第4話 竹澤 航(33)/ITソリューション会社営業部マネージャー
「俺だってこんなこと誰にでもしてるわけじゃないからな」
そう伝えた時、川西に血が通ったように見えた。
よし、上手くいった。
仮説と結果が見事に一致した。川西の弛緩した様子を感じ、悦に浸りながら、その場を後にした。
さぞかし川西は勇気をもらっただろう。
振り返って、その様子を一目見たかったが、「かっこいい先輩は背中で語るべき」という自分の中で導き出した答えが、振り返ることを阻んだ。
でも、どんな顔をしてるのだろう。
普段は、理論で導き出した答えで、何の違和感もなく行動を決められるのに、今日は少し違った。
さあ、どうする。
判断に迷った結果、気がついた時には、右手拳を突き上げていた。
どの方程式にも無い行動をしてしまい、取れてしまうかと思うほど、耳が熱くなった。瞬時に辺りを見渡したが、幸いにも誰も見ていなかった。しかし、後ろだけは、確認できなかった。
いつもの理路整然とした自分に戻るために、姿勢を崩し、ポケットに手を突っ込みながら、トイレへと避難した。
川西はきっと、何かしなくてはいけないけれど、何をすればいいかはわからないという無力感と、今の自分が何も出来ていないことだけは分かってるという不安感に苛まれている。
これらが体を支配すると、あらゆるパフォーマンスを著しく下げてしまう。
しかし、
「自信を持てよ、お前なら出来るから」
と背中を押せるほどの実力が、今の川西にあるかと言われると、お世辞にも首を縦には振れなかった。
こんな状態からいち早く脱却するには、早めに傷を負うこと、それしかないのだ。
川西には、その事実を早く気づかせる必要があった。
だから、実験的に無茶振りをしてみたのだ。
俺は、川西のような小心者が苦手だ。というか、大嫌いだ。
何事にも最適解がある。
それを導き出し、体現するには、仮説を立てて、素早く行動に移す。
もし失敗したら、改善に努める。ただそれだけだ。
難しいことなんて一つもない。
ましてや、今の川西に関して言えば、その解をある程度提示してあげている。なので、ただ模倣をして自分のものにするだけ、言われた通りに行動するだけ。それだけでいいのだ。
それなのに、なぜやらないのだろう。
行動を妨げる理由は、どうせ羞恥心、嫉妬心、虚栄心くらいだ。
そんなもの、なぜ早く捨てないのだろうか。
愚痴や文句をこぼすくらいなら、夢を語るべきだ。
心底理解できない。
だからこそ、川西をその状態からいち早く引き上げさせ、周りに嫌いな人間を1人でも少なくしたかった。
川西の成長のためというよりは、自分がより働きやすい環境にするためという方が近いだろうか。
利己主義な考えは、ロジックでいくらでも利他主義に書き換えられる。社会人経験を正しく積み上げたことで、この類の作業は、呼吸をするように出来るようになっていた。
「えー、来月からうちの社員にも、今話題の『heart』の導入を義務づけます。追って詳細送りますので、少々お待ちください。」
午後に行われた全社会にて、社長から直々に発表された。ざわつく社員が多いなか、何とも思わなかった。
誰かを罵ったり、蔑んだりしたことは、過去にほとんど無い。また、ゴシップに関しても、全く興味がない。誰かを非難することに時間を費やす行為自体が、あまりにも不毛だと思う。
受け手によって、言い方の良し悪しはあるかもしれないが、基本的に論理的な物言いしかしない。正しいものは突き通すし、間違っているものは訂正する。ただそれだけだ。正しいことを言って、文句だと言われるなんて、とんだお門違いだ。
また、そもそも人に興味がない。
仕事をするにおいて、自分に良い影響を与えてくれる人は心から尊敬しているし、邪魔をする人は、出来るだけ避けるようにする。最短距離で効果を出すために、適切な人とだけ関わるようにしている。
しかし、退勤して、仕事という領域から飛び出すと、皆横一線で、好きでも嫌いでもない。近づこうとも思わないし、避けようとも思わない。仕事以外では、できるだけ職場の対人関係にエネルギーを使いたくなかった。
今回のheartの導入によって、さらに過ごしやすい環境になるような気がした。文句を言う人が減り、成長の足枷になるものが軒並み削ぎ落とされる。早くその世界線を見てみたかった。
会社のセキュリティゲートを出て、腕時計を見ると、23時になろうとしていた。
最近はもっぱらこれくらいの時間に帰路についている。
疲弊している時もあるが、大抵充実感でいっぱいだった。
膨大な業務に追われても、自分の意見で潮目が変わったり、賞賛されたりと、忙しない毎日の中にも、価値を認められる瞬間が随所にあって、心をすり減らされることは、ほとんど無かった。
楽しくて、帰りたくないとすら思う時もあり、仕事をしている自分が一番人間らしい気がした。
【今日も帰り遅くなりそう】
19時ごろに送ったLINEに、妻からは未だに返答が無かった。直近、妻の表情は、どことなく暗かった。
なんとなく、雲行きの怪しさを感じてはいたが、仕事のようにすぐに行動は移せなかった。多少の罪悪感は抱きつつも、すぐさま仕事の責任感が正当化してくれ、仕事の方へ走り出してしまう。だって仕事だから。
正しいことをして、全うに誰よりも努力して、結果を残す。
この行動指針によって、いろんなものを手に入れたが、手に入れるものが増えるにつれて、家庭との歪みが大きくなっていった。
陰口撲滅アプリ「heart」 ツハ @pdfppt
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