第7話 男も女も。冥府の者も魔界の者も。

 西域での冥府の者との戦いは一旦終結を見たにもかかわらず、アーウィンは引き続き助力を申し出てくれた。救援を求めている部隊のいる人型魔族の国へと戻る。西域で戦っていた部隊は戦線を離脱させ、王宮へ帰した。過酷な戦いに従事した彼らには何より休養が必要だった。疲労から回復すれば、また活躍してくれるだろう。


「ありがとう、アーウィン。恩に着るよ」


 人族の騎士を王宮まで送り届けてくれるという翼竜族の戦士たちと空中で別れたところで、ヴォルフはアーウィンに改めて礼を言う。


「恩に着るやなんて、水臭いことうなよ。友だちやんか」


「それでも、助かったし、嬉しかったんだ」


 ヴォルフは素直に言う。


「恩っちゅうことでうなら、ウチとこも一緒や。お前が助けてくれんかったら、ウチとこの戦士に犠牲が出てたやろう。このくらいのこと、なんでもないわ。せや、お前のお姫さまにもお礼わんと。また匂い嗅ぎがてら会いにいくわな」


「姫さまの匂い嗅ぐなら来るな」


「なんやねん。それくらいええやんか。減るもんやなし。心の狭いやっちゃな」


「おれの嗅ぐ分が減るんだよ。そんなことなら心が狭くて結構だよ」


 ヴォルフとアーウィンは2人して笑った。

 西域の風景は、徐々に岩山から草原へ、草原から深い森へと移り変わっている。人族の領域に入った印だ。人型魔族の治める領域は現世との距離が最も近くなっており、冥府の者が突破を試みる回数もその分多くなっている。戦闘に長けた人型魔族がこの場所を治めているのは、至極当然のことだった。翼竜族は機動力には富むものの、戦闘能力はそれほど高くはない。

 暗緑色の森の上に、黒い鳥のようなものが群がっている。考えるまでもなく、冥府の者だった。冥府の者は現れる場所によってその姿を変える。

 アーウィンはスピードを上げてその群れに突っ込んでいく。その風圧に冥府の者たちは蹴散らされる。


「あそこだ」


 森が切れて再び草原に変わるところに、鹿の群れのようなものが見える。ただしその色は真っ黒で、光を吸収してしまうため形は判然としない。動いている4本の脚から、おそらく鹿のような姿をしているのではと推測されるだけだ。正面から見ると、全く違った形をしているかもしれない。

 アーウィンは冥府の者の進行方向に急降下しながら回り込むと、立ち塞がるようにふわりと草原に降り立った。ヴォルフの予想どおりの、鹿のような姿の冥府の者たちは立ち止まる。ヴォルフの後ろにも次々に翼竜たちが舞い降りた。

 ヴォルフはアーウィンの背から飛び降りて剣を抜く。冥府の者たちもそれに呼応するように、人に、あるいはもっと攻撃力が高いネコ科の猛獣を思わせる姿に変化する。至近距離で相対していてもその細部が把握できない漆黒の身体。これまでも、いくつかの異界や、あるいは現世との距離が近くなる新年に冥府の者たちと間近に対峙したことはある。しかしながらその時の彼らは霧や煙が形を作った程度であり、このような、形状を把握させないほどの者たちではなかった。それに、先程の者のように言葉で意思疎通することができるのは、冥府の者のなかでも稀だ。冥府で新しい王が誕生した、という魔王ローザの言葉は正しいとヴォルフは思う。

 魔王とその伴侶が対になる存在であるように、魔王と冥府の王もまた対になる存在だった。新しく生まれた冥府の王と、新しく魔王となる自身と。魔界を中心として、冥界、魔界、現世はバランスを取って存在している。否、現世と冥界の接近を、魔界が間に立って阻止していると言うべきかもしれない。冥府の者たちはとかく、現世のものを手に入れたがる。魔王の伴侶であったり、あるいは現世に複数存在する異界そのものだったり。冥府の者は常に現世に恋焦がれている。


 人間の形をとった冥府の者の手足が細長く伸び、地面に手をついた四足歩行の姿勢になる。しかし全体の形状は人間のままなので不気味だ。冥府の者の腰がわずかに沈む。それが合図だった。

 冥府の者が地面を蹴る。人間の形をしているので感覚が狂うが、その速度は獣と同じだった。あっという間に距離が詰まる。正面から突っ込んでくる冥府の者に剣を繰り出す。冥府の者はそれを躱すことなく歯で受ける。ごく近い距離で見て初めて、その動きや形状がわかる。ヴォルフの首を切り裂こうと鋭い爪を生やした手が迫る。ヴォルフは冥府の者の胸の中心を前蹴りで強く蹴りつけて身体を離した。眼前を尖った爪が通過する。右下から一気に斬り上げて空振りで体勢を崩した冥府の者の首を腕ごと刎ね飛ばした。

 冥府の者は生物ではない。首を落とされたとて、彼らにはなんの影響もない。このレベルの力の持ち主であれば、しばらく動きを止めるだけでまたすぐに活動を始めるはずだ。活動を止めるためには、さらに追い討ちをかけなかればならない。

 しかしこの時は様子が違った。ヴォルフに刎ねられた冥府の者の首と腕は、地面に落ちる前に霧になって消えた。胴体も、後ろに倒れながら崩壊していく。


(姫さま……)


 刀身が、仄かな青い光を纏っていた。しかし感慨にふけっている暇はヴォルフにはない。翼竜族の戦士の羽に獣型の冥府の者が取りついている。その横腹に剣を突き入れ、串刺しにして横に薙ぐと、冥府の者の身体が剣から抜けて放り出された。先程の者と同様、地面に落ちると黒い霧になって散っていく。


「怪我は?」


「大丈夫です! 噛まれた思ったけど……」


 よく見ると彼の身体も、光の被膜で覆われている。アウゲの加護が彼の身体を守ったのだと考えられた。

 通常であればもっと苦戦するはずの戦いは、終結に向かいつつあった。飛びかかってきた、ウサギのような形状をした小型の冥府の者を両断し、ヴォルフは駆ける。形成不利と考えたのか、冥府の者たちが寄り集まって、大型化しようとしている。活動を始める前に倒さねばならない。

 寄り集まって大きく重くなれば、確かに使うことができる力の規模も大きくなる。その反面、大きく重い冥府の者は現世へ抜けるのに大きな力を使うことになる。冥府の者たちの目的はあくまで現世へ抜けて現世で魔力を摂取することであり、大きく重くなりすぎるのを嫌う傾向にあった。ただし、小さいと今度は魔界を抜けられないというジレンマがある。

 魔界の者にとっては、大きく重い冥府の者は厄介だった。倒すのに苦労するし、魔界で倒せずに現世に抜けられてしまうと、現世に多大な影響を及ぼすことになる。

 走るヴォルフの脚を、地面から突き出した黒い腕が掴む。脚を取られて身体が宙に浮くが、咄嗟に片手をついて受身を取った。草の上を1回転して素早く立ち上がる。地面から這い出してきたのは、人型の冥府の者だ。二本足で立っているが、異様に長い腕がだらりと地面にまで垂れている。肩幅のわりに頭が小さく、手足は棒切れのように細い。人型ではあるが、人間ではない何物かだった。左右にフラフラと揺れていた冥府の者がふと止まる。ヴォルフは咄嗟に身体を捻った。顔のすぐ横を伸びた腕が通過する。身体を回転させながら腕を切断する。マントがばさりと音を立てて翻る。

 正面に向き直った時には眼前に冥府の者が迫っている。切断したはずの腕は復元されていた。ヴォルフは勢いを殺さずに袈裟斬りに剣を打ち下ろすが、冥府の者は腕一本でそれを止めた。剣同士で鍔迫り合うような感覚。膠着状態に陥っているところに滑り込んでくる巨大な者がある。アーウィンだ。アーウィンはその嘴で冥府の者を捕らえると、力任せに地面に叩きつけた。無防備に仰向けになった冥府の者の胸の中央にヴォルフが体重を乗せて剣を突き刺す。剣を抜くとその傷口から黒い煙が立ち上り、空中に消えていった。

 ヴォルフが振り向いた時には、巨大化を試みていた冥府の者が丁度霧となって消えていくところだった。


「ヴォルフさま」グラナートが剣を鞘に戻してヴォルフに向き直った。「どうやら、冥府の者の活動は沈静化したようでございます」


 グラナートもまた気配を感じ取る能力に長けた者だった。彼女はそれに加え、剣の腕を見込まれて普段は近衛騎士を務めている。


「そうか。まあ、これだけ大物を倒せばね。みんな、ご苦労だった。仕事が早く片付くのはいいことだよ。これより帰還する」


「乗りや。送るわ」


 アーウィンが身体を屈める。


「ありがとう。お言葉に甘えるよ。あ、姫さまの匂いは嗅ぐなよな」


「なんやねんホンマ。つこいやっちゃな」


 アーウィンはヴォルフを背に乗せて、文句を言いながら駆け出した。上昇気流を起こし、それに乗る。


「そりゃそうだよ。だって姫さまのこと見たら、みんな姫さまのこと好きになっちゃう。男も女も。冥府の者も魔界の者も」


「そらしゃあないわ」


「仕方なくないし、おれは気が休まらない」


「ほな、しっかり守っとくことやな」


 戦士たちが飛び立った草原に、一筋の黒い煙が流れる。それは糸のように空中に止まり、するすると模様を描き出す。目だった。

 空中に描かれた線画の目は、戦士たちの飛び去った方向をじっと見つめていた。

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