Mr.Britannica

月見 夕

Mr.Britannica

 柔らかに差し込む朝日に照らされ、ベッドの中の私は目を覚ましました。夢うつつな意識のまま腕に抱いた彼の存在だけが、私に現実的な触感を与えていました。彼は角張った背表紙を私の胸に預け、甘えるように寄りかかってきます。私はそんな彼を愛でるように、漆黒の表皮に走る金色の文字や飾りをゆっくりと指でなぞり、題字に優しく口付け、いつもどおり朝の挨拶を告げました。

「おはよう――ブリタニカ」



 幼い頃から、私は辞書が好きでした。

 その硬質な装丁、薄いページの手触り、常軌じょうきいっした黒字の羅列、白く浮かぶ行間など外見的な特徴もさることながら、膨大な情報量をその身に擁し、世界の理に精通している理知的な一面も、私の気を惹きました。

 私が彼と出会ったのは、小学生の頃でした。母から誕生日にプレゼントされた、とある辞書がきっかけです。

 彼は「ブリタニカ国際大百科事典」というとても長たらしい名前を持っていました。分厚くて、これまで見た辞書たちの中でも、見たことのない大きさでした。

 私は彼に夢中になりました。彼を理解しようと、舐めるように読みふけりました。どのページを開いても、知らない単語に溢れています。年齢を重ね、全てのページを網羅しても、彼の知識量は私のそれを明らかに超えていました。それはもはや尊敬に値し、私が求める辞書の完璧でした。

 そうしていつからか、私は彼を――ブリタニカを愛するようになりました。その威厳ある佇まいに、その知的な頭脳に、滑らかな感触に、ただただ愛しさを感じました。

 彼さえいてくれればいい。それ以外には何もいらない。

 ……気付けば私は、高校生になっていました。



 高校でも相変わらず、私はブリタニカが大好きです。本当は四六時中一緒に触れ合っていたいところですが、以前学校に持ってきたときに先生からお叱りを受けたばかりです。仕方なく電子辞書版のブリタニカで我慢します。

 いつものように、私は電子辞書のジャンプ機能を使って、ブリタニカの中を縦横無尽に駆け回っていました。授業中だろうと、そんなことは関係ありません。私と共に彼がいる、ということが私にとっては重要なのであり――

「小早川、この問題の答えは」

 突然、先生に当てられてしまいました。しかし、慌てる必要はありません。私には心強い味方がいるのです。どんな問題だろうとブリタニカの知識の前では――

「どうした、三十八ページ下の式だぞ」

 私は愕然としました。只今絶賛授業中の教科は数学だったのです。何ということでしょう、これでは手も足も出ません。彼は数学が苦手なのです。かくいう私も、数学は大の苦手です。窮地きゅうちに立たされました。

 そのとき、こっそりと私の腕を小突く者がいることに気付きました。隣の席の男子生徒です。名前も顔も知らない男子は、自分のノートに書かれた問題の答えの部分を、私に見えるように指差しました。それが正解かどうかすら私には分かりませんでしたが、とりあえずたどたどしい発音で答えを読み上げました。

「……はい正解。次からは自分で解けよ」

 どうやら合っていたようです。元より授業に興味の無かった私は、再びブリタニカに視線を落としました。

 しばらくそうして彼と対話していると、教室にいる生徒たちが流動し始めました。授業が終わり、昼休みになったようです。教室のあちこちで昼食の支度したくをする生徒の姿が、視界の端に映ります。

 私も鞄から昼食のパンを取り出しますが、意識は未だ電子辞書のディスプレイの中です。ほの暗い液晶は『腹式呼吸』の説明を映していました。ああ、彼の説明はなんて美しいのでしょう。単語の選択、言い回し、リンクの配置のタイミング、どれを取っても流石としか言いようがありません。私の中に、『腹式呼吸』の知識がゆっくりと流れ込んできます。パンをかじり情報を咀嚼そしゃくし、私が彼との甘い一時を噛み締めていたその時です。

「小早川さん」

 不意に、名前を呼ばれました。誰でしょう。

「隣の席、空いてる? 使っていい?」

 声の主は男子生徒のようです。私の視線は液晶に釘付けでしたから、相手の顔は見えません。見る気もありません。私の視界には、だけがいればいいのです。私は適当に、ええ、とだけ答えました。

「ありがと。……食事中も勉強?」

 隣の席に腰を下ろしたらしい、その男子は私に問います。私はまた、ええ、とだけ答えてパンをもそもそと食します。ブリタニカ以外の存在には興味が湧かないので、顔も名前も認識していません。

「へえ……勉強熱心だなあ。でも数学も頑張らないと。次は答え教えてあげないよ」

 男子はそう言って笑います。私はゆっくりとブリタニカから目を離し、彼の方に向き直りました。人の顔を見ながら話すことにはどうしても慣れません。相手の首から下、ちょうど胸の名札をにらむ格好になります。名札には簡潔な文字で「渡良瀬わたらせ」とだけ書いてありました。顔は見えませんが、渡良瀬君の言葉から推察するに、恐らく彼は先ほどの授業で私に答えを教えてくれた人でしょう。

 その後も、渡良瀬君は私がどれほど無愛想に返事をしようと喋り続けました。



 それからというものの、渡良瀬君は毎日、私に話しかけてくるようになりました。私は常に液晶を見ながら適当に聞き流し、たまに相槌を打っています。正直なところ、私とブリタニカが二人きりで語らっている最中に話しかけてくるのは、無粋ぶすいだと思います。しかし、彼が私に話しかける声は、どうしようもなく楽しそうに弾んでいて、私にはなぜかそれが耳障りだとは感じられないのです。

 休み時間の度に繰り返された、この片方が喋り続け、もう片方が淡々と頷くだけという奇妙な会話は、いつの間にか私の日課のようなものになっていました。初めてブリタニカ以外の他人に感じる、温もりのようなほのかな安心感に、身をゆだねようとしている自分がいるのです。



 この感情をなんと表現したらいいのでしょうか。帰宅すると、自室の机上に鎮座しているブリタニカを手に取り、聞いてみることにしました。

「ねえ、ブリタニカ――」

 しかし、返事がありません。いつもなら心に直接響く彼の声も、なぜか聞こえません。私は何度も彼の名を呼びながら表紙を撫でましたが、彼はただただ黙りこくったままでした。

「返事して頂戴、お願いだから……」

 今までこんなことはありませんでしたから、私はどうしていいかわかりません。私が何かしたのでしょうか。私が何かしたからでしょうか。何か、彼の機嫌を損ねでもしたのでしょうか。

 考えに考えて、私は一つの結論を出しました。

 彼は……彼以外の誰かと関わろうとする私に、愛想を尽かしてしまったのではないか、と。



 今日も、渡良瀬君は私の隣で喋り続けています。私はその声を複雑に思いながら、いつもどおり聞き流そうとします。しかし、いくら辞書の画面を凝視しても、内容が頭に入りません。ブリタニカは、今日も私と口をきいてくれないのです。

「…………あの」

 渡良瀬君のほうを向き、視線を落として言います。普段、ほとんど会話しない喉を震わせますが、声の出し方がよく分かりません。

「もう……私に話しかけるの……やめていただけますか」

「え?」

 彼は驚いて聞き返しましたが、一度喋りだした私の勢いは止まらなくなっていました。

「……迷惑…………なんです、そういうの」

 言い終わらないうちに、私は教室を飛び出しました。後ろから、私を呼ぶ声が聞こえた気がしましたが、私は一度も振り返らずに、逃げるように勝手に早退してしまいました。



 自室の扉を閉めるや否や、私は泣き出しました。なぜ、あんな言い方しかできなかったのでしょうか。彼は、渡良瀬君は何も悪くなどないのです。彼は私に好意的に話しかけてくれたではありませんか。それなのに、私は……私は自分の都合のために、彼を突き放してしまったのです。ブリタニカを失いたくない、という理由で。

 ――ブリタニカ。

 私はおぼつかない足取りで、机上に佇むブリタニカにすがりつきました。こんなときどうしたら良いのでしょう。どうしたら良かったのでしょう。もう私には貴方しかいないのです。貴方がいなくては、私には何も残らないのです。

「貴方さえいてくれれば、私は……」

 涙があとからあとから止め処なく溢れ、すがる指先に落ち、黒い装丁にいくつも染みをつくりました。それでも彼は何も語りません。私は彼に触れても、何も感じることができませんでした。ざらざらとした表紙は、他の書籍によくあるようなそれと同じで、特別な感情も湧きません。重たい表紙を開き、いくらページを捲っても、白い紙に黒字が整然と並んでいるようにしか見えません。これでは教科書を見つめる感覚と変わらない……。

 そこまで考えて、私は気付きました。全てを悟り、そして声を上げて泣き出しました。

 彼も所詮、感情を持たないただの「物」だったのだと。



 次の日。空っぽになった心を引きずるようにして、私は登校しました。私が全てを失っても、日常はつつがなく運行しています。授業も、そして休み時間もいつもそうであったように、時間は過ぎていきます。

 ただいつもと違うのは、今の私にはブリタニカも、渡良瀬君も語りかけてはくれない、ということでした。私は休み時間が来るたびに机の角を見つめ、ぼんやりと時間が経つのを待っていました。私はこれからどう生きていけばいいのでしょうか。私には辞書のような知識量も、人並みの社交性もありません。私一人では、何もできない……そんな思考がぐるぐると頭を巡り、気付けば授業が始まっているのでした。



 渡良瀬君が再び私に話しかけてきたのは、最後の終業のチャイムが鳴り、帰ろうとしているときのことでした。

 話があるからここで待ってて、と彼は無愛想に告げました。ああ、彼は昨日のことで怒っているのでしょう。しかし私は彼を怒らせるようなことをしたのです。罵倒されてしかるべき人間なのです。私は鞄を床に置き、席について、人波が引くのを待っていました。

 程なくして、人気はなくなりました。私は、膝の上に組んだ両手をじっと見つめていました。私の正面の席に座った渡良瀬君が、口を開きます。

「とりあえず…………昨日は、ごめん」

「………………え」

 彼の言葉は、かなり意外でした。責められるのは、私のほうだと思っていたからです。

「小早川さんが、あそこまで悩んでいたとは気が付かなかったんだ……本当、ごめん」

「違う…………謝るのは……私のほうなんです……」

 俯き、相手の顔を見ることができないまま、私はことのいきさつを隠さず話しました。私が辞書を好きなこと、その辞書に嫌われたくないが為に、あんな態度を取ってしまったこと。彼は、荒唐無稽こうとうむけいであろう話の一つ一つに相槌を打ちながら、静かに聞いてくれました。

「私は……ブリタニカがいなければ、一人では何もできない……何も残らないのです」

 全てを話し終え、私は泣いていました。彼は少し考えこみ、そして口を開きました。

「……彼に振られたのは気の毒だったね。……でも、」

 彼は、私の肩にぽん、と手を乗せました。私は思わず顔を上げました。そして初めて、彼の顔を見ました。

「それで自分をないがしろにすることはないよ。君には君の良い所が必ずあるし、それが見つからないからって落ち込む必要は一切無い」

 彼は私の視線をしっかりと受け止め、力強く微笑みました。

「顔を上げろよ、きっと君は笑ったほうが可愛い」



 さわやかな朝の光を浴びながら、私は身支度を整えました。登校するにはいささか早い時刻ですが、今日は渡良瀬君に朝から数学を教えてもらう約束をしているのです。遅れるわけにはいきません。

 ふと、机上に置いたままになっていたブリタニカ辞典が目に入ります。何気なく、その表紙を開きました。そこには何の変哲も無い、淡々とした説明文が書き連ねてありました。もう辞書を見て愛情を感じることは無くなりました。これから先も無いでしょう。他人を、そして、誰より自分を愛することができるのなら――



 私はブリタニカを閉じ、自室を後にしました。

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Mr.Britannica 月見 夕 @tsukimi0518

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