第3話 失くさない刺繍
(また、この夢……)
夢の中で、アウゲは故国の離宮にいた。ここ最近ずっと見ている、同じ夢の中だ。
窓辺に椅子を置き、窓の外を見ている。空は濃い灰色の雲で覆われていて、地面には真っ白な雪が積もっていた。雪は全ての音と熱を吸収して世界をその身の下に隠している。昼間なのに薄暗い。他に色は見当たらない。世界は白から黒へのグラデーションの中にあった。
壁からは冷気が染みこんできて、どれだけ厚着をしていても寒い。寂しい風景を眺めるアウゲは気づいている。背を向けている部屋の隅に、闇がわだかまっていることに。そしてその闇が、自分をじっと見つめていることにも。
「……」
アウゲはゆっくりと瞼を持ち上げる。人の国と同じように太陽が昇って沈む魔界にも夕方の気配が訪れていた。さっきの夢を思い出してふるりと身震いする。隣にいてほしいヴォルフの姿はなかった。身体を起こすと、肩からガウンが滑り落ちた。おそらくヴォルフがかけてくれていたのだろう。素直にそれを身につける。
ヴォルフは居間にいた。
「ああ、姫さま、そろそろ起こそうかと思ってたところです。お茶をどうですか?」
「ありがとう」
ヴォルフは上着はつけずに、シャツを腕まくりしている。アウゲに仕える近衛騎士をしていたときも、時々こうしてお茶を淹れてくれていたことを思い出す。
「どうしたんですか?」
アウゲが微笑んでいることに気づいてヴォルフが尋ねる。
「あなたが私の近衛騎士だった頃にも、こうしてお茶を淹れてくれたことがあったわよね。ある時、私がマスクを外すから出ていくように言っても、あなたは大丈夫だと言って聞かなくて、お茶が冷めてしまったことがあったのを思い出したの」
「ありましたっけ、そんなこと」
そう言いながらヴォルフはアウゲの前に音を立てずにカップを供する。
「あったのよ」
アウゲは優美な仕草でカップに唇をつける。
「よっぽど姫さまの顔が見たかったんですね、おれ」
ヴォルフもアウゲの向かいに腰掛けた。
「おいしい。お茶を淹れるのが本当に上手よね」
「ありがとうございます」
「……遠い昔のことみたいだわ」
アウゲはあの夢のことをヴォルフに話そうか迷う。単にアウゲの漠然とした不安が見せる夢かもしれないが、何かを示唆していることも考えられる。しかし、ヴォルフにそのことを話すのは躊躇われた。彼の短い休養は今日で終わる。明日になればまた彼は戦場に戻っていくのだ。アウゲが夢の話をすれば、彼はきっとそのことを気にかけるだろう。もしかしたらその気遣いが足枷となってしまうかもしれない。せめて後顧の憂いなく送り出すこと、それが戦場に行くことのできないアウゲが唯一できることだった。
ローザが言ったとおり、一旦沈静化したと見えた冥界の活動は、ここにきて再び活発化の兆しを見せていた。
世界は、冥界・魔界・現世の三層構造となっている。魔力は現世、つまり、人間界で発生し、魔界を通じて冥界へと降りてゆく。冥界から上昇する力は、魔界を通り抜けて現世に到達すると、地下資源やさまざまなエネルギーに姿を変える。
アウゲの故国であり、魔界の者たちが「人の国」と呼んでいるギュンターローゲ王国は魔界への扉があり、王族に生まれる「蠱毒の者」を魔王の伴侶として差し出す代わりにその豊かさが保証されている。金銀に代表される地下資源に加えて、熱エネルギーは地下水を温泉に変え、他国との国境を形成する急峻な山々からもたらされる豊富な水と栄養素は、肥沃な土壌を形成した。また、王国が面している海は海流がぶつかる場所となっていて、海の恵みも豊かだった。
王国の民は魔界へ行き来することはできなかったが、その素晴らしく恵まれた地理・地形、さまざまな自然の恩恵をもたらしているのが魔界の存在であることは知っていた。山に隔てられた国は豊かでありながら他国との戦争とは無縁であり、文化と学問が栄える歴史ある王国を作り上げた。
現世はアウゲのいた世界だけではない。アウゲはヴォルフとメーアメーアに連れられてさまざまな現世の異界を見て回った。そこでは力の出口となっている場所で資源を巡ってしばしば紛争が起こっていた。力の上昇に乗って現世に現れる冥府の者は、現世の存在にに様々な規模の憎悪をもたらす。ちょっとした言い争いから、地図からひとつの国が消えてしまう戦争まで。魔力は現世の存在の心情の揺れによって生まれる。生まれたばかりの魔力は冥府の者にとっては甘露なのだという。中でも憎しみは引き起こすのが容易で、かつ、瞬間的に大きな魔力を生み出すため利用されやすいのだ。
冥界の活動が活発化するということは、魔界で討ちきれない冥府の者が多く現世へ出ていくということだ。そうすれば、現世では大きな争いが起こるだろう。冥府の者はさらにそれを利用する。最悪、ひとつの異界が丸ごと冥界に取り込まれてしまうこともあるのだという。
「……姫さま、どうかしましたか」
思い出にふけっている、というよりは物思いに沈んでいるというべきアウゲの様子に気づいたヴォルフが尋ねる。
「いいえ、なんでもないわ。少し、昔のことを思い出していたの」
そうだわ、とアウゲは思い出したように立ち上がると、寝室からヴォルフの騎士服を持ってきた。戦場から戻ってきたヴォルフに、数日貸してほしいと頼んでいたものだ。
「これ、刺繍をしてみたの。どうかしら」
アウゲが左の袖を持ち上げる。その袖口の黒い生地には、鮮やかな青い糸で一輪の薔薇が刺繍されていた。
「これならもう失くさないでしょう?」
ハンカチに同じ薔薇を刺繍したものをヴォルフは肌身離さず持ち歩いていたのだが、激しい戦闘の中で失ってしまったのだ。その時のヴォルフの落ち込みようはただごとではなく、同じものをすぐさま作ってもだめで、アウゲは途方に暮れてしまった。
そこで思いついたのがこの、「絶対に失くさない」方法だ。
「わあ……ありがとうございます。いつの間に?」
「あなたがメーアメーアに捕まっている間によ」
アウゲは笑って言う。ヴォルフは執事頭のメーアメーアによって、休養日であるはずの1日の数時間を書類仕事に充てさせられていた。
「なるほどね。強制労働も無駄じゃなかった、と思いたいところですけど、どっちかというと姫さまが刺繍してるところを見てたかったな」
「またいつでも見られるわよ。だって、ずっと一緒にいるんですもの」
アウゲは席に戻る。
「そのとおりです」
ヴォルフは柔らかく笑ったが、すぐに真剣な顔になった。
「……姫さま、ずっと、何かを気にしてるでしょう。今日母上から聞いたことだけじゃなくて」
ヴォルフはテーブルの上で指を組んで、アウゲを真っ直ぐに見る。
「……あなたが無事に帰ってくるかどうか、私が気にしているのはそのことだけよ。だって、明日からまた、あなたは遠くへ行ってしまうのだもの」
アウゲは腕を伸ばして、テーブルの上のヴォルフの手にそっと触れた。
「帰ってきます、必ず。約束します」
「必ずよ。約束を破ったら、許さないんだから。それに、あなたが帰ってきてくれなければ、私がゲームに負けたままになってしまうでしょう。……メーアメーアはわざと負けるんだもの。勝つとわかっている勝負なんて、張り合いがなくてつまらないわ」
アウゲは最近、新しいゲームに凝っていた。盤上の駒を動かし相手の王を取る戦略型のゲームで、複雑なルールを覚えたばかりのアウゲはなかなかヴォルフに勝つことができないでいる。しかしながら立場を弁えた執事頭が相手だと、彼はここぞという時に妙な手を打ってアウゲの勝ちを演出してくるので、勝負のし甲斐がなく却って不満がつのるのだった。
「ええ、わかってます」
ヴォルフは笑って腰を浮かせると、手を伸ばしてテーブル越しにアウゲの頬を撫でた。
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