第8話 冬の風
報告書の封筒を次々開封して書類の山を崩しながら、午後は気分転換に刺繍でもしようかと考えていたアウゲのところにザフィアがやってきた。
「姫さま、お茶はいかがですか」
金縁が施された繊細な白磁のカップは異界で作られたものだという。花のような形に、見る角度によって違う色に光る釉薬がかかっていて、眺めているだけで楽しい。その繊細さやフォルムをアウゲはとても気に入っていて、このカップはアウゲ専用となっていた。
「ありがとう。ちょうど飲みたいと思っていたのよ」
茶葉が開いていく香りが漂うと、気分が晴れやかになる。
「もうすぐヴォルフさまが帰城されるようですわ」
「そうなのね。確かに今回は大きく重い相手が多かったようだから、交戦回数と比べて沈静化の閾値に達するまでが早かったのね」
アウゲは確認するように傍の資料をめくった。
「けれど今はあくまで人の感覚に頼って冥府の者の強さを階級づけしているだけだから、本当はもっと、客観的な指標があるといいのよね。何かいい方法はないかしら。……本音を言うと、いろいろな強さの冥府の者を直接見て調査してみたいのだけれど」
「それは……、おそらくヴォルフさまがお許しにならないと思いますわ」
ザフィアは苦笑する。
「そうよね。戦いの現場では、物見遊山感覚の者など、足手まといよね」
アウゲは心底残念そうに言う。いえ、そういうことではなく、とザフィアは言おうとしたがアウゲには伝わらない気がして、結果、彼女は何も言わなかった。
アウゲは次の報告書を開封しようと、ペーパーナイフを手に取った。
ザフィアはカップに薔薇の砂糖漬けをひとつ入れると、ポットから香り高い琥珀色の液体を注ぐ。薔薇の香りが広がった。トレイを運ぼうとしたザフィアは、一瞬、冬の風を感じた。冷たく、重く湿った風。顔を上げてアウゲの方を振り返る。しかしそこにあるべき姿はなかった。
「……姫さま?」
何が起こったのか、全くわからない。あり得ない。先ほどまでそこにいて、言葉を交わしあっていたはずなのに、こんなことが。そもそもザフィアの感覚は何も捉えていなかった。しかし、理性はそう考えているものの、ザフィアの直感は何が起こったかを既に理解している。
手が、足が、震える。
ザフィアは念の為、アウゲのデスクの裏側にも回ってみる。しかし、椅子は先ほどまで主人が掛けていた位置のままで動かされた形跡はなく、当然のことながらデスクの下にもアウゲの姿はなかった。
広げられた資料の上に、アウゲが愛用しているブルーブラックのインクが一滴落ちて、染みを作っている。その染みが動いた。染みから一本の枝のようなものが伸びて、文字を作り始める。
時は
それは明確なメッセージだった。
「申し訳ございません陛下、私が同じ部屋にいながらこのような……」
ザフィアは血の気のひいた顔を伏せる。
「あなたのせいではなくてよ、ザフィア。あなたに何の気配も感じさせなかったのなら、それは、誰がついていても結果は同じだったということよ」
ローザはアウゲが消失した部屋を見回す。
「それにしても、魔王の城から直接攫っていくなんて、随分と舐めくさった真似をしてくれたものねぇ?」
ローザは唇の片方を吊り上げて笑った。
「だけど、これは約定に違反しているのではないのかな?」
ヴァイストが言う。
「確か、冥府の王は試練を宣言した後、試練の場所を指定するということだったよね。これでは宣言の
「そうよ。まったく、魔王も舐められたものだわぁ。……ねえあなた、ヴァイスト、私、ちょっと出かけてくるわねぇ。後のお城のあれこれをお願いしてもいいかしらぁ?」
「もちろんだよ、気をつけて行っておいで」
「すぐ戻るわね。ザフィア、随行してもらえるかしら?」
ローザは妙な上機嫌でザフィアを振り返る。
「もちろんでございます」
ローザは玉座の裏に回ると壁の化粧板に手を触れる。それは木のような不思議な模様だった。地に根を張って天に枝を伸ばしている大木のようだが、上下に対称の意匠となっている。
「ここを使う羽目になるとは、面倒なことをしてくれたものねぇ」
ローザが魔力を流すと意匠が光り、壁に縦一直線の亀裂が入って左右に開く。その先は通路になっているが、真っ暗で先を見通すことはできない。
「『腰巾着』はいるかしら?」
ローザは僅かにザフィアを振り返る。
「おります」
ザフィアの感覚はその者を捉えている。そして、その者が感じている恐怖を。冥府の側も、このやり方が「試練」の要件を満たしていないことはわかっているのだ。だからこそ宰相を使者として出している。そして、ことに当たる宰相は震え上がり、なんと申し開きをして魔王を説得したものかと考えている。
「でも、冥府の王はどうやってアウゲを連れ去ったのかしら。ここが使われた形跡はなかったわ」
ローザは躊躇いなく通路に足を踏み出す。するとさっと灯りがついて、白い石で作られた通路が明るく照らされる。
「あの時、風を感じました。冬の、冷たく、重く湿った風でございます。おそらく冥府の王は姫さまの執務室に直接現れたものだと思われます」
「……私の不徳のの致すところだわぁ。冥府の王に侵入されるなんてねぇ。情けなくてご先祖さまに顔向けできないわね」
ローザはため息混じりに首を振った。
2人の足音が石造りの通路に反響する。
通路はわずかにカーブしており、先をすべて見通すことはできないが、少しずつ「邂逅の間」と魔界では呼んでいる、冥府の者との公式の謁見室が見えてきた。
ローザの歩調がわずかに速くなる。
正方形の、壁も床も天井も真っ白い石材でできた部屋の真ん中には、子供が黒い紙から切り出した人形のような者がいた。身長はローザの腰程度で、短い手足に、丸い胴、首はなく、肩の上に直接半円の頭が乗っている。その頭のほとんどは巨大な1つの目に占められているのだが、その目は、白い紙を貼り付けて、そこに黒目を描き入れたように平面的だった。
ローザが足を下ろした周辺の床から、一斉に草が芽吹き始める。それはどんどん広がって、白一色だった部屋の半分はあっという間に草原になった。
ローザが足を止めると、柔らかくしなっていた草が、突然、雷に打たれたように硬直して直立する。
「魔界の王よ、来訪の理由やいか……」
ドドドッ
草が鋼の棘に変わり、一斉に冥府の宰相に突き刺さった。
「ぎゃあああっ!? 魔界の王よ、何卒、何卒お鎮まりください」
冥府の宰相は針山のようになった身体から、短い腕で棘を一本ずつ抜く。
「私が一方的に怒っているような言い方は納得できないわぁ?」
ローザはいつものとおりの口調で言う。
「仮に私が怒っているとして、その理由はわかっているわよねぇ?」
ローザは屈んで、足元の草を1本抜く。
「あ、あのあのあの、その件につきましては」
ザンッ
ローザが手に持った草を真横に振ると、それは瞬時に剣に変わって宰相の首を胴から切り離した。
「あああっ、酷い。なんということを」
首を失った胴がよたよたと頭の所へ走っていき、落ちた頭を胴の上に据える。ローザは宰相と距離を詰めると膝を屈めて、くっつかんばかりの至近距離で宰相の目を覗きこむ。
「そういうわけだから、うちのアウゲは返してもらうわよぅ?」
ローザは宰相を押し退けて、その後ろにある、冥界へ続く通路に足を踏み入れようとする。しかし、ローザの面前で、それまで開いていた冥界への通路は壁に変わってしまう。
「……どういうことなの?」
ローザは宰相を振り返る。
「確かに、我が君の『求婚』は要件を満たしておりませんでしたが……ぎゃっ!?」
ローザの剣が宰相の目玉の真ん中に刺さる。
「あああっ、どうか、どうか気をお鎮めください」
宰相が短い腕の先についた小さな手で撫でると、傷口は何事もなかったかのように塞がった。
「『求婚』などと言わないでもらいたいわぁ。アウゲはね、既に、ヴォルフの妻なの。だからお前たちのそれは、単なる横恋慕よぅ? それにお前たちは、人攫いの罪も犯している。ね、そうよね?」
「あのその、しかしながら今回の瑕疵は、花嫁自身の受諾により回復され、『求婚』は正式に成立しておりまして……」
「……は?」
ローザの声が1オクターブ低くなる。
「ですから、わたくしも申し上げたのです! 我が君のやりようは、我が主君とはいえ約定を無視したあまりに無体なものでございましたので、花嫁に」
「なんと言ったの?」
ローザは手に持ったままだった剣の切っ先を宰相の目玉の中央に突きつける。
「いえあのその、お鎮まりください、魔界の王よ」
「だから。何と言ったのか、と聞いているのよぅ?」
「これではあまりにあなた様がお可哀想だ、定めしご不安でしょうから、一度、魔界の嗣子の所へお戻りなさい、『求婚』は瑕疵ある状態で、正式には成立していないから心配ありません、と。それなのに花嫁ときたら……」
「……もういいわ」
ローザは剣を下ろして左手を額に添えた。
「それで、正式に『試練』は成立し、冥界への扉は閉ざされたというわけなのね?」
「左様でございます。ご存じのとおり『求婚』の期間……あああ、いえ、ええと、魔界の皆様が言うところの『試練』の間、冥界と魔界の行き来は禁じられますので……」
宰相は心底ほっとした様子で言った。
「……はぁ。ヴォルフにどう説明したものかしら。でも、成立した『試練』を中断することは、魔王にもできないのよねぇ」
ローザは宰相に一瞥もくれず、踵を返した。
「あの、魔界の王よ……! 試練の場は魔王の墓です、とお伝えください……!」
宰相がローザの後ろ姿に叫ぶ。
それまで黙って控えていたザフィアは、宰相と礼を交わし合ってから、ローザの後を追った。
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