第35話
男がもどってきて、タオルで顔と体を拭いてくれた。脚立をもう一度利用した。すこしずらしただけだったから、すぐにまた使えた。
「あの、あなたのことなんと呼んだらいい?」
「呼ばなくていいさ」
「べつに本当の名前じゃないくていいんだし。じゃあ、アナニマス?」
「なんだい、それ。きみ、頭いいの?」
おっと。わたしのこと知らないんだった。わたしは、たまたまあのバーで待ち合わせをしていた客だ。すくなくとも警察関係者だとバレない方がいいだろう。
「勉強はそこそこできるつもりだけど」
「うらやましいことだね」
「あのお店はよくいくの?」
お店の人がこの男のことを覚えていれば、もしかしたら足がつくかもしれない。
「そんなことはどうだっていい」
桜井さんとはどういう関係だったのだろう。交友関係からこの男に迫れるだろうか。いまのところはなにも出ていないとお目付け役くんは言っていた。中学高校の同級生に範囲を広げて交友関係を調べているんだった。桜井さんと昔からの知り合いだったりするのだろうか。いや、待ち合わせをしたことがなかったようなのだ。桜井さんと以前から親しかったということはないだろう。
何年かぶりで会った昔の知り合いはどうだろう。男もこの町に出てきていた、偶然会う、その時は時間がなくて、連絡先だけ交換して別れる。次に会う約束をしたのが、あのバーということではないか。うん、おかしなところはない。
あのバーを待ち合わせ場所に指定したのは男の可能性が高い。すくなくとも一度は以前にあの店に行ったことがあるはずだ。ということは、全部で少なくとも三回。昨日今日と連続して店にいたのだ、常連の可能性もかなりある。バーの店員はこの男の顔をおぼえているだろうか。顔だけでは身元は分からず、この場所にたどりつけないか。常連なら、仕事をなにやっているかとか、どこに住んでいるかとか話しているかもしれない。うん、バーの店員を取り調べるべきだ。わたしは捕まっていて取り調べをするわけにいかないけれど。
いや、おかしい。すでにバーに聞き込みは済んでいるんだった。男が常連で桜井さんと待ち合わせをした本人なら、常連の男が被疑者として浮かんでいいはず。どういうことだろう。やっぱり桜井さんと待ち合わせをしたのは別人?それとも、常連客をかばって警察に話さなかったのか?殺人容疑なのに?
それにそうだ、研究所と関わりがあるはずだ。そうでなければ、護堂さんの事件を知らず、首を切ってクーラーボックスに入れるなんてこともしない。男は、桜井さんの中高の知り合いで、研究所に勤めている人なのかもしれない。いや、聞き込みの結果、研究所に桜井さんと親しい人間はいないんだった。はじめての待ち合わせという推理にもあわない。研究所に客としてやってきたということかもしれない。でも、そんな人が護堂さんの事件の詳細を知る機会があるだろうか。どこにも、男の居場所がない。
目の前の男からもっと話を聞きだしたいところだけれど、桜井さんの事件を話題にするのはやめておこう。無駄に男を刺激するだけだ。
この男はわたしをどうするつもりなのだろう。レイプして殺すつもりだったんじゃないのか。なにかを待っているのか。それとも主犯ではない?仲間がいて、殺しはそいつがやったということだろうか。なぜ吊るしたまま、体にイタズラする程度のことしかしてこないのだろう。いまは太ももの内側をなでている。なでるほうは滑らかで手触りがいいだろうけれど、なでられる方は叫びだしたくなるくらい気持ち悪い。
つぎの手を考えるんだ。
「下に降ろしてほしいっていうのはどうなったの?」
「ダメだっていったよね」
「トイレに行きたくなった」
もうけっこうキツかったりする。目が覚めたときから尿意を感じていた。ガマンは体に悪い。
「どうぞ、大でも小でもしていいよ」
腐れ外道!
いや、ダメだ。怒りはいまなんの役にも立たない。美結ちゃんが教えてくれた。落ち着いて話し合うんだ。二回も口移しで水を飲むんじゃなかった。アルコールに利尿作用あったっけ。睡眠薬の方か。
「おい、どうしたんだよ。苦しそうだぞ」
「話しかけないで。しばらくガマンすれば波がおさまるんだから」
男が股間に手を伸ばしてきて、われめに指をあてがう。尿道を刺激しようということらしい。神経を腹筋に集中する。
「ねえ、わたしの体がほしいんでしょ?取引しましょう。ここから降ろしてトイレに行かせてくれたら、そのあとは抵抗しない。大人しくされるがままになる」
「ぼくはいいんだ、抵抗されても。押さえつけてやることやるだけだから」
殺したい。こんな状況でそんなこといっても意味はない。無駄だ。生きることに頭をつかうんだ。
それにしても、なんだか体が痺れてきた。ガマンしすぎだ。女は尿道が短いから不利なんだっけ。とてもなにかを考えられる状況ではない。
「ねえ、降ろして。トイレに行かせて」
「もう限界かい?いいよ、ビシャーッとやっちゃってよ」
体をわたしの正面からよける。
お腹を押してくれやがった。
ああ、もうダメ。
男の顔の近くからオシッコが、はじめは申し訳なさそうに、でもすぐにほとばしり出るようになって、床で撥ねとぶ。一度出てしまったらとめられない。頭が痺れるような、全身があたたかいような震えの感覚がやってきた。いつになったら止まるんだとツッコみたくなるくらい、オシッコは長いあいだ出つづける。
やっと止まったと思ったら、水を飲ませてもらったときにこぼれた水と、いまほとばしり出たオシッコが合体して、コンクリートの床に大きな水たまりを形成している。
男はにやにや笑っている。いや、声を出して笑っている。決めた。絶対こいつ痛い目にあわせてやる。それには、とにかく生きてここを出ることだ。
「スッキリしたって顔しちゃって、遠慮ってものを知らないのかねえ。床が大洪水じゃないか」
「クスリのせい。利尿作用があったから。わたしのせいじゃない」
顔をしかめている。
「ションベン臭い。頭が痛くなるよ」
「匂いかがないで。口で息して」
男はしゃがみ込んで水たまりを観察している。このド変態。でも、タオルをもってきて股間と濡れた足を拭いてくれた。少しは関係ができてきたといっていいかもしれない。でも、ダメ。こんな変態は許せない。股間に顔をつけて匂いをかいでいる。そんなことより、床も拭いてくれたらいいのに。
「ねえ。そこから降ろしたら抵抗しないって言ったよね」
沈黙。
「そんな白い目で見るなよ。ションベンだからって、ここから出すわけにはいかないんだからさ。目の前でションベンしてもらうことにはかわりなかったんだって」
股間に顔をつけるようにじっくり見てたくせに。絶対そういう趣味だ。でも、わたしにどう見られるかを気にするというのはいい兆候だ。もうわたしを殺す気はないだろうか。
「鎖もはずしてくれる?」
「それはダメ」
「交渉は決裂。わたしは腕をまわしたいし、手首をさすりたいし、足を閉じたいの」
「それだけ?」
「女のわたしが怖いの?」
「怖いね。ここは草原のど真ん中ってわけじゃない。武器になるものだってあるかもしれないし、きみは頭がいい。なにをするかわかったもんじゃないね」
ちぇっ、慎重だな。でも、レイプの危険が先に延びたのかもしれない。でも、どうするつもりだろう。ずっと吊るしておいて。
「ねえ、友達と待ち合わせしてたんだけど」
「そんなこと言ってたね」
「もういい加減わたしのこと探してると思う。連絡させてくれない?警察に駆け込んだりしたら、あなたも困るでしょ?」
「別に困らない。それに、きみの電話は壊して水に沈めたから使えないんだ」
「ええっ!そこまでしなくてもいいじゃない。ひどい」
はじめから期待していなかった。どうしよう。下に降ろされたらレイプが待っているし、吊るされたままは体がもたない。なにをしようとしているのかわかればいいのだけれど。
「ねえ、目的はわたしの体なの?だったら、なんで吊ったままなの?脚立に乗ってヤろうってわけじゃないんでしょ?」
「そんなわけないね」
「教えてよ。わたしをどうしたいの」
「そうだね、さんざん犯した挙句に腹を切り裂いて内臓をぶちまけるってのはどうかな」
ああ、ダメだった。やっぱりまだ殺す気なんだ。でも、だったらなんでさっさとやらないんだ。やっぱり、なにかを待っているのかもしれない。時間か?人を殺すのにいい時間とかあるのか?それとも共犯者か?
やっとゆっくり考えられる状況になったのだ、考えよう。
この男は桜井さんを拉致した男の可能性が高い。バーの聞き込みから被疑者として浮上していないのが疑問点だ。それから研究所との関係も。桜井さん事件の犯人は二人以上の可能性が高いのだった。これは殺害後自宅に桜井さんを運び込むときに車の運転手がひとりいたほうがよいという推理から導かれる。ひとりで桜井さんを運び込むのは大変だから、もしかしたらもう一人共犯者がいるかもしれない。うん、きっとひとりは共犯者がいる。そうなると、目の前の男がなにかを待っているのは、共犯者を待っていると考えるべきだという結論に達する。
美結ちゃん。これであってるかな。考えるの苦手だから自信がないよ。
とにかく、状況は悪く考えた方がよい。共犯者がいないより、共犯者がいるほうが不利なのだ、共犯者はいると考えなければならない。くそっ、男なんてみんな死ねばいいのに。
「やることが決まってるんなら、もうはじめたらいいじゃない。このままずっと吊られているのは、体が痛くて嫌なの。鎖は、片手をつなげておけばいいでしょ。そうすれば逃げられない。動ける範囲がせまいから、なにも警戒する必要なんてない」
考えている。顔をあげて目線を合わせてきた。
「降ろしてあげようか。腕は両方とも鎖でつないだまま、両足ははずしてあげる」
自分に都合がいいだけじゃないか。このゲス野郎。
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