第4話 振り返らずに行って

 夢の中で、闇はますます濃く凝集していく。闇がアウゲに向かってその、温かくも冷たくもない、温度の感じられない手を伸ばしてきている。細く尖った指先が、アウゲの髪をひと房掬う。

 

 アウゲは目を見開いた。

 心臓がどくどくと嫌な速さで脈打っていて、息は乱れ、額にはうっすら汗をかいていた。それなのに手足は真冬のように冷えている。アウゲは隣で眠っているヴォルフの腕を抱きかかえ、肩に頬を寄せた。ヴォルフの温かい身体に寄り添って、規則正しく整った寝息を聞いていると心が凪いでいく。

 しかし、動揺が治まっても眠りは簡単に訪れてくれそうになかった。

 そっとベッドを抜け出して、居間のソファに座る。ヴォルフにヴォルフの戦いがあるように、アウゲにはアウゲの戦いがある。昼間ヴォルフが言ったことだ。


(そうよ。戦う前から負けてたまるものですか)


 しかし、ここ最近アウゲを悩ませている悪夢に気力を削がれているのも確かだった。

 灯りのない真っ暗な居間で、アウゲはひとり、背筋を伸ばして座り目を閉じる。


「姫さま……?」


 寝室の扉が開いてヴォルフがそっと低い声で呼びかける。


「ここにいるわ。起こしてしまったのね、ごめんなさい」


 アウゲは立ち上がりかけるが、ヴォルフはさっと部屋を横切ってきて、アウゲの隣に掛けた。

 腕を伸ばしてアウゲを抱き寄せる。


「私は平気よ」


「姫さまはいつもそう言っちゃうから。辛い時は辛いって言って。怖い時は怖いって」


 アウゲはヴォルフに体重を預けて、背中に腕を回した。


「それなら、あなたが辛い時や怖い時は?」


「こうやって姫さまをぎゅっとします」


 ヴォルフはアウゲを抱く腕の径を縮めて頬擦りする。


「今辛いの?」


「ええ。しばらく姫さまと一緒にいられないから。姫さまに会えなくて、おれが毎日毎日どんなに辛くて寂しいか、知らないでしょう」


「大げさね」


 アウゲは困ったように笑う。


「でも……、ありがとう、ヴォルフ。本当に私は平気よ」


「こんな姫さまを置いて行けないですよ」


「いいえ、私は大丈夫。負けてたまるものですか。だから明日は、振り返らずに行って」


「すぐ戻ります」


 ヴォルフはアウゲの唇に短いキスをすると、アウゲの肩を抱いて寝室へ促した。

 

 

 何度経験しても、この瞬間に慣れることはない。

 ヴォルフは騎士服の上から、もう一枚の騎士服をマントとして片方の肩に掛けるペリースの装いでアウゲの前に立つ。母である魔王ローザ、父の王配に挨拶したヴォルフは、最後にアウゲに笑顔を向けた。

 

「行って参ります、姫さま」


「武運長久を祈ります」


 彼は強い、きっと無事で帰ってくる、そう確信していることと、彼の身を案じる気持ちは全く矛盾なくアウゲの中に存在している。


「今日は翼竜族の友だちが来るんで、紹介しますね」


「お言葉ですが」執事頭のメーアメーアが口を挟む。「あまりの品のなさにアウゲ姫が卒倒なさらないかと、わたくしはそれが心配なのでございますが」


 メーアメーアはヴォルフを、次にアウゲを見て眼球をぺろりと舐める。


「大丈夫、悪い奴じゃないから」


「答えになっておりませんが?」


「いや、蜥蜴族と翼竜族は反りが合わないっていうのは知ってるけど、そんな私怨で……」


「わたくしが個人的な好き嫌いで申し上げていると? 心外なのですが?」


 メーアメーアは反対側の眼球をぺろりと舐める。


「そんな怖い顔するなよ」


(「怖い顔」……?)


 アウゲはそっとメーアメーアの顔を窺い見るが、その顔はどこをどう見てもいつもの彼だった。その表情に普段の彼との違いは見つけられない。


「ヴォルフさまは全く頼りになりませんので先に申し上げておきますが、翼竜族は、姫もご存知のとおり魔界の西域に棲息しておりまして、人族とは少々異なる文化風土を持っております。話す言葉も、全く通じないということはございませんが、独特の方言を話しますので、驚かれることのございませんよう」


「翼竜族については魔界の地理の授業で教わったから、大丈夫よ。それに、ヴォルフの友だちなら私も会ってみたいわ」


 アウゲはなぜメーアメーアがこれほどの注意を与えるのかわからない。


「そうですか? おれとしては仕方なくです。アーウィンが、姫さまに会ってみたいってあんまりしつこく言うから」


「最近では西域でも冥府の者が活動しているから、私も、機会があれば一度お会いしなければと思っていたの」


 冥府の者の活動は、現世に一番近い人型魔族の国だけでなく、その周辺にも広がっていた。戦績をまとめる手伝いをしているアウゲもそのことは承知している。西域の翼竜族と人族は協力関係にある。協力関係を結ぶきっかけとなったのがヴォルフと翼竜族の王子、アーウィンとの個人的な付き合いだった。


「あなたたちの無茶な遊びにはずいぶん手を焼かされたものだけれど、何が幸いするか、わからないものねぇ」


 ローザがのんびりと言う。


「ははは。2人で『魔王の墓』を暴こうとしてたのは、さすがに度肝を抜かれたねぇ」


 いつも穏やかなヴァイストが、不穏なことを穏やかに言う。


「やめてくださいよ、昔の話は」


 ヴォルフは苦笑いで眉を顰めた。

 燦々と陽が差し込んでいた、バルコニーに面する窓の外が一瞬翳る。

 

「あ、来たみたいですね」


 ヴォルフはアウゲを伴ってバルコニーに出た。


「あ、ども。ご無沙汰してますぅ」


 バルコニーに出たアウゲの目の前には、ゴツゴツとした岩のような物体があった。顔が2階のバルコニーと同じ高さにある、巨大な翼竜だ。顔の大きさに比例した巨大な、鋭い黄色の目が一堂を見る。一方、独特の抑揚と、語尾を伸ばす話し方はいかにも不釣り合いだった。


「アーウィン王子、お久しぶりねぇ。立派になって」


「ママ上は変わらずお美しいっすね」


 アーウィンが口を開けると、鋸状の歯が除く。


「なあ、ヴォルフ……この人が、その……?」


 アーウィンはヴォルフの方に顔を向けながら、目だけでアウゲを見る。


「アウゲ・ギュンターローゲです。今後ともどうぞお見知り置きを、アーウィン様」


「あ、ご丁寧に、どうも。こちらこそよろしくお願いしますぅ……」


 それが翼竜族の礼儀なのか、アーウィンは皮膜の張った翼を広げて、仕舞った。アウゲはその巨大さに圧倒される。


「な、なあ、ヴォルフ。お前のつがい、めっさええ匂いするんやけど……」


「は? 番とか言うな。ちゃんと姫さまって言え。あと、何勝手に姫さまの匂い嗅いでるんだよ。許可取ってからにしろよな」


「え? 匂いって、許可とかいるやつやっけ?」そう言いながら、アーウィンは素直な性格なのかアウゲの方を見る。「あ、あのぅ……ちょっと匂い嗅いでもいいっすか……?」


「あ、ええと……」


 なんと答えたものかわからず小さく声を漏らしたアウゲに代わってヴォルフがひと息に答える。


「何言ってんだダメに決まってるだろ気持ち悪い」


「ええ!? そこまでう!? お前が許可取れうからオレ……!」


「お取込み中失礼いたします」メーアメーアが眼球をぺろりと舐めながら進み出る。「出陣の時刻をとうに過ぎておりますが?」


「あ、せや、ヤバい! ヴォルフよして」


「おれのせいなの? まあいいや」


 ヴォルフはそう言ってバルコニーの柵をひらりと飛び越える。アウゲは思わず柵に駆け寄った。ヴォルフはもちろん落ちることなく、アーウィンの首の付け根に跨っていた。そこにはちゃんと鞍がつけられていた。


「じゃあ、姫さま、行ってきます」


 ヴォルフが笑顔で片手を挙げる。


「気をつけて、ヴォルフ……! 無事で帰ってきて……!」


 アウゲはバルコニーから身を乗り出して叫ぶ。


「もちろんです!」


 ヴォルフも笑顔で叫び返した。そしてふと表情を引き締め、正面に顔を向けて言う。


「行こう!」


 ヴォルフとアーウィンのほかにも4騎の翼竜がいた。それぞれに人族の騎士が騎乗している。翼竜たちは方向転換して王宮に背を向ける。ヴォルフは抜剣し、その剣を天に突き上げた。


「西域へ向け、出立!!」


 ヴォルフがよく通る声で叫ぶと、翼竜たちは猛然と駆け出した。ヴォルフのマントが風にはためき、彼の後ろ姿を覆い隠す。直後、強い上昇気流が生じて翼竜たちの巨体がふわりと浮き上がった。翼竜たちは巨大な皮膜の翼を広げ、風に乗る。その姿はあっという間に空の一点になってしまった。


「ヴォルフってば、振り向きもせずに行ってしまったわねぇ。これだから男の子は」


 ローザがまだ吹き荒れている上昇気流に乱される髪を押さえながら、ヴォルフたちが飛び去った空を見上げて言う。


「いいえ、陛下、私が頼んだのです。『振り返らずに行って』と」


 アウゲのその言葉に、ローザは目を細めた。


「ヴォルフがあなたを愛している理由が、よくわかるわぁ」


 ローザはそう言って、アウゲを抱きしめた。

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