2-2
「……顔をあげてくれ、レディ」
侯爵の言葉に従い、ゆっくりと顔をあげる。
先ほどまでと異なり、侯爵がシュユを見る目はほんの少しだけ和らいでいた。
「……なるほど、星樹の神獣と絆を育んできたルミナバウム領――そして、その地を守るエデンガーデン辺境伯のご令嬢だったか」
「侯爵様のお耳にも我が家門の話が届いていたのですね」
「当然だ。ルミナバウムを治める家門は、我がブルークラリスと同じ、神獣との絆を持つ家門。知らないほうがおかしいとすら言える」
そういって、侯爵はくっとわずかに笑みを見せた。
シュユもわずかに唇を持ち上げ、つられたかのように侯爵へ笑みを返してみせる。
その後、ちらりとジェビネのほうを見てみれば、ジェビネは零れ落ちそうなほどに目を見開いてこちらを見ていた。
思えばジェビネには名乗るのを忘れてしまっていた――声をかけた令嬢がただの幻療士ではなく、ブルークラリス侯爵家と並ぶほどの力を持つ名家の令嬢だったと知ればこうなってもおかしくはない。
少しの申し訳なさを感じて内心苦笑いを浮かべるシュユの目の前で、侯爵が動く。
「お初にお目にかかる、ルミナバウム辺境伯令嬢。俺はリュカ・ブルークラリス・セティフラム。ブルークラリス侯爵家の当主だ。ルミナバウム辺境伯令嬢とこうしてお会いできたこと、光栄に思う」
ゆるりと立ち上がり、片手を胸に当てて侯爵が軽く頭を下げる。
彼が名乗った名前を心の中で何度か復唱しながら、シュユももう一度頭を下げた。
「嬉しいお言葉をありがとうございます。わたしも、こうしてセティフラム侯爵様とお会いできたこと、光栄に思います」
侯爵――リュカの許しを得てから顔をあげ、シュユは胸に手を当ててふわりと再度笑った。
一切の悪意や企みを感じさせない、人によっては気が抜けると感じてしまいそうな笑みにつられ、リュカを取り巻いていた棘の先が丸められる。
先ほどまで応接間にいた幻療士の男と接していたときとは異なり、リュカがまとう雰囲気はかすかに和らいでいた。
「どうぞ座ってくれ。いつまでもレディを立たせたままにしておくわけにはいかない」
「あら、お気遣い感謝いたします、侯爵様。……では、お言葉に甘えさせていただきます」
促されるまま、シュユは静かにソファーへ歩み寄っていく。
とさりとわずかな音とともにリュカが先に腰を下ろしたのを見てから、シュユもそっとソファーへ腰を下ろした。
適度な柔らかのソファーがシュユの体重を優しく受け止める。
「しかし、驚いたな。エデンガーデン辺境伯家の令嬢が幻療士として旅をしているなど。ルミナバウムに身を置いていなくて大丈夫なのか?」
「お父様とお母様からの許可はいただいております。それに、わたしは第二子。エデンガーデン家を継ぐのはお兄様ですので、わたしは少しの自由であれば許されております。……それに、お父様もおっしゃっておりました」
シュユの脳裏に、今は遠く離れた領地にいる父の背中が思い浮かぶ。
「我がエデンガーデン家は、星樹の神獣様の加護の下、多くの幻療士を排出してきた家門。そして、治癒の力を司る星樹の神獣様が残してくださった地を守る家です」
幼い頃から、父は何度もシュユに語ってくれた。
自分たちがどのような一族で、どのような使命を持った人間であるのかを。
成長した今でも一言一句間違えず、他者へ告げることができるくらいに――シュユの中に深く焼きついている。
「我らの使命は、星樹の神獣様がそうしたように多くの傷や病を癒やし、生まれてくる悲しみを少しでも減らすこと。各地を巡り、神獣様の子である幻獣たちの命を助け、悲しみや苦しみがこの世を覆い隠してしまわぬよう防ぎなさい――と」
それこそがシュユの使命であり、エデンガーデン家に生まれた人間が背負う使命。
「わたしの旅は、その使命を果たすためのもの。お父様もお母様も快く頷いてくれました」
だから、自分が領地を離れて旅をしているのは問題ないのだ。
そのことを告げ、シュユは胸に当てていた手を下ろす。
眼前に座るリュカは静かにシュユの言葉に耳を傾けながら、口元に手を当てて何かを考えているかのようだった。
会話が途切れ、わずかな重たさを含んだ空気が応接室を支配していく。
長く感じられる沈黙ののち、リュカがゆっくりと口を開いた。
「ジェビネとともにここへ来たのも、それが理由か?」
静かな声での問いに、一つ頷いてから答える。
「理由の一つはそうですね。立ち寄ったカフェのマスターさんから、セティフラムを襲っている謎の病のお話を聞き、ムーンシャイン様からもお話を聞き、同じ神獣と縁を持つ貴族の一人として放っておくわけにはいかないと思いまして」
「もう一つの理由は?」
「もう一つのほうですが――」
ちらり。傍にいるメディレニアへ視線を向ける。
メディレニアもシュユへ視線を返し、かすかな動きで頷いた。
一人と一匹で頷きあったのち、シュユは告げる。
「我がルミナバウム領では、過去に大量の幻獣が命を落とすという大事件が発生しました」
「……幻獣の大量死だと?」
「ええ。現在は病魔災害と名付けられたその事件では、ある特定の条件を満たす幻獣のみが一つの病によって命を落としました。その数、簡単に十を超えるほど」
は、と。リュカとジェビネが息を呑んだ。
たった一つの病が発生したことにより、たくさんの幻獣が命を落とした。
現在のセティフラム領でも、犬の姿をした幻獣が次々に命を落としている。
かつてルミナバウム領で起きた病魔災害と、今のセティフラム領の状況は――似ている。
「セティフラム領の今の状況は、昔のルミナバウム領とよく似ています。あのときと同じ悲劇を異なる地で再現するわけにはいかないと――そう思い、侯爵様の下へ参りました」
真っ直ぐにリュカを見つめ、告げる。
リュカもまた、シュユを静かに見つめ返したまま、一言も発さなかった。
彼の表情はあまり動かず、何を考えているか上手く読み取れない。
時間の経過とともに緊張と不安がシュユの中で膨れ上がり、口の中が少しずつ渇いていった。
はたして、どれくらいの沈黙が続いたのか――ようやくリュカの中で結論が出たのか、彼がゆっくりとした動作で立ち上がった。
「……こちらへ来てほしい。俺のパートナーの下へ案内する」
短く告げ、リュカは応接室の扉を開けて外へ出ていった。
彼の背中を少しの間だけ見つめたのち、シュユはちらりとジェビネを見上げた。
「これは……診察の許可をもらったということで……よろしいのでしょうか?」
少しの戸惑いと期待を乗せた声で確認を取る。
すると、ジェビネが口元に安堵のえみを浮かべ、小さく頷いた。
……どうやら、診察する前に追い出されるという事態にはならなかったらしい。
ほっと胸をなでおろしたのち、シュユも立ち上がると、リュカの背中を少し早足に追いかけた。
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