第3話【お絵描きアプリのレイヤー機能を理解するのは使いだして、だいたい一か月後】


 ガーネット親子とは聖堂前で別れた。彼女たちはまだ用があるようだったので、俺は一足先に帰路につくことにしたのだ。帰り際に振り返り目にした聖堂は茜色の日に照らされ、白かった壁が優しい薄橙色でとても美しく見えた。これも今日の新たな発見だ。


 帰路の途中も今日教わった店や街並みをいつもより少しだけ長く目に映して歩んだ。ここに来てから異世界感が薄いなどと宣っていたはいたが、本当は変化に向きあうことを恐れて、知らず知らずのうちに目を背けていたのは自分だったのかもしれない。だから、当たり前に抱く疑問にさえ気づかないままに……気づかないフリをしていた。家に着いたら、ちゃんと向き合おうと小さな決意を胸に一歩を大切に踏みしめる。


『よう、兄ちゃん。元気してるか』

『ベルモンドのおっちゃん。まぁ程々に、かな』

『なんでい、切れの悪い返事だな』

『自分の至らぬ点に直面して、反省中なもんで』


 俺の言葉にベルモンドのおっちゃんは目を丸くした後に高笑いを上げた。


『がっはっは、その若さで失敗を振り返るのは早すぎってもんよ。兄ちゃんいくつだ?』

『これでも二十九だよ』

『俺の半分以下じゃねえか。まぁ人間(ヒューマン)なことを含めても、まだガキだな』

『半分以下って、おっちゃん何歳なんだよ』

『俺の年齢は今どうでもいい。兄ちゃん、反省ってことは何かを失敗した。もしくは出来なかったってことだろう。そんなこと別にいいじゃねえか、それで命が取られたわけでもない。だったら兄ちゃんは前だけ向いて次に何するか、それだけでいいんだ。そこまで落ち込んでるわけでもねえのはわかってっけど、人生の先輩からの助言だ。お節介かもしれねえが、頭の隅にでも置いとけ。進め、立ち止まるな。何があっても何をしても、立ち止まらずに歩き続ければ、道は続いていく』


 そう言うとおっちゃんは、握りこぶしに親指を立て、力強い笑みで俺を鼓舞しているようだった。


『……ありがとう。おっちゃん、また今度飯でも奢るよ』

『いや、その前に弁当箱返せ』

『あっ』

『お礼だけこの前言いに来た時にも言ったがな』

『ごめん、今から取って持ってくるよ』

『もう店じまいだ。次回で構わん』

『えっ? 確かに日は落ちてきてるけど早くない?』

『周りも見てみな。他の店とかももう閉め出してるぜ』


 おっちゃんの言葉に従い、周囲の露店を見てみるとほとんど商品を片付け終え、もう完全に閉店しているところもあった。普段なら、だいたい夜の二十時ぐらいまで開いていたと記憶しているだけに疑問を覚えた。


『今日は何でこんなに早く。何か催しでも?』

『そういや兄ちゃんはこのへんの者じゃなかったな。ちょうど今日からが【闇歩】なんだよ』

『闇歩……?』

『おっとまさか大陸外から来たのか、いやすまねえ大分暗くなってきやがった。説明する余裕はねえが、とにかく兄ちゃん早く家に帰れ。それで夜は一切家から出るな。明かりも朝まで絶対に絶やすんじゃねえ。これだけは必ず守りやがれ』


 慌ただしく片づけをすすめるおっちゃんを横目に俺はその場を後にする。おっちゃんは顔こそ上げなかったが、手を振って俺を見送っていた。言われた通り俺は真っすぐ家へと急いだ。途中、この数日閉まっているところを見たことが無かった酒場の灯が落ちているのを目にする。その途端、背中に悪寒が走り、おっちゃんの言葉が頭の中で反芻された。


『ふう』


 家のドアを後ろ手に閉め、椅子に腰を落とすと自然と口から息が漏れる。安堵の息だった。一気に疲れが睡魔と共に襲ってくるが、まだ眠るわけにはいかない。今日は確認することがある。


 業務用のスマホを取り出し、一度深く息を吸い込み、それをゆっくりと吐く。そして、発信ボタンに指を置いた。数回のコールの後に音は止んだ。


≪お電話ありがとうございます。株式会社ディフェレントワールド人事部アリアです≫

『アリア、俺です』

≪あら、オレオレ詐欺ですか? そういうのでしたら、ちょっと……≫

『壮馬です。いくつか確認したいことがあるのですが、今お時間よろしいですか?』

≪珍しく神妙なご様子ですね。いかがされましたか≫


 俺の心情をくみ取ってくれたのか、アリアは最後までふざけることなく俺の疑問に耳を傾けてくれていた。


≪なるほど。つまりは、そちらの世界でスマホ使える原理がわからず、魔具、それも魔宝具であるならば、その対価に怯えているユーザーがいらっしゃって、そこへの懸念解消が出来なかった、と≫

『そうです。ここには携帯電話会社の電波塔があるわけでもなく、付け加えると携帯電話どころかネットすら普及していないのにウェブサイトがきちんとこちらの世界でも運営されていて、何故元の世界同様に利用可能なのかもわからなくて』

≪本当に根っこは真面目ですね。普段のおどけた様子は壮馬さまなりの処世術なのがよくわかります≫

『真剣に悩んでるのですが』


 言葉こそ丁寧に返したけれど、本心はアリアに言われた言葉に気恥ずかしさを覚えていた。


≪まぁ、いずれ来るかとは思ってましたのでひとつずつお答えしますね。ひとつウェブサイトに関しては弊社のグループ会社で運営しています。それにそちらの世界の情報は検索出来ますが、元の世界の情報は検索できません。なので、元のウェブサイトが使えてるわけではなく、サイトを我々で似せて作ってるに過ぎません。壮馬さまのスマホだけは特別仕様で業務用もプライベート用も、どちらも元の世界のウェブサイトに繋がるようにしてありますが≫


 似せて作ってる、とは言うがあまりにもそのままのデザインで再現されている上に、家のピッキングもだが、他にどんな事業展開している会社なのか、と新たに疑問がわいてきた。ただ、今の本題はそこではない。一先ず、優先順位に沿っていこうと話をすすめる。


『じゃあ、通信が繋がる原理に関しては』

『魔法と似た仕組みになるので、少しお勉強のような説明になりますが、よろしいですか?』

『お願いします』

≪では、長くなりますので覚悟を決めてくださいね≫

『えっ』


 それから何時間が経過したかはわからない。ただ、ひたすらに説明が続き色んな話が飛び交った。もちろん全ては俺の質問に繋がることではあるのだけど、公民と世界史と物理と生物を織り交ぜたような授業は興味深い半面、勉強感が増しすぎて、睡魔に苛まれた。しかし、俺の意識が朦朧とし生返事になると瞬時に察知したアリアから苦言を呈されるが繰り返されていた。


≪壮馬さま、お聞きになる気はまだございますか?≫


 その言葉に驚くほど熱はなく、冷めきった声音が冷水の役割をこれ以上無いほどに果たしていた。


≪それでは以上になります。ご質問はございますか?≫

『イエ、アリガトウゴザイマシタ』

≪随分とお疲れですね。まぁ、全て覚えておく必要はありませんので大事な部分はきっとメモなどもお取りされていると思うので、復習しておいてくださいね。テストに出ますから≫

『テストっ……!?』


 アリアのテストはとても恐ろしい。彼女は妥協という言葉からは程遠く、満点以外は赤点判定なのだから。


≪冗談ですよ。でも、そちらで携帯販売することの懸念は晴れましたでしょうか≫

『はい、それは大丈夫です。つまりは地層の中を走る龍脈が大きな魔力の流れで、この世界の一般人は地面から漏れ出し大気に混ざった魔力を蓄える器官が体内にあって、それを魔法や魔具という形で利用している。携帯電話は逆に龍脈にデータを乗せて運んでいるから、それがスマホの電波替わりって認識でいいんですよね?』

≪エクセレント。百点満点の解答です。イメージ的には川に発信機付きのボトルレターを流して、受け取り手になる携帯電話がその発信機に反応して受け取る、と言った感じですね。そして、携帯電話の充電には体内の魔力を使いますが、トーチを利用するのと遜色ない魔力で十分なので、小さな子どもでも問題ありません≫


 アリアの返事にほっと安堵する。ここで認識違いがあると、補習が幕を開けてしまうところだった。


『あれ? でも、そういえば龍脈にデータを乗せるって技術は元々この世界にあるんですか?』

≪あぁ、良い観点ですね。実はエルフ族の技術としては存在しています≫

『アリアってやっぱりエルフなんだ』

≪正確には違いますが、近縁の種族ではありますね。で、お話を戻しますが、この世界でのエルフと人間の関係はかなり疎遠で、あまり接点がありません≫

『それって、逆に怪しまれたり不審がられないんですかね』

≪エルフ族の魔法技術が人よりも高度であるのは周知の事実ですし、接点が少ないというだけで、関係が悪いわけではありません。ですから危険性が無いことを伝えて、細かいことは聞かれたら後はエルフ族が関わっていることを話せば、大体は問題ないでしょう。それでも何か聞かれたり、ご不安になられたら、またこうしてご連絡頂ければ、と思います≫


 アリアに聞けば、こうも簡単に解決出来る問題や疑問を悩みとして抱えていたことに再び心中に恥ずかしさが溢れてくる。いつからだろうか、人に頼ったり聞くことを諦めてしまったのは、新しいことを避けてしまい、未知のままに逃げてしまうようになったのは。


『あ、アリア。まだ聞いてもいい?』

≪ええ、もちろんですよ≫

『さっきニュースサイトはグループ会社が運営してるって話してたけど、影の魔物とかいう不気味な赤い記事について何だけど』

≪あら? あのサイトは私も見てますけどそんな記事はお見掛けしてないですね≫

『え、ちょっと待ってくれるかな』


 俺は自分の携帯電話を取り出し、例の記事を探す。元々、表示されていた場所はおろか、うろ覚えではあるが書かれていた単語で検索をかけても、その記事は見つからなかった。


『あれ、なんでだ。確かにあったのに』

≪ふむ、ちなみに内容は覚えてらっしゃいますか?≫

『魔王の影とかいう魔物がベルンの町に現れる、みたいな話が書いてあって酷く不気味な内容だった』

≪内容は【闇歩】のことですね。しかし、まさか本当に現れるものなのか、否か≫

『そうだ、そのアンポってのは何なんだ』

≪魔王の厄災の一つです。魔王は今から数百年前に滅ぼされたのですが、その際に残した厄災が闇歩といい、一定の周期で世界中を黒い霧が覆うのです。その霧の中では病や呪いにかかると言われています。その夜は灯りを絶やさず、家に籠るものとされています。ま、黒い霧は実際にあるのですが、迷信のようなもので実際は害はほとんどありません≫


 軽い雰囲気で話すアリア。しかし、俺には言葉が引っ掛かった。


『ほとんど、ってことは害があることも少なからずあるんだよな』

≪聡明ですねえ。ええ、黒い霧は影の魔物、魔王の影の渡り船です。現れることすらごくごく稀にはなりますが、影なので灯りのある家に入れませんから、道などで遭遇しない限りはほぼ危険はありません≫

『ちなみに、もし会ってしまったらどうなる?』

≪遭遇していまったら呪いに苛まれ、七晩かけて苦しみの中、絶命します≫

『その呪いを解くことは』

≪まず出来ません。魔王の力に対抗出来るのは女神、または強い呪いへの抵抗を持った者のみです。それこそ伝説の勇者や修道院の教皇ぐらいですね≫

『それこそ夢物語の話なんだな』

≪まぁ百年以上遭遇、討伐したという情報もありませんから、気にしなくてもいい、と言いたいところですが、壮馬さまが見たという記事が少々気になりますね≫

『そうですね。そんな話が実際にある以上、ただの見間違いや白昼夢にも思えない』


 電話の向こうから、アリアの唸り声のようなものが聞こえる。何かをひどく迷っている? 葛藤しているような声だ。


≪仕方ないですね。壮馬さま、業務用端末の検索バーに【7374617475730d0a】と打ち込んでください≫

『ちょ、待って。もう一回』

≪【7374617475730d0a】です≫


 アリアの言われたとおりに文字を打ち込むと画面に、俺の名前から身長や体重などのプロフィール情報が出てきた。


『これって、ま、まさか』

≪はぁ、そんな子どもがわくわくした時みたいな声を出さないで下さい。壮馬さまがお好きそうな言い方を借りるなら、ステータスと呼ばれるものですね≫

『キターーーーーーーーー』

≪そのウザ……奇妙なテンションになられるのが、わかっていたのでまだ言いたくなかったのですが、で、そこの画面の下のほうにスキルという項目がありますので、何があるかお教え頂けますか?≫

『かーしこまりっ!』

 

 アリアに言われるまま画面を下までスクロールするとスキルの欄は確かにあったのだが……。


『えっと、その、アリアさん?』

≪いかがされましたか≫

『スキルがとてつもなく多いんですが、これはバグか何かでは』

≪あぁ、よく見て下さい。壮馬さまの経歴や経験に相応しいものですよ≫


 彼女の言葉で一つずつその名称を見ていくと、威圧耐性、交渉術、状況把握など携帯販売店で必要とされそうなものがつらつらと並んでいた。


≪実にあなたらしいものばかりではありませんか?≫

『確かに、なんか使ってそうなスキルばかり』

≪これまでにたくさん頑張ってきたという証明の一つですね≫

『……そっか』


 そうか、ただ苦しいだけの時間じゃなくて、無駄じゃなかったんだ。


≪で、おそらく上の方には元の世界で手にしたものがほとんどだと思われるので下の方に見慣れない言葉や明らかにご自身で得た覚えの無さそうなものはないですか≫

『あ、る。アンダース語から始まって、魔力変換、異層看破、そこから下は黒く塗りつぶされてて読めないのがいくつか』

≪魔力変換はともかく、異層看破というのは聞いたことがありませんね。まさか、壮馬さまの固有のもの?≫

『転生改め転職チートのユニークスキルなのか』

≪そう捉えてもらったほうが理解が早いようなので、訂正はしません。ちなみにその異層看破のところタップして説明を確認してもらえますか≫

『おっけい。えっと、異なる階層を見抜く、の一文だけかな』

≪ということは、予知などの類ではないようですね。じゃあ、見たものは確かにそこに存在している。いや、それかまだ伏せられている中のものに起因している……?≫


 ぶつぶつとアリアは自身の中の推理を広げているようだった。


『ごめんよ、アリア。考えてくれてるところアレなんだけど、この魔力変換ってのは?』

≪そのスキルは、そちらの世界の住人なら皆が持っているものですからご心配なく。魔力というのはいわば、酸素みたいなものでして大気から上手く取り込めないと生きていけませんので≫

『あー、こっちで暮らすなら必須スキルなのね。ってあれ、そのスキルを何で俺が持ってるの?』

≪点滴に混ぜたナノマシン的なもので、疑似的に再現してるんですよ≫

『なるほどなるほど。ん、今とんでもないこと言わなかった? 人の身体に何仕込んでるのさ!?』

≪え、あ、電波が遠くなってきました。またちょっと調べて後日ご連絡しますねー。それではお元気で、失礼致しますー……≫


 大根役者にもほどがある演技口調でアリアは電話を切った。いやまぁ、無いと生きてけないスキルなら仕方ないのだろうけど、身体にナノマシンってファンタジーだけじゃなくてSF的な要素まで盛り込んできたな。


『勝手に人体改造案件って……なんか微妙にブラック企業っぽい要素があるんだよなぁ。てか、自分で言ってたけど、転職チートってダサいな』


 何時間も話していたせいか気が付くと、外はすっかり日が落ち切り、時間も深夜と呼ぶに相応しくなっていた。そのせいか必然的に空腹にもなるというもので、おもむろに足を台所に運び、中世じみた内観の家に不似合いな現代式の冷蔵庫からいくつかの食材を取り出す。


『豚バラ肉、小麦粉、卵、玉ねぎ、っと』


 腹が減った時は無性に肉を貪りたくなるのも、生物の本能なのかもしれない。

 まず、玉ねぎをすりおろしボウルの中で豚バラ肉と丁寧に混ぜ合わせる。その後、豚肉を厚みが出るように重ねていき、豚ミルフィーユを形成する。豚ミルフィーユに塩コショウ、オールスパイスで下味をつけてから全体に隙間なく小麦粉をまとわせる。


 小皿にコチュジャン、醤油、ごま油、砂糖、にんにくチューブを少々で混ぜ合わせてタレを作っておき、さっきの豚肉を油を引いたフライパンの上に乗せてから弱火でじっくりと焼いていく。形が崩れないように優しく持ち上げ、ひっくり返して全面に丁寧に焦げ目をつけたら、少量の水をフライパンのふちにたらして蓋をして三分。


『よし、出来た』


 こんがりと焼けた豚ミルフィーユを約1センチ幅に切り、皿に盛り付けたら生卵の黄身を添えて、作り置いたタレをいい感じにかけて出来上がりとなる。


『ん-ー、美味い』


 元の世界にいた時、深夜にネット広告のせいで食べたくなったステーキみたいな肉厚感とユッケのとろとろな旨みの両方を満たすために創作した謎の料理。もちろん、名前はまだない。深夜にこの味は罪の味がスパイスとなって、より一層美味く感じてしまう。


 腹が満たされると、今度は眠気が襲ってくる。顔洗って、着替えて、布団に入る。とても簡単なルーティーンなのに、どうしてこうも面倒くさく困難な過程に思えてしまうのだろうか。


 こうしてやるべきことがあるのにダラダラと無為に時間を流す時間は一人暮らしの特権でもあり、実家の暮らしだった時の有難みも実感する瞬間だ。


『あぁ、洗濯物もやらなきゃ……明日で、いいか』


 そうして意識は暗い底に落ちていった。つけっぱなしの照明が少し眩しかったけど、落ちる瞼を引き留める力はない。


 夢を見た。たった数年前のことで、もう数年も前のこと。


 当時の同期入社の相賀 茅遙(おうか ちはる)の夢。何度も励ましあい、共に切磋琢磨した友人でもあり、密かに想っていた相手だ。彼女は、不器用ながらも正義感があり、一生懸命で、俺とは違って全力で生きていた。不屈、いや違うな。転んでは泣いて、逃げ出したりもして、その度に結局また、前を向いている。本当に俺とは違っていた。だからこそ、彼女は耐えられなかったのかもしれない。誰よりも理不尽に立ち向かおうとしていた。そんな彼女を見捨てたのは自分で、それが彼女にとどめをさした。


 ある日、利益最優先で実績の伴わない者にはモラハラ、パワハラを繰り返す上司に耐えかねた新人が自殺未遂をおかす。その話を耳にした彼女はその上司に直談判しに行き、結果として謝罪させることに成功はした。その翌日から、彼女への風当たりは目に見えて激しさを増し、そのうち上司はあろうことか同僚や彼女が庇った後輩にまで、彼女に対する嫌がらせへの加担を強要したのだ。俺は最後までその中に加わりはしなかった。けれど、仕事終わりのバックヤードの休憩室で床に這いつくばらされ、頭から水をかけられる彼女。そんな彼女がふと上げた視線で俺の姿を捉えた。その救いを乞うような目に、俺は視線を背けた。ばつが悪く早々に店を後にした帰路の途中で携帯電話が鳴り、画面には彼女の番号。俺はそれすらも見なかったことにしたのだ。


 あの着信を出ていたら、何か変わっていたのだろうか。

 信頼していた相手に裏切られる、ということはきっとどんな困難や理不尽以上に人を傷つけ貶めるものなのだと、当時の俺には理解が及ばなかった。大切だというのなら、大事だと思うのなら、俺はその目を逸らしてはいけなかった。


 その次の週から彼女は店からいなくなった。上司からあったのは『相賀はもう出勤することは無い』の言葉だけだった。その後、彼女がどうなったのかは知らない。彼女に何があったのかを知るのが恐ろしくて、誰にもその疑問を問うことさえ出来ないままでいる――。



 目が覚めると、頬は少し湿っていた。鳥のさえずりが耳に心地よく、何かの始まりを予感させる。


 後悔はある。恐怖やわだかまりもぬぐい切れてはいない。転職をしたことで自分が変わったわけでもない。けれど進むことは出来る。正すことも、改めることもこれから可能なはずだ。そうやって、いつかちゃんと逸らしてしまったあの日の目に向き合いたいと思う。

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異世界転〇~携帯販売のブラック企業からおさらばしたら、何でこうなった?~ 日々 幸人 @yukito-hibi

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