第3話 川西 斗真(24)/ITソリューション会社営業部
【今日の会議、お前が進行して。ずっと同席してるから、流石にいけるだろ。危なかったら、適宜フォローするから。よろしくな】
けだるさを抱えながら電車に乗り込んだ矢先に、先輩の竹澤さんから連絡が来た。
一瞬で、頭がきゅっと収縮し、視野が狭くなり、汗が吹き出た。
資料を持っていること。
通勤電車でスマホを見ること。
矢面に立つことから避けていること。
竹澤さんは、僕の全てを見透かしているように思えた。
無茶振りをされた怒りの周りには、恥ずかしさと不甲斐なさが覆い被さっていた。そのせいで、「出来ませんよ!」と強気に反発することは出来なかった。
慌てて資料を取り出し、ページをめくっても、ただ焦りが募る一方で、内容は全く入ってこなかった。
どうしよう、どうしよう。
そんな自分を待ってくれるはずもなく、取引先の最寄駅に到着してしまった。
小さくため息が漏れた。
そして、そのため息で力が抜け、提案資料が右手から滑り落ちた。
「すいません」
頭の中の渦から、いきなり現実に帰ってきたせいで、声量が合っていないような気がした。
「あ、頑張ってください」
そんな僕の様子など一切気にせず、女性は膝に落ちた資料を僕に渡しながら、優しく呟いた。
その繊細な声は、僕の凍った心を一瞬で溶かしてくれた。
しかし、その余韻に浸る間も無く、降車駅のホームで開いてしまった扉が視界に入ったので、会釈をしながら資料を片手で受け取り、電車から飛び降りた。
ベンチに腰掛け、受け取った資料を鞄にしまいながら、ホームから出て行く電車を見送った。
電車が去ってもなお、先ほどの女性が、このホームにいるように感じるほど、一瞬の出来事がみるみる膨らみ、頭の中で美化されていった。みぞおちの辺りから、自信や活力がみなぎってくる。
9:18。
腕時計に目をやると、一気に現実に引き戻された。
慌てて鞄を持ち、取引先に向かった。エスカレーターがあるのに、なぜか階段を選択してしまった。
改札を出て、取引先までの道のりで、再度プレゼン内容を振り返った。焦りよりも切迫感が上回り、電車内での確認よりも内容が入ってきた。あの女性のおかげだろうか。
すると、さっきの女性が、頭の中でひょこっと顔を出した。
途端に「この人はどんな人なんだろう」という、答えの無い邪な問いが、あっという間に頭を埋め尽くし、一瞬にして、プレゼンの内容は見えなくなってしまった。
ひょこっと出てくるだけで、特に何か言うわけでもない。
ただただ頭の中に佇んで、疑問を生み出していく。
爽やかで淡い思い出のヒロインが、取引先に近づくにつれて黒幕のように思えた。
「よう! おーい、そんな強張った顔すんな。取引先だぞ」
竹澤さんは、合流するや否や謝りもせず、注意をしてきた。
何だこいつ。
なんとか掬い取ったプレゼン内容が、はらはらとこぼれ落ちて行く。
会議室に通され、竹澤さんと2人で着席し、担当者を待った。
プレゼンの内容をどうにか絞り出そうとした。
会議室という場だからなのか、「あいつ」は出てこなかった。
えーっと、次は…。
記憶を必死に手繰り寄せていると、扉が開き先方の担当者2名が入ってきた。
「よろしくお願いします」
素早く立ち上がり、深々とお辞儀をしながら、挨拶をした。
ここで僕の記憶は途切れた。
どうやら、体が記憶することを拒絶しているみたいだった。
「しかし、酷かったな。何喋ってるかわかんなかったぞ」
竹澤さんは嘲笑しながら、コーヒーを啜った。
まだ11時前。お昼にもなっていない。
仕事はこれからだというのに、すっかり思考が停止していた。
出来損ないという烙印を、公然の場で押されたようで、いたたまれない気持ちになった。
「また一からやり直しだ、じゃ、次も進行よろしくな」
竹澤さんは、空になった紙コップを勢いよくゴミ箱に捨て、この場を去った。
「あ、ひとつ言っておくけど」
去ったはずの先輩の声が聞こえ、足元に落としていた視線を、声の方へ向けた。
「俺だって、こんなこと誰にでもしてるわけじゃないからな」
竹澤さんは、得意げな表情で吐き捨て、笑いながら去っていった。
「あ、ありがとうございます」
そうお礼を言いながら、その姿を見送った。
しかし、なんでお礼を言っているのか、自分でも分からなかった。
竹澤さんはそのお礼に対して、振り返りもせず、右手拳を突き上げ、去っていった。
1人取り残され、冷静さを取り戻しても、先ほどの出来事の意味がわからなかった。
褒められてるのか、けなされてるのか。今後の激務を宣言されているのか。何なのかわからなかった。
どういう意味なのだろう。
その類のことを頭に投げ込み、理由を考えてみた。
じっと考えてみたが、そんなことよりも竹澤さんの後ろ姿のダサさが気になった。
キザなセリフ、突き上げた右手。その自信過剰な振る舞いが、やけに面白かった。小馬鹿にしたくなった。失敗した恥ずかしさなんて気にならなくなっていった。
竹澤さんが今まで築いていた分厚くて、高かった壁が、ダサさによって、バラバラと音を立てて崩れ、親近感をもたらした。
正直、美談で片付けたくはなかったが、そのダサさが、竹澤さんを先輩というより仲間として認識させてくれた。
この人には、もう少し心を開けるかも。
この人の前なら失敗しても、恥ずかしくないかも。
そんな気がした。
竹澤さんの意図は、結局何一つ分からなかったが、今思っている感情の赴くままに動いてみようと思った。
今日はまだ始まったばかりだ。
大きく息を吐いた時、今朝の電車での出来事が脳裏に浮かんだが、何一つ輝きがなかった。
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