいが、幼少期のトラウマから波の音にも泣き出す始末だったそうだ。風呂に入るのも嫌がって、親は相当苦労したらしいと海斗は笑って言った。

「風呂にはなんとか慣れたけど、水に顔をつけたり潜るのが怖くて堪らないんだ。担当医からパニックを起こす危険があるからプールの授業は受けさせるなって診断書まででちゃって……」

 医者が学校へ向けて診断書を書くほどなのだから、相当だろう。ただ、それでは体育の単位が足りない。だから海斗は水泳の授業中ひたすら保健体育の本を書き写し、夏休みだと言うのに週に三日学校に行ってグラウンドを走る。一回休むとグラウンド三周、十回見学した海斗は夏休み中盤でもまだ三回の補習が残っている。

 不眠症ぎみの海斗にとっては地獄だろう。眠れないと、色んなことが億劫になる。体力も奪われる。水泳の補習に、夏休みのほぼ半分が費やされた。他の生徒がちんたらやって長くとも一週間足らずで解放される中、海斗は毎回必死に、ヘトヘトになりながら足を引きずって走る。見ていることしかできなかったが、帰り道に倒れられる可能性もないとは言えない。

「見ろよ! あの夫婦またやってるぜ?」

 先に走り終えていた同級生たちが冷やかしの笑みを飛ばす。思わず振り返ったが、なにかを言い返せばまた囃し立てられることは分かりきっていた。不安定な海斗の世話を甲斐甲斐しく焼く様は正しく夫婦のようだと、一部の人間からはいい笑いの的にされている。

「……気にすんなよ」

「でも……」

 海斗が額の汗を拭って黙る。大地は眉根を寄せたが、溜息と一緒に眉間のしわを伸ばした。

「俺は中学の時もオカン体質だって皆に言われてた。世話焼くのは慣れてるし、好きでやってることなんだからお前が凹むのはやめろよぉ」

 語尾だけでもとなんとか明るく繕うと、海斗は曇らせていた表情を少しだけ崩して笑った。

 本当は、世話なんて焼きたくない。昼夜働く母の代わりに、まだまだ甘えがちな弟妹の世話を渋々しているだけだ。本当は友達と放課後電車で隣町に出てジャンクフードを食べたり、ゲームセンターやカラオケに行きたい。好きな漫画を買ったり、好きなアーティストのアルバムを買ったりしたい。そのためのバイトなら喜んでやるだろう。でも、それらは全てまだまだ先の話だ。十歳になったばかりの弟妹は、やれ友達が持っていたとかテレビで流行ってると言っていたとおもちゃやゲームを欲しがるし、中学、高校の学費もある。母の努力と奨学金でなんとか高校に進学できた大地も、進学校にしては珍しく卒業後は就職する予定だった。だからせめて少しでもいい成績で卒業し、良い就職先を見つけたい。それこそ、同級生の世話を焼いている場合ではなかった。


「手のかかる奴の面倒を見るのが、性に合ってる……か?」

 進路指導室の横の掲示板を見ながら、大地は独り言ちた。二、三年生向けに貼られた大量の大学案内状に埋もれるようにある就職先一覧。高卒の公務員試験概要を見ながら、科目が多いなと溜息を吐いた。弟妹を寝かしつけた後の二時間ほどの自習では、授業の復習で手一杯だ。ましてや進学校は授業の進むスピードが速い。とてもじゃないが二時間で予習までは進めない。

「……はぁ」

 何度目かの溜息を吐いていると、着替えが終わったらしい海斗が廊下の先から歩いてくるのが見えた。足早に駆け寄ると目の下の隈が一層濃く見える。

「大丈夫か?」

「あぁ……今日も俺ん家、来る?」

 丸い目が、少しの期待を孕んでいた。一学期の三分の一を休んでいた海斗とは、夏休みが始まってからほぼ毎日顔を突き合わせて宿題をしている。ノートを見せ、教科書を片手に海斗に勉強を教えるのは復習にはちょうど良いと思ったからだ。が、休みがちなくせに要領がいいのか大地よりも成績の良い海斗の宿題を見ていると、自分はなにをやっているんだろうかと虚しく思う時がある。少し考える素振りをすると、海斗の眉はみるみるうちに眉尻が下がり眉間にしわが入る。

「……行く。今日は母さん遅番だし、六時くらいまでは居れると思うよ」

「!」

 ぱっと表情が明るくなる海斗は嬉しそうにボストンバッグのショルダーベルトを握った。それが癖だと知っているのは、恐らくこの学校で自分だけだろう。

「お昼ご飯作るって、大地なに食べたい?」

 家にいる祖父母に連絡をしたらしい海斗がにこにこと、隣を歩く大地を何度も見ながら話す。他愛無い言葉を交えつつ汗をじんわりと滲ませて校舎を出る。駐輪場に向かいながらアスファルトの上で揺らめく陽炎を、海斗の横顔の向こうに見ていた。

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青々とした、 本田 @T_Honda

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