第2話 石崎ほのか(26)/不動産会社経理部
今日も私の前には、誰もいなかった。
足元を囲う白い線は、後ろへと伸びており、その中に吸い込まれるように、大勢の人が私の後ろに、列をなしていた。ホームに等間隔で設けられた整列エリアは、どこも人で溢れていた。
じんわりと湿った空気が肌に触れ、いつにも増してやる気を削いできた。
傘から振り落とされた雨水のせいで、ホームの床はひどく濡れていた。そのせいで、駅構内の人々の動きには、慌ただしさの中にも、転ばないよう、一歩を踏み締める注意深さがあった。
スーツ姿の中年男性が、悪びれもせず、私の後ろではなく、整列エリアではない右横に並んできた。その男性に視線を向けたが、全く気づいていないようで、右手に鞄を持ちながら、正面の投資信託の広告を眺めていた。
おい、何してんの、ジジイ。
そこは並んじゃいけない場所でしょ。
朝はとにかく、沸点が低くなってしまう。
文句を堰き止める術がなく、垂れ流されていく。
こっちはね、10分前からここに立っているの。
あんたは、朝の10分がどれだけ貴重かわかってる?
長く寝られたかもしれないし、
コーヒーはゆっくり飲めたはずだし、
食パンだけの味気ない朝ごはんに
ベーコンエッグをつけられたかもしれない。
朝の至福の時間を投げ打って、雨にも負けず、
いつも通りの時間に立っているの。
わかってる?
そんなことは知る由もなく、相変わらず、真正面の広告を見ていた。
怒りを伝えるように、傘を地面に突き、無駄に音を鳴らしながら、水しぶきを降り落とした。
しかし、その甲斐もなく、中年男性は堂々としたままだった。
それどころか、その男性の後ろに、列がなされ始めた。
もう、何やってるのよ。
出発時刻の5分前に電車が到着する傾向がある。残り2分。
気を引き締め、その時に備えて臨戦体制に入ると、中年男性はおもむろに半歩前に出た。
おいおいおい。
並ばないうえに、一番に入ろうとしてる?
良い加減にしろよ、クソジジイ。
私は、意地でも端の席に座りたい。
背もたれだけでなく、体の側面もベタッとつけ、片道30分の会社までの道のりを、最大限快適なものにしたい。ただでさえ仕事へのやる気が出ないのに、少ない気力をこんな所で削ぎ落とされるなんて、たまったもんじゃない。
負けじと一歩前に出た。
これに準じて、後続の人たちも少し動いた様子を背中で感じた。
「まもなく2番線に電車が参ります」
車掌のアナウンスが、ホームに響き渡る。
車掌のアナウンスが、電車の音でかき消されたタイミングで、電車が勢いよく姿を表した。目の前を通過して行く車両は少しずつ、スピードを緩め、車内の様子も目視できるようになった。
もう一歩前に出て、ホームドアの入口に少し近づいた。
中年男性の足は、動かなかった。よしよし。
電車がゆっくりと停止し、扉、ホームドアの順で開いた。
私は平行移動のような動きで、するすると電車に乗り込み、他を寄せ付けず、悠々と端の席に腰を下ろした。
深く息を吐き、勝利の余韻に浸った。
当の中年男性は、私の二つ隣の席に座ったようだった。
希望の席を取れ、怒りの感情は抜け落ちて、駅のホームにぽつりと取り残されていた。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
まだ始発駅なのに、座れなかった敗者が多くいた。
加えて、大雨のせいで電車内は湿気が充満し、むさ苦しさに包まれていた。
今日この席を取れていなかったら、どんな気持ちだっただろうか。優越感が込み上げてくる。
敗者の1人が、雨に濡れたビニール傘を、私の横の手すりにかけてきた。
ここに傘をかけるんじゃないよ。
鼻につく行為ではあったが、優越感に免じて抑え込んだ。
ガタン。
電車は、いきなり急停車した。
敗者たちは、一様にバランスを崩した。勝者も隣と肩がぶつかってしまうほど、衝撃は強かった。
その衝撃で、手すりにかかった傘も大きく揺れた。
そして、その傘の先端は、私の足元に着地した。
傘についた雨水が滴り、ゆっくりとパンプスを滲ませていく。
生ぬるい温度でじんわりと染み込んでいく雨水が、今日の活力を蝕んでいく。
暗に嫌悪感を伝えるように、無駄に足を大きく動かし、傘を振り払った。その勢いで、傘は手すりからずり落ちた。敗者は落ちた傘を、何も気に留めず手すりに掛け直した。
どいつもこいつも。
戦いには勝ったはずなのに、煮え切らない気持ちでいっぱいだった。
再び湧き上がった怒りから逃避するように、スマホを開くと、TikTokのアイコンが目についた。
TikTokは、嫌いだけど、好きだ。
訳の分からないダンスを踊ったり、誰かの名言を自分の名言のようにひけらかしたり、tiktokを見ていると、こんな世界もあるのかと、元気になる。仕事嫌いの私でも、ちょっとは仕事を頑張ってみようかなと活力が湧いてくる。
私は、他人の「失敗をしている姿」や「恥をかいている姿」がとても好きだ。嘲笑をするだけで、一気に自分の立ち位置を高めることができて、あたかも何かを成し遂げた人のように錯覚することができるからだ。
しかし、時折、嘲笑した後に冷静さを取り戻すと、「かっこいい」「羨ましい」という感情が、心に沈殿している。
おそらく、失敗や恥に怯えている自分には、無いものを持っているからだろう。そもそも当人達は、その姿を失敗とも恥とも思っておらず、その状態を努力として昇華してるらしい。自分もそうなれたら、どれだけ楽になるだろうか。
活力を得るための嘲笑が、時には自傷行為となり、さらに深い傷を負わせた。
本当は見たかったが、今日はtiktokは開かない方がいいような気がした。
こんな考えは改めなければならない、という自覚は持っている。
だからこそ、不満を好き勝手言いふらして、その人を傷付けたいとは一切思わないし、今までも思ったことがない。いつも自分の中で留めている。
加えて、ここ最近は「heart」とかいう、よくわからないアプリが出てきたせいで、悪口はこの世の中から抹消されつつあった。私は、用法用量を守り、正しく悪口と付き合っていたはずなのに、悪口に関わるものを一切認めない風潮が蔓延し、日々を過ごすだけでも後ろめたさを感じるようになっていた。
しかし、入り組んで、絡まって、どこまでもひねくれてしまった自分として生きていくには、不適切なことを考えないようにすることは、不可能だった。
陰鬱な気持ちを自分の中に留め、日々足枷を増やしながらも、なんとか社会と折り合いをつけて生きてる自分を誰か褒めて欲しいくらいだった。
せっかく電車の端の席を取れたのに、至福の時間に花を添えるコンテンツがなかなか決まらない。
SNSを見ても、ネットニュースを見ても、気づけばアプリが散乱したホーム画面に戻ってしまっていた。
すると、上の方から視線を感じた。
無視して漫画アプリを開き、没頭しようとするが、相変わらず視線が降り注いでくる。
煩わしい。邪魔しないでよ。再び頭に血が昇り始める。
堪えきれず目線を上げると、スーツを着た青年が、こちらなんて見てもなく、ただひたすらにスマホを凝視していた。
彼の目線とスマホの延長線上に、私がいただけだった。
勘違いも甚だしいが、宙ぶらりんになった怒りを簡単には鎮められず、正当化するために、視線はそのままにした。
するとその彼は、突然慌てた様子で足元においた鞄を開け、資料らしきものを取り出した。こちらの視線に気づく様子はない。
ページをめくるにつれて、口が小刻みに動き、資料をめくり終わると、露骨に不安な表情を浮かべた。
次第に脂汗が浮かび、スーツの裾で執拗にそれを拭い、停車駅のアナウンスが流れる度に、表情は険しくなった。彼の様子は、怒りと気だるさでモヤがかかった私の心を、ぱあっと晴れさせてくれた。
「あ、ごめんなさい」
頼りない声と共に、その男性が手にしていた資料が、私の膝の上に落ちてきた。膝に乗った資料が、勢い余って、雨水で濡れた地面に滑り落ちそうになった。私は咄嗟に資料を両手で叩いて、押さえた。水に濡れることは防げたが、資料には皺が入ってしまった。
すると、電車が駅に到着し、速度を落とした。
「いえいえ、大丈夫です。ちょっとだけ、折れちゃいました」
皺の入った箇所を指差しながら、膝に乗った資料を男性に渡した。
「全然大丈夫です、すみません」
申し訳なさそうに男性が呟くと同時に、ドアが開いた。
「あ、頑張ってくださいね」
ふと、言葉がこぼれた。
「え、あ、ありがとうございます」
男性は動揺しながら、資料を受け取り、会釈しながら電車を降りていった。男性の表情には、焦りの中にも朗らかさが垣間見えた。
扉が閉まり、また電車が動き出した。
なんであんなこと言ったんだろう。
電車の速度と比例して、顔の温度も上がっていった。
恥ずかしい恥ずかしい。
何の意図もなく、反射的に言葉が飛び出していた。
突き動かした感情を手繰り寄せようとしたが、どれもしっくり来なかった。
しかし、入り組んで絡まって、どこまでもひねくれたいつもの自分とは発射口が明らかに違って、どこか懐かしさを帯びていた。
まだこんな自分もいたんだ。
次が会社の最寄駅だ。
今日の仕事は、少し頑張れそうな気がした。
誰かから搾取した活力ではなく、自分自身から精製した純度の高い活力が、突き動かしている気がした。
この電車でまたあの人に会えたら、素直に「ありがとうございました」って言ってみたい。
と、理想の自分を想像してみたが、嘲笑してしまいそうだった。
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