ところで。

 先日子猫を家に連れ帰ることになった。

 新聞記者の端くれとなったぼくはつまらない事件を必死になって追いかける毎日を過ごしていた。使い走りと何も代わらないが、ただこれはぼくを必死にさせてくれる。暇があるよりもないくらいの方がなにかと都合が良かった。頭を空っぽにするのだ。そうやって女優の不倫だとか野球選手の新しい恋人だとかぼくにとってどうでも良い情報を追っていた。

 そんなことをしていたらおそらくぼくが過去に追っていた女優のファンであろう男に殺されかけた。「あんな嘘記事を書きやがって」と背後から鉄パイプで殴られたのだ。ああいうものはどこで入手しているのだろう。わざわざぼくを殴るために買ったのだろうか。それなら申し訳ない。それともご自由にどうぞと書いて道の端なんかに置いてあるのだろうか。

 現場は遊具のない公園で、陽も落ちかけていたのであたりに人はいなかった。

 ぼくが頭から血を流して倒れ込むと、ありがたいことに男はどこかに行った。もう一度頭を殴られていたら死んでいたかもしれない。たしかにたまにメディアに顔を出すこともあったが、よくぼくが記事を書いたとわかったものだ。ファンというものはアンチには鼻が利くのだろうか。

 母に水をかけられる夢を見て目を覚ますと、子猫がぼくの顔を一生懸命舐めていた。ちいさな子猫だ。ぼくの靴よりもちいさい。茶色の毛で青っぽい瞳をしていた。ぼくは猫の種類に疎いが、雑種なのだろうということだけはわかった。それと、どうやらオスだった。野良の子だろう。それにしては母猫はどこにもいそうになかった。まだ母猫の後を追いかけていて良いくらいのちいさな猫だ。

「やあ、子猫よ。君はどうしようもなくちいさいな」

 絞り出すように猫に語りかけた。ぼくは依然として地面に伸びているし、猫に顔を舐められていた。ぼくが声を掛けると、可愛らしいことに舐めるのを止め、にゃあんと高く鳴いた。

「君はなにかい、母君とはぐれたのかい」

 その問いには猫は答えなかった。そうかと思い、「自分から来たって言うのかい」と聞くとまたにゃあんと鳴いた。

「おや、ぼくの言葉がわかるのかい。ぼくよりも賢いね」

 猫は満足気にぼくの顔を舐める。正直猫に舐められるのは痛い。だが、それ以上に頭痛がひどかった。

「賢い君を見込んでお願いしたいのだが、人を呼んできてもらえるかい。どうも動けなくてね」

 そしてぼくは気を失った。

 ぼくが幸いにも再び目覚めたとき、猫はぼくの足にまとわりついていたという。ぼくを介抱し、応急手当をしてくれた親切なおじさんがそう言っていた。身なりは小綺麗にしているがおじさんもくたびれた顔をしていた。人の人生に興味はないが、おじさんもぼく同様に様々なものを諦めて生きているのだろうということだけはわかった。

 ぼくはとんだ幸運な男だ。おじさんの暇がぼくを介抱することで潰れるのなら良いのだけれど。暇はたいそう悪質な癌だ。嫌なことを考えてしまったり、賭け事に足を運んでしまったりするきっかけになる。

 ぼくは財布がまだジャケットのポケットに入っていることを確認した後、おじさんに感謝の言葉と財布を渡した。そう大金は入っていないが、ぼくの頭に巻いてくれた包帯がわりの布きれ代よりはあるはずだ。

 いつ頭を触ったのか全く覚えがないが、手にべったりと血がついていた。

 なるほど、ぼくは仕事を辞めるべきらしい。

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ちいさな猫と地獄について 藤枝伊織 @fujieda106

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