第36話
もうここで妥協すべきだろうか。助けが見込めるならいくらでも時間稼ぎをするけれど、助けはこない、向こうは共犯者がくるでは目も当てられない。
レイプして隙ができればいいけれど。
手が使えないとなると、首を足で挟んで締め上げるくらいのことしか思いつかない。いや、締め上げるなんて甘っちょろいことを言っているとうまくいかないかもしれない。
首の骨を折りにいくべきだ。
うまくいったら、この男は死んでしまうだろう。
人を殺すことになるのか。
やらなければ殺される。
覚悟を決めるしかない。
この男を殺してでも、生きて美結ちゃんに会う。
そうだ。
うなづく。
よし、と言って照明をずらしはじめる。顔から照明がはずれてすこしほっとする。次に、わたしを吊っているパイプでできた枠を倒しはじめる。背中側に倒れてゆく。正面側は大洪水だから、背中側に倒れてくれて安心だ。姿勢も仰向けの方が好都合。
ごめんなさい、美結ちゃん。中学のとき美結ちゃんが守ってくれたもの、ドブに捨てることになっちゃった。
お尻が床について冷たい。背中、かかとと床に降りた。後頭部が着地し、腕が床についたときは、もう助かったという気になった。まったくちがうけれど。
照明が調整されて、またこちらを照らしている。男はわたしを観察している。まだ鎖につながれてなにもできないというのに。でも、この少しの時間だけだ。よろこぼう。あとはもう地獄しかない。
足もとにまわりこんで、足を鎖につないでいた革のベルトがはずされる。両足ともはずれて、足が閉じられる。腕もおろせたらいいのに。
腰を動かす。ああ、疲れた。
背中をそらす。血行がよくなった気分だ。このまま眠れそう。
首を動かしたら、耳の中にバリバリっと派手な音が響いた。
肩、肩をさすりたい。手首も動かしたい。
「肩が痛い。手首が痛い。すこしさすってよ」
どうせ体中いじりまわすなら、マッサージしてくれてもいいじゃないか。
「そんな条件は取引にはいってないはずだよ。さあ、いいなりになるんだろうね」
せっかく閉じた足を開いて股の間にはいりこんできた。ズボンといっしょにパンツを脱ぎ捨てている。
うそだ。なにもしていないのに大きくなっているじゃないか。普段はこんなじゃないだろう。オシッコで興奮したということか、このド変態。
グロテスク。
気持ち悪い。
わたしの太ももを抱えて体を引き寄せる。
もういれてしまうの?
うそでしょ?
肩のマッサージはどうしたの?
もっとこう、いろいろ準備があるはずじゃないの?
いや、わたしはあんなグロテスクなもの口の中にいれられたくはない。そんなことされるくらいなら股間にいれられたほうがましだと思うのだけれど、あんなものが急にあそこの穴にはいるはずがない。指でほぐしたり、舌で潤いを与えたりするものじゃないの?いや、してもらいたいわけじゃないけど。
「ちょっと、マッサージっ」
痛い!
話を最後まで聞け!
痛い、痛い、痛い。
「おい!」
ほら、やっぱり。股間が切り裂かれるように痛いじゃないか。
わたしの体はのけぞり、腰をねじって逃げ出していた。
「抵抗しないっていったじゃないか」
「だって、イッタいんだもん。急にいれようとするから、死ぬほど痛かったんだよ。もっとなんか準備があるでしょ?ヘッタクソなの?」
「いや、普通ツバつけて滑りをよくすれば、前戯なしでも痛くなくできるよ」
「わたしがおかしいってこと?」
「さあ」
痛い!
やっぱり痛い。
足が閉じてしまう。
うう、やっぱり殺された方がいいかもしれない。だって、死ぬほど痛いんだもん。
なんなの。
男なんて滅べばいいのに。
死ね。死ね。
「きみ、もしかしてヤったことないの?」
「なにが」
「セックス」
「うっさい、そんなのあんたに関係ないでしょ!」
「いや、だって痛いっていうから」
「いいよ、もう。殺せばいいじゃない。殺してからにしてよ。そしたら痛がらないから」
「そういうなって。すこしガマンしてくれよ」
「ぎゃー、イッター!」
わたしは足を閉じて力いっぱい伸ばし、体をひねって逃げようとするし、男は足を引き寄せて開かせようとするし、もみ合いみたいになった。
腕は開いた状態でパイプに鎖でつながれているから這って逃げるというわけにもいかない。首を振ってすこしでも体を動かす助けにする。
男の手が消えた。
腰が、足が床に落ちる。
派手にものが衝突するような音がした。
足が自由になっている。
閉じたまま膝を曲げて、横向きになった体に引き寄せる。
閉じていた目を開ける。
「副署長。遅くなって申し訳ないっす」
お目付け役くんの後姿を下から見上げる。
きてくれるなんて思っていなかった。
なんというか、頼もしい気がする。きっと錯覚だけど。
ジャケットを脱ぎながら振り返って、体にかけてくれる。
ああ、体に布が一枚のるだけでこの安心感。現代に生まれてきてよかった。服のない原始時代になんて生まれていたら大変だ。
ちょっと待てよ?感覚が麻痺していて気づかなかったけど、思いっきり全裸を見られていたってことか。
「見た?」
「見ないっす。男とジャケットを注視してたっす」
「そう。ならしかたない」
「目がもう一つあればよかったんすけどね」
「よくわからないけど。気をつけて、武器もってるかもしれない」
「はいす。っていうか、なんすかこの水たまり。ションベンくさいっすね」
照明が当たった緒沢くんの影が、わたしの大洪水を見下ろして、匂いのもとを確認している。確認するまでもないじゃないか、もう正体わかっているのに。見ないで、息は止めていて。
いや、それどころじゃない。
「気づいたんだけど、大丈夫なの?」
「なにがすか」
「立ってるのがやっとに見えるんだけど」
片足は踏ん張ることができずに体が傾いて、一方の腕でもう片方の肘の上を押さえている。満身創痍というやつじゃないか。
「おれのことより、副署長っすよ。殺されるかと思って、こっちが死にそうだったっす。生きててくれてよかったっす」
わたしの手首に巻かれたベルトをはずしにかかる。片手は力が入らないらしい。ほとんど片手での作業だから、手間取っている。
「わたしは肩と手首を痛めたくらいだけど、大丈夫なの?」
「へーきっす。あの副署長の親友の方に助けられたっすよ」
美結ちゃんだ。一緒だったのか。いまは?美結ちゃんはどうしたんだ、なぜ一緒じゃないんだ。
「美結ちゃんは?美結ちゃんになにかあったの?」
「心配ないそうっす。車にいるっすよ。電池切れといってたっす。なんなんすか、彼女。急にスイッチはいったみたいに人間技とは思えないようなパワーを発揮したかと思ったら、車に乗ったとたん電池切れだって言って動かなくなったっすよ」
本当に電池切れになったのだろう。
「大丈夫。それが美結ちゃんだから」
「はあ」
そんなオシャベリをしている状況ではないのだった。
片手の拘束がはずれた。自由になった手をかざして照明をふせぐ。
男が体勢を立て直し、照明のあたっていない暗がりで、片手に鉄材の棒を握っている。もう一方の手はアゴを押さえている。お目付け役くんは男のアゴを蹴りあげたようだ。当り前だけれど、下半身は裸だ。上半身に武器はもっていなかったみたい。棒はきっと、わたしを拘束している枠と同じ材だ。パイプ状になっている。
男はお目付け役くんに向かってなにか叫んでいるけれど、アゴを痛めて言葉にならない。
「気をつけて」
あの男を制圧しなければ。逮捕だ。
お目付け役くんは立ち上がって、さっきの満身創痍ポーズになる。位置関係からほとんど影にしか見えない。
わたしの片手はつながれたままだ。自由になった手は、照明をさえぎっている。
「副署長、やつになにかされたんすか」
「まあ、いろいろと」
「殺す」
ちょっと。
止めようと声をかけるまえにお目付け役くんは男に向かって行った。
男は棒を振りかぶっている。
あんなの頭に受けたら頭が割れて脳みそがぐしゃっとなってしまう。剣道の有段者ならお目付け役くんなんてひとたまりもない。
棒が降りおろされる。
体を横に開いて、目の前を棒が通過する。
男のとなりに体をつけるように立つ。
体をもちあげる。なんとかいうプロレスの技だ。プロレスは詳しくない。
男は腕と足をバタつかせてもがいたけれど、無駄だった。
お目付け役くんは膝を痛めているから、途中でガクッと倒れる。
男は床に叩きつけられたあと、四つん這いになって咳きこみながら、片手で後頭部を押さえている。こちらに頭を向けているけど、お尻は丸出しのはずだ。
どうやら、男を制圧できたみたいだ。
お目付け役くんが男の前にしゃがむ。
「よくも副署長にヒドイことしてくれたな。覚悟はできてるんだろ?」
男はうまくしゃべれないらしい。声はだしているけれど、ひとつも言葉にならない。声がくぐもっている。口の中になにかはいっているようだ。
「ねえ、拳銃なんてもってないんでしょ?」
「もってきたっす」
「うそ。その人にいまつきつけてなんてないよね」
「そんなことしないっす」
こちらを振り向く。お目付け役くんの背中で隠れていた男の頭が暗がりの中で見えた。口に拳銃の先を突っ込まれている。突き付けてるどころじゃない、大変だ。
「ちょっと、やめなさい。すぐに仕舞いなさい」
「こいつ、死に値するっす」
「そんなことない。裁判にかけて刑務所にぶちこむんだよ。やめて。そんなやつのせいで人生を捨てちゃダメ」
「こいつのためじゃないっす。副署長のためっす」
「だったら、わたしはそんなこと望んでない」
「まちがったっす。自分のためだったっす」
男の悲鳴にならない声が神経をかきむしる。
お目付け役くんは体をもどす。
男の姿が隠れる。
お目付け役くんの腕が動くのが後姿でわかる。
拳銃をしまう動作ではない。
「副署長に関する記憶、お前にはもったいないからな。脳みそぶちまけて消してやるよ」
「やめて!撃っちゃダメ!やっと刑事になったんでしょう!」
一瞬の光と銃声。
男が倒れる。
お目付け役くんの影から男の腕が床に伸びるのが見えた。
殺してしまった。
きっと後頭部に大きい穴をあけて、脳みそをぶちまけて。
立ち上がって、拳銃をしまう。男の両手を後ろ手にして手錠をかける。片手が思うように使えないから苦労している。腕時計を確認した。
腕を押さえ、足を引きずりながらこちらへ歩いてきて、もう片方の手首のベルトをはずしてくれる。
ダメだ。起きあがれない。
抱き起される。
「服は見当たらないすね。とりあえず車に行くっす。親友が待ってるっすよ。トランクに毛布があったはずっす」
全身が震えて、歯の根があわずカタカタいっている。
「怖かったすよね。もう大丈夫っす」
声が出ない。
「なんすか。いや、しゃべらなくてもいいっすよ。ちょっと失礼っす」
顔を反らし、胸の前にたまっていた上着を背中にまわして肩にかけ、前でボタンをとめてくれる。
「なんというか、ありがたいっす」
お目付け役くんに抱えあげられる。体が傾いている。腕も足も傷めているのに、無理をしているからだ。
「ん?どうしたんすか」
耳をわたしの口のちかくにもってくる。
「ごめんなさい。わたしのせいで」
やっと、言葉が口から出た。声に力がはいらない。
「なに言ってんすか。よくガンバったっすね。おかげで事件解決。一件落着っすよ」
「でも、犯人射殺しちゃったじゃない」
お目付け役くんが顔をのぞき込んでくる。
わたしのせいで、お目付け役くんが殺人者になってしまった。無抵抗の男を撃ったのだ、もう警察にはいられないだろう。やっと刑事になれたばかりだというのに。
「あれ?コントじゃないんすか?」
コントって。なにが?
「射殺なんかするわけないっすよ。ビビッて気絶しただけっす。さっきのはモデルガンす。わかるように見せたじゃないっすか。火薬使ってるから音も光もリアルっすよね。けっこう集めてるんす」
あんな暗がりでわかるわけ。
でも、よかった。
「美結ちゃんをまず、研究所に連れてって」
意識が遠くなるのがわかった。
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