第5話 蠱毒の者

 「少し話をしよう」とメーアメーアを通じて義理の父であるヴァイストから連絡があったのは、ヴォルフが西域へ発った日の午後だった。何か重要な事柄が語られる予感を感じながら、アウゲは魔王夫妻の私的なサロンにいた。


「姫さま、緊張しておいでですか?」


 背筋を伸ばして座り、テーブルの中央に飾られた花を見ているアウゲに、アウゲ付きの侍女ザフィアが声をかけた。


「いいえ。平気よ」


 アウゲはいつものとおり答える。

 ザフィアはいかにも優しげな女性だったが、その能力「追尾」は人型魔族の中でも群を抜いており、彼女が気配に気づかなかったり、音を聞き逃すことはなかった。その能力を見込まれて、アウゲ付きの侍女に抜擢されたのだ。

 ザフィアは、アウゲの体内から発せられるごく小さな緊張の音を感じ取っている。これから王配・ヴァイストの口から何が語られるのかを考えればそれは無理もないことだったし、誰もそれを笑ったりなどしないだろうに。


「王配殿下がお見えです」


 執事の1人がヴァイストの来訪を告げる。アウゲは立ち上がって礼の姿勢をとった。


「やあ、すまないね。私から誘っておいて」


「いえ、そんなことは。お忙しいのにお時間をいただいて……」


 アウゲがおずおずと言うと、ヴァイストは口を開けて笑った。


「ははは。私はあの2人に比べればよほど暇だよ。きみと同じようにね」

 

 ヴァイストが笑いながら椅子にかけるのにアウゲも倣う。

 ヴォルフは母のローザにそっくりだと常々思っていたアウゲだが、こうして父であるヴァイストと顔を合わせていると、ヴァイストにもそっくりだと思う。特に声は、ヴォルフその人と話しているのではと思うほどにそっくりだった。しかしヴォルフと違ってヴァイストは、どちらかというと繊細で内気な雰囲気だ。

 侍女が2人の前に音もなくカップを供する。


「……私から話さなければならないこともあるけど、私に聞きたいこともあるのではないかと思ってね」


 カップをソーサーに戻してヴァイストが言う。


「はい……」


 何から話したものかと、アウゲはテーブルの上に視線を彷徨わせる。


「あの……。『試練』のことです。ヴォルフは、彼には彼の、私には私のたたかいがあるはずだと言っていました。お二人の時もそうだったと……」


「……そうだね」


 ヴァイストは目を伏せて微笑むと、カップを持ち上げてひと口、紅茶を飲んだ。

 沈黙が明るい陽射しの差し込むサロンを支配する。アウゲはじっと待った。ヴォルフも詳しくは聞いたことがないという、ヴァイストの「試練」。


「いや、黙っていてはいけないね。きみにあの時のことを話すのは、私にとっては義務だ。そう心を決めて来たのだけどね」


 ヴァイストは穏やかに微笑んでいるが、そこには明らかに逡巡の気配があった。


「あの、それなら、私のことを先に話しても構いませんでしょうか……」


「もちろん。何だろう?」


「殿下は『試練』の前、夢をご覧になりませんでしたか?」


「夢?」


「ええ、夢です。最近ずっと、何か、得体の知れぬ闇のものが私に手を伸ばしてくる夢に悩まされているのです。『試練』のことを伺う前から。単なる夢なのかもしれません。ですが、何か、気になってしまって」


 アウゲの言葉に、ヴァイストはしばらく考えこんでいた。


「……アウゲ、『魔王の伴侶』とは、なんだと思う?」


 予想していなかった質問に、アウゲは面食らう。


「『魔王の伴侶』とは……? 考えたこともありませんでした」


 ここで浅い考えを披露しても何にもならないと判断したアウゲは素直に答える。


「人の国では『蠱毒の者』として生きてきた私たちだ。けれど、そもそも、『蠱毒』とは、何だったのだろう。私の考えでは、それは、現世で生まれる『魔力』だ。少なくとも私たちが生まれた人の国の存在は、自分たちの生み出す魔力を自分で使うことはできない。現世で生まれた魔力は費消されることなく魔界を通じて冥界へ降りていく。『蠱毒の者』は、魔力をその身に留めている、あるいは、集めてしまう存在なのではないだろうか」


「……」


 アウゲは目を見開き、わずかに身を乗り出してヴァイストの話に聞き入る。


「魔力を留めている者、集める者が魔王の伴侶であるなら、魔王が伴侶を得て完全になる、という魔界の言い伝えも納得できる。伴侶を得た魔王が、桁違いに大きな力を持っていることも」


「……魔王の伴侶が魔王の力の源泉なのだとすれば、それは、冥府の王にとっても同じことなのでは」


 アウゲは知らず膝の上で手を組み合わせている。寒くはないのに指先が氷のように冷たい。


「そうだよ、アウゲ。つまりね、『試練』とは、魔王と冥府の王の、伴侶をめぐる争いなのだよ。冥府の王は、現世から直接伴侶を連れ帰ることはできない。それは現世と冥界の中間の存在である、魔界の者にしかできないことなのだよ。現世の存在を婚姻によって魔界の存在に変えることはね。だから冥府の王は、魔王から奪うしかない」


「それなら……、それなら私の夢は……」


 声が震える。ヴァイストはアウゲの目を見て頷いた。


「きみは、冥府の王にとっても魅力的であるらしいね」


――姫さまは、自分がどれだけ魔族と冥府の者にとって魅力的か、知らないでしょう。


「王配殿下が受けた『試練』とは、どのようなものだったのですか?」


 アウゲは改めて問う。


「私はね……。『あったかもしれない人生』の中にいたよ」


「あったかもしれない人生?」


 アウゲの言葉にヴァイストは微笑む。寂しげな微笑みだった。


「私は蠱毒の者ではなく、家族の輪の中にいた。兄や弟と乗馬の練習をしたり、剣の手ほどきを受けたり、勉強をしたり。蠱毒の者でなかったらこのような人生だったのでは、と私がずっと焦がれていた人生が、そこにあったよ。それが甘美な幻だとも気づかないままに、虚構の中で私は幸せだった」


「そこから、どうやって戻っていらしたのですか?」


「……幻の中で、侵略者の大群が王宮に押し寄せてきた。だけど、先陣を切って向かってきた美しい指揮官の顔を見た時、私は全てを思い出したのだよ。これは虚構に過ぎず、私の隣にいてくれたのは彼女であり、私は既に彼女を愛しているということをね。でも、全てを思い出してなお、この甘美な幻の中にいたいと思ってしまったこともまた事実だ……」


「けれども、殿下は幻の中にとどまることは選ばれなかったのですね」


「そう。幻は幻にすぎず、私は彼女を愛していたからね。そのようなわけで、冥府の王の、魔王の伴侶を奪う試みは失敗に終わった」


「魔王の伴侶が冥府の王に奪われたことはあるのですか?」


「ある」


 ヴァイストは断言する。


「伴侶を奪われた魔王はどうなるのですか?」


「力を失って命を落とす、と言われている」


「……」


 アウゲは絶句した。ヴァイストの言葉どおりなら、ヴォルフは文字どおり命をかけて試練に挑むことになるし、その成否はアウゲの肩にもかかっている。

 雰囲気を和らげようとヴァイストが口を開いた。


「きみたちは大丈夫だよ。ヴォルフは何があってもきみを冥府の王になど渡さないだろう。きみ自身もね。ああ、ヴォルフとアーウィン王子が忍び込もうとして、2人まとめてローザにシバかれた魔王の墓が、それだね。いやあ、あの時は本当に腰を抜かしたよ」


「ヴォルフ……」


 アウゲは思わず笑ってしまう。


「本当に小さい頃の彼はイタズラ好きでねぇ。あ、それは今もかな。アウゲも、イタズラされていない? 大丈夫?」


「あ、はい、いえ、あの……はい」


 ヴァイストのペースに乗せられて、思わず胸元の開いたドレスを着られなくされたことを告白しそうになり、アウゲは挙動不審になってしまう。それを誤魔化すためにカップに口をつける。お茶はすっかりぬるくなっていた。

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