リンゴ
不許
リンゴ
――原罪。
神はアダムとイブを造られたもうた。
然れども、彼らは永久の安寧を約束されたにも拘らず、蛇にそそのかされ禁断の木の実を食み、エデンを追われた。
禁断の木の実……「林檎」。
なぜ、アダムとイブは禁忌と知りながら林檎を口にしたのだろうか?
時は遥かな過去に遡る――
アダムとイブは一本の樹の前に立っていた。甘い甘い匂いが彼らの鼻をくすぐる。
その樹には、大きくて真っ赤な実が生っていた。
林檎である。
その幹には長い尾をしならせる蛇がいた。
鎌首をもたげながら舌をちょろちょろと出し、滑らかに体をうねらせている。
瞳孔は猫のように縦長で、赤い目をぱちぱちと瞬かせていた。
訝しげに見る二人に寒気がするほど優しい声音で囁く。
「その林檎を手にとって食べてごらん。さぞ芳醇なことだろう、さぞ甘美であることだろう。
口いっぱいに蜜が広がれば、この世のものとは思えぬ快楽をおまえは得る」
アダムはごくりとつばを飲んだ。林檎の赤色は鮮血の如く、網膜に夕日のような紅を焼き付ける。
赤い皮の下から覗くのは瑞々しい果肉の黄色。
ふらふら、ふらふら。
細まる蛇の目。
おぼつかない脚で歩み寄って、迷える蠅の如くアダムは林檎の真下に立った。
そして赤く艶めく果実を掴み……品種同定を始めた。
測定工具で慎重に大きさ、硬度、糖度の三項目を測定する。
「紅玉じゃないか。紅玉は菓子向けの品種だから生食には向いてないな。直に食べるのならふじが良い、どこにでも売ってるうえ味が安定している」
蛇のまんまるに丸くなった目をよそに、アダムはもう林檎の木に興味が失せたのかイブを連れて住処に戻ってしまった。
「人の子よ、人の子よ!」
「なんだ蛇よ」
「お前は赤い実には興味はないのか? お前の空いた腹を満たす実だぞ、さぞ口にいっぱいに甘酸っぱさが」
「なんと! いま私たちは林檎の味のイメージを固定したふじの功罪について語っていたのだ」
甘酸っぱいと口にした瞬間、アダムがあまりにも鋭い目をしたので、蛇は目をぱたぱた瞬きさせたのち慌てふためいて禁断の果実に代わるものを探し回った。
蛇が咥えたのは葡萄。禁断の果実的な葡萄が、アダムとイブの前でゆらゆら揺れる。林檎ではないのは残念だが人の子を堕とすには十分十分。
甘い甘い匂いが、アダムの鼻をくすぐった。
「では夜をまとったの果実はどうだ」
「わかりやすいな。ぷっくりした大振りの実……巨峰か」
「ま、またか!?」
「巨峰はいい。実にいい。口にすれば迸る甘い香り味も匂いも何もかも濃厚。皮をとらねばならぬ手間をおいても口に放り込む価値はあるが……残念ながら私はシャインマスカット派だ。皮をとらなくていいのが助かるし上品な味がいい」
「マスカット系はあっさりしてておいしいわね。でも私は皮ごと食べるならナガノパープル派」
こうして、葡萄はマスカット派のアダムと、葡萄はやっぱり黒派のイブが厳かに論争を始めた。
白熱する彼らに、もはや蛇の姿は見えていない。
「き、きいいぃぃいいい~!」
蛇はもうヤケになって、かたっぱしから色んな果実を集めた。
桃、梨、キウイフルーツ。
だがその度にアダムとイブがああだこうだ、ああだこうだと言い、しまいにはピンクむつと世界一の違いすらわからない蛇にあきれ果て、愛媛果試第28号なる果物を持ってくるまで相手にしないとまで宣った。
――こうしているうちに天より光が降り注ぎ、主が姿をあらわしたので、ついに蛇は逃げていった。
アダムとイブは主を見るや笑みを浮かべ、主はそれを見て良しとされた。
そう……アダムとイブは林檎を食べなかった。
神との約束は久遠に続き、楽園を追放されることなく永遠に平和を享受した。
当然、アベルとカインは生まれないしその後の系譜も一切合切なかったので……
人間は二人しか生まれなかった。
人類の歴史は始まることなく終わったのである――
リンゴ 不許 @yuruseine
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