青々とした、
本田
第1話
「俺にはお前だけだ。お前だけ……」
細い指が大地の制服の裾をぎゅっと掴み、迷子の幼児のように不安そうな顔で見上げた。縋りつく海斗を見下ろしていると、大地の中からじわりと湧き上がる感情がある。それが何であるか気付く前に、その湧き上がる感情を長い長い溜息に乗せて吐き出した。眉根をきつく寄せて、そうして心底仕方ないという風を装って、海斗を許すのだ。
──……
「大地、クラス替え、発表されたって」
山間に建てられた無駄に土地のある校舎。桜が花弁を散らしていく中、無事に進級を迎えられた四月。ただ面倒なだけの始業式を終えた体育館からの帰り道に、海斗はそう言って大地の袖を掴んだ。目にかかるほどに伸びた前髪と肩につきそうな襟足、180ほどあるひょろりと伸びた背は隠れるように小さく丸められている。少し見上げた顔の前髪に隠された目は大きく、目の下の隈が不健康さを一層煽った。そんな見た目に反して海斗の声音は明るく、大地はその声を聞いて内心ほっとした。
「海斗さぁ、今日は何分眠れたんだ? 目の下の隈、更に酷くなってるぞ」
努めて明るい声音で問う大地が自分の目の下を指差す。それに対して海斗は、薄らと口元に笑みを作ってみせた。
「今日は結構寝れたよ。三十分、いや四十分くらいは寝たね」
「それは結構寝たって言わないだろ……」
広い体育館からぞろぞろと出てきた賑やかな生徒たちが小走りで渡り廊下を進み、クラス替えの張り紙を見に行く。それらに追い越されながら二人はのんびりと掲示場所の職員室まで歩いた。一層賑やかな職員室前の狭い廊下は蠢く生徒たちでごった返していたが、遅れてやってきたのが良かったのか二人が辿り着く頃には少しばかり人の波は落ち着いていた。
「亘理大地、亘理大地……お!」
亘理──わたり──という苗字は実に楽で、大抵一番下にある。席だって最初は大抵廊下側の一番後ろだ。何組だろうかと視線を上にあげかけて、自分の名前の上にふと見慣れた名前を見つけた。
「海斗、今年も同じクラスじゃん!」
自分の氏名の上に吉秋海斗の名前を見つけて、大地は横に立つ海斗を見た。同じようなタイミングで大地を見た海斗が、口元を緩ませて嬉しそうにはにかんだ。正直、同じクラスにはなるだろうなと思っていたが、そんなことはおくびにも出さず肩を組んで喜んだ。
「進級おめでとう。来年は受験だから、二年も気を抜かずに……」
進学校らしい担任の堅く長ったらしい挨拶を聞き流しながら、前の席に座る海斗の丸まった背中をぼんやりと見つめる。
──去年の入学式、大地の前の席は空席だった。入学早々に休む奴なんかいるんだ、とぼんやり思いながら担任からの話を聞き流していたのを良く覚えている。翌日、前の席の男は二限目の途中でやってきた。ひどく体調が悪そうで、大地の前の席に小さく背を丸めて座る。誰か後でノートを見せてやってくれと教師が言ったが、いかんせん他県からの受験も多く、進学校を受ける同級生はそれほど多くない。入学したてのクラスにはまだ友人と呼べる相手もほとんどいない。それは彼も例外ではなさそうで、前の席で困ったように小さく丸まった男は微動だにしなかった。結局教師から指名された大地がノートを見せることになったのがきっかけで、そこからずるずると大地は海斗の世話役になった。遅刻すればそれまでの授業のノートとプリントを見せ、体調が悪いと保健室に行けば荷物を纏めて鞄を持って行き、学校を休めば自宅まで手紙と宿題を渡しに行く。海斗の祖父母に家に上げてもらい、お菓子を食べながら今日の授業の範囲を教えることも習慣になった。
吉秋家は大きな一軒家だ。家には働きに出ているらしい親の代わりにいつも祖父母がいる。大地が放課後に家を訪ねると、大抵一人息子である海斗は二階にある自室のベッドの上で膝を抱えて座っていた。何かに怯えるように縮こまっている海斗は、部屋にやってきた大地の顔を見てようやく安堵で表情を崩す。
大きな部屋には勉強机に本棚、テレビとゲーム機まであって、狭い2Kのアパートで母と弟妹と暮らしている大地にとっては自室があるだけで豪邸と同じようなものだ。海斗の家に来るたびに羨ましさを胸に潜ませながら、弟妹が帰ってくるからと十七時には帰路に着く。晩御飯を一緒に食べて行ってと言う海斗の祖父母には悪かったが、大地は朝から晩まで働く母の代わりに弟妹の夕食を作ったり洗濯をしたりと忙しい日々を送っていた。
高校に入学して一年目の夏休みに入る頃には、もう完全に病弱な海斗の世話役として大地のポジションが決まってしまっていた。それは海斗の親族からもそう認知されるほどだった。小さな弟妹の世話で慣れているとはいえ相手は同級生、言動に腹を立てたり喧嘩になることもあった。が、家を訪ねると海斗が心底嬉しそうに笑うせいで、押し負けてしまうのが常だった。
「……この式、解くまでに結構時間がかかるな……」
「あ~、ここはこの公式だと楽。それでも解けないことはないけど」
なるほど、とシャーペンを動かす海斗の横顔は、入学した時よりもやつれていた。
「……なぁ、まだ体調悪いのか? なんかしんどそうだし、今日はやめる?」
部屋に折り畳みの簡易テーブルを置き、その上に教科書と夏休みの宿題を広げている海斗の顔を覗き込むと、照明の影で海斗の隈は更に濃くなった。ふるりと首を横に振る海斗の伸びた髪が揺れる。
「大丈夫……最近、少し眠れてないだけで……」
最近、と海斗は言ったが、彼がいつも眠れていないことを大地はここ一ヶ月ほど前に知った。眠りがとても浅いらしく、ベッドに潜っても中々寝付けない。寝付けても些細なことで目が冴えて起きてしまうらしかった。朝までの時間潰しに教科書を読み過去の問題集を解き直すから、海斗の成績はいつだって片手で数えられるほどの上位だ。
「あそ。でも辛かったらすぐ言えな? あ、そうだ! 俺さぁ、色々調べてきたんだよね」
使い込まれたボストンバッグの中から大地が携帯ショップのロゴがデカデカと掲げられたクリアファイルを取り出した。その中から数枚の紙を取り出して机の上に広げる。
「図書館でさぁ、良く眠れる方法探したんだよ。うちパソコンとかないからさ」
適度な運動、朝食の取り方、眠りと目覚めのメリハリ、寝室や寝床の温度や湿度を管理すること、入眠前の入浴時間や温度の目安から寝室の照明に至るまで事細かに書かれたHPの画面から、何の本に載っていたのか快眠と謳われたリラックスするためのマッサージ法やストレッチが図解されたページのコピーまで様々だ。
「ほら、今って夏休みだしさ。このマッサージとかなら俺でも出来そうだし!」
「……そう。そうだね、確かに。……でもこれは別に、いつもの事だから……」
海斗は柔く笑んで、薄らと心に壁をつくる。それを大地はなんとなく察して、笑顔を歪に保ったまま気まずい空間に耐えた。
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