この世の際にて
弓の人
第1話
疲れた。大学からの帰路、ぐるぐると頭の中をその言葉が巡り続けた。学生生活、大抵の人間はこれが最後のものになる。そして、大抵の人間はその最後を綺麗に彩るために精一杯の努力をする。勉学、友人、バイト、そして恋人。皆、社会の荒波に巻き込まれる前に、お守り代わりとしてそれらを必要とする。これからの不幸を乗り切るために。
しかし、自分にはそれがない。いつまで経っても友人らしい人物はできず、バイトも連敗、恋人なんて以ての外だ。先ほど挙げた中で唯一勉学だけは上手くいっているが、そんなもの、この大学では何の意味も持たず、就活のための経験としては他三つと比べると劣ってしまう。
つまり自分がやってきたことは無意味だ。
つまり自分は無能なのだ。
その現実を認識するのが辛いが、現実とは逃げたくても向こうから近づいてくるものだ。現実が可愛い女の子なら大歓迎だったのだが、お生憎様、自分にとっての現実とはただ辛いだけの毎日だ。
はあ、とため息をつきながらゆっくりと家へと戻ってゆく。こんな毎日ばかりだから、背も丸くなっていくばかりだ。
疲れたな。
頭の中で同じ結論を巡らせながら、一人帰路を歩む。
やがて、自分が間借りしているアパートへ着いた。自分の部屋は二階なので、二階まで続く階段を登っていく。自分の唯一の安らぎが待っている自室が近くなるにつれ、足は先程の亀のような歩みを一転させ、まるで隼のように階段を駆け登ってゆく。
部屋の扉の前へ着くと、がさごそとズボンのポケットを漁り、鍵を取り出して鍵穴へとあてがう。気が逸りすぎて何度か鍵穴から外れもしたが、ようやく辛い現実から幸せの自室へと入ることができた。
ゴミだらけの部屋を通り抜け、近くに置いてあるタバコのケースとライターを持ち、ベランダの扉を開ける。ここまで約20秒も掛からなかった。
いそいそとタバコに火をつけ、大きく煙を吸い込む。そして空気を混ぜ合わせながらゆっくりと吐き出す。この静かでゆるりとした時の流れだけが、自分を現実から引き上げてくれるのだと実感しながら、次の一口を吸う。
しかし、現実は執念深い。
隣の部屋からベランダの戸を開けるガラガラ音が耳に入る。そして間をおかず、楽しげな恋人同士の会話が自分の耳を犯すのだ。
「ねえ、今日何の日か知ってる?」
「んー、分かんないなぁ。何の日?」
女の期待と喜びを帯びた声に、男のからかいと幸せさを帯びた声がひどく耳につく。
いつもなら自身の幸せの模範とする彼らだが、今日は一際腹の虫が騒いでいたため、彼らの声は自分の虫の養分になるだけだった。
「まず…」
むしゃくしゃしながら残りを早めに吸い上げ、灰皿へと吸い殻を落とし、部屋に戻る。今日の現実ちゃんは意地が悪いみたいだった。
「全部ぶっ壊れりゃ、いいのにな」
今日は気分が良くないので、早めに床につくことにした。寝具の中で救われることを夢見て。
その日、ある夢を見た。
暗く、狭い天井で、辺り一面は無機質な素材でできており、生命を感じることのない静かな空間に一人立っている夢だった。
その場にいると、まるで自分の輪郭を失っていくような感覚に襲われる。しかし、それが苦ではなく、自分には心地よく感じられた。救い、という言葉が脳裏をよぎった。
溶け合い、自分という小さな殻から解き放たれていく感覚に身を任せ、やがて自由になっていく。
なんと気持ちの良いことだろう。
まるで大いなる者の手で掬われているかのようだった。そして暗い、その場所から掬い上げられるその時に目を覚ました。
「くっそ…」
視界から嫌でも伝わる確かな情報と先程の感覚の欠落から、夢だったと気づいた。
記すことはないが、その日丸一日は憂鬱に身を浸して過ごしたと書いておく。
翌々日、その日、頭の中を駆け巡っていたのはあの暗い、救いの場所のことだった。
自分は密かに(といっても、これを語る相手は誰もいないが)大いなる者、すなわち神の実在を信じ始めていた。
あれは、自分を憐れんだ神による救いの手だったと、自分は心の底から信じているのだ。
しかし、自分の理性的な部分がただの夢だと反論してくる。あれは夢だと。ただのまやかしなのだと、脳裏にある耳元で囁き続けるのだ。
その声が、ひどく鬱陶しくてしょうがなかった。
この反論を覆すには、今一度あの、救いの手を自分自身に差し伸べられねば、自分は自分のことをただのキチガイであると認めなかればならない。そういう心持ちになっていた。
また、救いの手を差し伸べたものに対する怒りも湧いていた。なぜあそこで掬い上げるのやめたのか。中途半端に掬うから、自分はこうもやきもきするハメになっているのだ、と。半ば八つ当たりであると自覚はしているのだが、それでも思わざるを得なかった。
胸の内に複雑に溶け合った塊を宿しながら、家へと足を進めてゆく。
今日こそは救いが訪れることを祈って。
この世の際にて 弓の人 @koilld
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