第104話 石の上にも三年

 私は庶民の暮らしが好きです。


 そこにこそ真実がある、人間の生の声があると思っています。

 だからこそ、民俗学にも深くのめりこんでいるわけですが。


 古美術品への興味はその意味で少し皆さんとは違うでしょう。

 いくらするとか、芸術的価値とか、それより何より、それを連綿と千年以上伝えてきた、その人間の心をこそ、それを見た時想うのです。

 考えてみてください。

 例えば仏像。国宝だとかも関係なく、それに祈りをささげてきた、無数の願いが千年もの間込められている。

 人の営みの長さと共に、そこに込められる祈りは決して世界平和などと大きなものだけではないだろう、もっと素朴で、もっと切実で、いわば小さくて、でも強い。押し潰されそうなほどのそれらを仏さまは千年もの間受け止めてきたのだと感じれば、それはもう自分自身がちっぽけだと感じるには十分なものです。


 それと同じとはいわないですけど。

 さすがに言い過ぎですが。


 同じようなものと感じることはあるのですよ。


 ここ「カクヨム」様は。

 いや、SNSの世界は、ですかね。


 小説を書くのって、たくさんの経験が必要といわれます。

 でも、自分自身が経験出来ることにはおのずと限界がある。

 それを補うのは書物、本なわけですが、それがここ「カクヨム」様には無数に集まっている。


 本屋さんに並んでいるのは、ある程度の学識経験者のものばかり。あるいはコンテストでも上位を取れるような、いわば(出版社にとって)お金になるものばかり。しかし、ここにはそんな大きなものばかりではなく、日々の何でもない生活の素朴な声もたくさん集まっています。


 仏像に願いを込めるがごとく。


 たくさん。

 たくさん。


 それがいい!


 自分が知らない経験。

 自分の興味を広げる知識。

 職業にしても。

 体験にしても。

 本屋に並ぶようなものだけでない、面白くもない日々の営み、暮らしそのものがここにはある。


 エッセイ。

 有名人の生き方なんて遠いものですけど、身近でも知らない様々な職業がここにはあります。隣は何をする人ぞ、それを知れることもたくさんあって疑似体験さえ出来ます。この「どうでも」もですが、真似して私もエッセイをカクとは、またヨムして自身の作品にうまく取り込めるなんて、二年前には思いもよりませんでした。


 恋愛、ラブコメ。

 ヨムのは好きでも、まさか自分がカク側になるなんて!

 ここにきて刺激を受けたからこそで、自分でもいまだに自分に驚いています。


 ラノベって、いまだに私はよく分かっていません。

 何をもってラノベなのか。

 ラノベに何を求めているのか。

 それでも、ここでそれに属するものを読んでいれば、何となく「それ風味」な作品も書けるようになりました。


 最初の数か月は、俗にいう「読まれない地獄」で苦しみました。

 それが、一人、二人と私を見付けてもらえたことで、私からもつながり多く持ち、おかげさまで少しはこの広い「カクヨム」世界で認知されるようになってきました。それは同時に、多くの作品に触れたことも意味します。


 私が登録の理由は、一年間は目先を変えてここでがんばろうって、創作活動に行き詰まりを覚えてのことで、けっこう気合入っていたんですけど、気付けばあっさり一年なんて越えていました。いまやもう、肩ひじ張らず楽しめばいいんだという境地に。それもまた、多くの皆さんと知り合い、その作品をヨムしたからでしょう。


 世間のなんでもそうでしょうが、タイパもいいですけど、合わないと思えばさっさと引くことも自分を守るためには必要ですが、「これ!」って思うことならただただ続けることも大事なんじゃないかなと思うわけです。


 ゆるく、ゆるゆるとでいいですから。


 続けることは大事と、ある日突然気付くことがある。


 ご託なんてそれこそ、どうでもいい話。

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