第46話
毎度のことで嫌になるのだけれど、目の前の男は涼しい顔をしているというのに、いや、面をつけているから顔はわからないけれど、こちらは息が上がって追い詰められた子猫だ。
肩も手首も、もう完治した。竹刀を振りまわしても痛まない。問題はそこではない。
事件以来、拉致されていたときのことを、牛もビックリするほど何度も反芻している。緒沢くんにたすけられ、片方の手首の拘束を外してもらったとき、やろうと思えばもう片方の拘束を自分で外すことはできた。なのに
自分で近藤を取り押さえようとは考えなかった。
満身創痍の緒沢くんにすべてをゆだねてしまっていた。
ただ守られただけだった。
中学のときから進歩していない。
まだ怖いのだ。
暴力が。
手も足も出ない状況が。
あのとき、
闘争心を失っていた。
いまだって怖い。
きっと簡単に負けてしまう。
負けることが怖いのではない。
弱い自分が強いものに負かされることだ。
克服する
というのはどういうことだろう。
強くなる
ということではない。
女なのだ
男より強くはなれない。
弱い自分が強いものに負かされて
それでもなお、
くじけないということ。
誰にも屈服しないこと。
そんなことだろうか。
考えるのはやめだ。
叩きのめすというならやってもらおうじゃないか。
息を吸い込む。
頭はからっぽにして、
体は自動運転。
突っ込め。
面、面、面、面、面、面、面、面。
小手。
面、
相面。
体当たり。
吹き飛ばされて、ぐっと踏ん張る。
竹刀が飛んでくる。
面。
重い。
面がつづく。
前に、出る。
竹刀が目の前を走った。
引き胴、やられた。
難易度の高い技だ。
「副署長、今日はどうしたんです?いつも以上の気迫というか、殺気でしたよ。嫌なことでもあったんですか」
「うん。いつものことだけど、周囲百キロ圏内の男全滅しないかぎり機嫌が悪いんだ」
「ああ」
マル暴といわれる部署の、組員と見分けのつかないような凶暴な面容の男が、ストロベリーアイスをコーンから落としてしまったような顔をしている。ずっと面つけてろとはいえないけれど、そうしてもらえたほうが話しやすい気がする。
「睡眠薬は、いくら剣道で鍛えてもダメですよ」
「そんなことじゃない」
「自分に腹が立ってるんですか」
「うっさい。わかった口きくな」
ああ、朝から汗を流してスッキリしたかったのに。まったく失敗だった。相手が悪かったんだ。緒沢くんにでも付き合わせればよかった。
おい、
なんでお前が出てくる。
最悪だ。
午前中にアポを取って、出かける準備をする。また着替えだ。
更衣室にやってきたのは、ヒトミちゃん。
ちょうど下着姿だから、落ち着かない。
「副署長、お出かけです?」
「ちょっとやぼ用で。道場で怖いおじさんの顔見てたら思い出しちゃってね。猛獣使いみたいな」
「はあ、よくわかりませんけど」
はいと満面の笑みで警察手帳を差し出してくれる。ブラウスの袖に手を通した状態で受け取った。
警備会社というのは儲かるものらしい。立派な自社ビルというやつだ。わたしも退官したら雇ってもらおうか。特別待遇で。冗談だよ。誰に突っ込んでいるのかわからない。
目の前のビルに乗り込む。
受付で用件を告げ、正面の待合スペースですわって待つ。猛獣がエレベーターをおりたところから、のっそりやってくるのを注視する。
「轟さん、こちらから突撃しにきましたよ」
「おう、女の客なんて言うとまわりがざわざわしちまうからな、遠慮してもらいてえな」
「ちょっと一杯つきあってください」
バッグから缶コーヒーをだす。
「そんじゃま、景色のいいところでもいくか」
ビルを出て、すぐ隣の小さな公園にはいる。そこは、ただの公園ではなかった。公園の端は崖になっていて何メートルだろう、十メートル以上か、下は一気に落ちこんでいる。新人が入ると轟さんはこの崖から突き落とすのかもしれない。
「冬の天気のいい時には正面に富士山が見えるんだ。それで富士見公園なんつう名前がついてる。今日は靄がかかっててダメだけどな。あの向こうにキレイに聳えてるはずだ」
崖の手前に立つと、ずっと遠くまで見渡せる。ただ、両サイドは高層ビルだから、いい景色は崖の端まで行かないと、縦長ですこし味気ない。
「こっちのビルからの眺めの方がよさそうですけど」
ビルの中の眺めのいいところに案内しようという気はないらしい。
崖の手前のベンチに腰かける。見晴らしがいい。コーヒーの缶をひとつ、手渡す。
「なんだ、ぬりいな」
「くる途中で買ったんで。ビルの中の自販機で買えばよかったですね」
「事件のことは聞いた。ひでえ目にあったな。でも、事件は解決したんだ。ありがとうな」
「ちがうんです」
「なんだよ、ちがうって」
「桜井さんが殺されたの、わたしのせいなんです」
「そんなわけねえだろ、やったやつらが全面的にワリィ。それとも、副署長が命令してやらせたのか?」
首を振って否定する。轟さんが缶を開ける。わたしは手のひらではさんでころころともてあそぶ。
「お弁当を一緒に食べたんですよね、護堂さんの事件のあった日」
「ああ、警備員室がいっぱいだったからな。二階のあそこで弁当を食ったんだろ」
「そうです。職場で事件があって気になるだろうからって、お弁当を食べたあと事件の話をしちゃったんです」
「別にかまわねえだろ。ロクなことわかってなかったんじゃねえか」
「でもそのとき、自販機にアイスの補充をしてたんです、近藤が。わたしが、首を切ってクーラーボックスで冷やしてたって話したのを、そのとき聞いてたんです。だから、そのこと近藤が知って、桜井さんは首を切られてクーラーボックスにいれられたんです。それに、わたしが事件のこと話したから、そのすぐあと桜井さん近藤を追いかけて行って玄関先で話をすることになったんです。それで、バーに誘い出された」
「そんなの、副署長が話さなくたって、事件のことは桜井だって知らずに済ませるわけねえんだから関係ねえだろ。近藤が首のこと知らなかったら、首を切らなかっただけで、桜井が殺されずに済んだってわけじゃねえ」
「でも、動物実験のとき近藤が持ち込んだ段ボールを不審に思ったって、桜井さんはずっとそのままにしてたんです。わたしが事件の話をしたとき、ちょうど近藤を見かけたから思い出して、わたしに協力しようと思って近藤に問いただしたんですよ。しかも、そのときだけオシャレな私服だったんです。普段は警備員の制服なのに。近藤は桜井さんにいつもと違う印象をもったはずです」
「そういうことはな、あるよ。よくある。本当はちがうかもしれない。けど、そう思えて仕方ない。おれだってそうやって何人も殺したような気になった。だからって気にするなとはいわねえ。でもな、警察に協力してやろうって気持ちはしっかり受けとらねえといけねえんだ。そんなことしないで警察に話せばよかったじゃねえかって思うけどよ、人間の善意っつうのはそういうもんなんだ。副署長がそうさせたんじゃねえ。桜井はいいやつだった。副署長に協力したいと自発的に思った。
善意に対してすべきなのは感謝だ。後悔や懺悔じゃねえ。
善意に支えられて、警察は仕事してるんだ。そう思って、このどうしようもねえ世間で警察をやるんだよ」
善意か。そんな言葉もあったなっていうくらい、普段使わない言葉だ。猛獣の口から、善意なんて美しい言葉が吐かれるとは。掃き溜めにツル、いや、ハクに引っ張られてしまった。えーと、なんか今の状況をあらわす言葉が。
「もやもやしてどうしようもねえなら、一発ビンタしてやろうか?」
「遠慮します」
「そうか。おれはスッキリしたけどな」
「わたしは手が痛かったですけどね」
「とにかく、生きててくれてありがとうだ。これで副署長に死なれた日にゃ、それこそおれが副署長を殺したんだってふさぎ込まなくちゃいけねえところだ」
「ああ、つまりそういうことか」
「そういうことなんだよ」
コーヒーの缶を開ける。一口味わう。ぬるい。
ふふ。猛獣がありがとだって。わたしに。
「轟さん」
「なんだ」
「ヒメって呼んでもいいんですよ。退官したんだから好きに呼んでいいんです」
「だって、あのとき。くそっ、そうだな。おれとしたことが気迫負けした。けど、いいんだ。今のうちだけだ。な、月姫副署長」
「そうですね。本庁にもどって出世する予定なんで」
食うもんがちがうだろって言って、昼食を一緒にすることなく別れた。轟さんが去った後もベンチにすわったまま、コーヒーを飲んでは靄に目を凝らすけれど、富士山は姿をあらわさない。
やっぱりぬるいな。
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