攻略済みのあの世界にもう一度

鮫島フウロ

攻略済みのあの世界にもう一度


「そんなに嫌なら逃げちゃえばいいじゃん」

 汗がべた付く真夏の夜のことだった。

 アルコールが回っていて前後の記憶はぼんやりとしているが、中学生の頃からの付き合いである玲子に飲みに誘われてここに来たような気がする。望まない環境に悩まされ続けていた私にとって、玲子のその誘いすらも足の重たいものだったが、苦労して来てみれば案外悪くないものだった。

案の定と言うべきか、日が暮れてしばらくした後の居酒屋にはスーツに身を包んだ人々が仕事についての話をしている。それがまた私を現実に引き戻させた。大衆居酒屋に特徴的な喧騒は、人間の汗とアルコールと油物のにおいを纏ってさらに重たくなっている。それはまるで、私をここから逃がさないようにしているみたいに思えた。そんな中で、ノースリーブのサマーニットに身を包んだ玲子は異端とも言うべき冷涼感を放っていたし、そんな彼女から発せられた言葉は、キンキンに冷えたビールみたいに私の閉塞した思考を目覚めさせた。

さらに追加したビールジョッキが一つ、私の目の前に置かれた後で、玲子は話を再開する。

「パワハラセクハラに人格否定。今すぐ辞めたいけどそれを口に出すのも怖い。じゃあもう逃げるしかないんじゃね」

「逃げるって言ったって。それが出来たら苦労しないわよ」

「出来るよ。ウチたちなら」

 セミロングの髪をかき上げてそう言う玲子の眼が本気だったから、私は少しだけ恐怖を覚えた。この子はやるとなったら良いことでも悪いことでも何でもやる、そういうタイプだと知っていたから。

「じゃあ、具体的には。どうやって逃げるのよ」

 訊ねる私に、玲子はにっこりと顔をゆがめた。待っていましたと言わんばかりの笑顔だった。

「神社。行こうよ。ウチらが最初に会ったとこ、忘れたわけじゃないでしょ」

「ちょっと待ってよ!」

 思わず立ち上がった。怒鳴りつけるみたいにしてしまった。

「ちょっと涼香」

 見渡せば、周りの席で飲んでいた人たちが黙って私を見上げている。つい声を張り上げてしまったことを恥じ、小さな声ですみませんと言いながら椅子に座り直した。怒られているのを見るのは辛い。だからこそ罪悪感が立ち昇ってくるが、今はそれどころではない。それほどまでに玲子の発言は衝撃的なものだったのだ。

 今度はちゃんと声を潜める。

「それってつまり、またあの世界に行くってことなの」

懸念たっぷりの私に対して、玲子はあっけらかんとした態度で頷いた。

「だって、嫌なんでしょ。このまま生きるの」

 そう言われてしまえば、弱いのはこちらだ。日々の面倒ごとについての愚痴をさんざん聞かせたのは私。確かに聞こえようによってはそう捉えられてもおかしくはないし、事実として私はそれらすべてを投げ出してしまいたかった。

「だからって、またあそこに行くのは」

「抵抗感あるの」

「そりゃあ、そうでしょ」

 気に入ったホラー映画を見返すのとはわけが違う。感覚としては、本当に幽霊の出る心霊スポットに行くのに近い。加えて、私たちはそこで実際に恐ろしい目に合ってきたのだ。行かなくてはいけない理由があるならともかく、遊び半分で行くようなところではない。それらを踏まえてみて、やっぱり玲子はとんでもないことを言っているだろう。

「大丈夫だって。ウチら何度もこうして戻ってきてるわけだし、帰りたくなったら帰れるって」

「そういうものかな」

「そういうもんだよ。ウチと涼香なら大丈夫だって」

「どういう自信なのそれ」

「経験則。あんな訳の分からないところに行って実際に帰ってきたっしょ。だから大丈夫」

 何と言うか、決意は固いみたいだった。

「何でそんなに玲子の方がマジになってんの」

「マジになってないよ」

「だったら、あんなところ行こうなんて言い出したりしないって」

 玲子はにこりと笑って、言葉を返さなかった。


 ウチお手洗いよってくから、会計頼むわ。

 玲子にそう言われて勘定を済ませ、二軒目に行こう、と話をしていたところまでは覚えている。頭を回そうとすれば、ガンガンとした痛みが走った。二日酔い確定だ、明日の仕事は大変なことになるぞ、と覚悟をしなければならなかった。

 やがて、重たい瞼をしっかりと開けると、そこには大きな石造りの鳥居があった。日の落ちた後の社と言うのは、普段見るよりも荘厳なものに見える。神聖で侵犯し難い領域のように思われてならない。もし仮に礼を欠くことをしてしまったならば、罰が下ってしかるべきである。そんな畏怖すべきものが眠る場所に見えて仕方がない。

 その神域の奥に、見知った顔がある。

「玲子。どうしてそんなところにいるの」

 鳥居を抜けた先、手水舎のあたりで玲子がこちらを見ていた。神社には明かりがともっておらず、街の照明も鎮守の森に遮られている。あるのは月光のみ。そんな限られた光だけだったものの、玲子の顔だけははっきりと見えていた。

 玲子には私の言葉が聞こえているようで、返答するかのように口を動かしていたが、私には何も聞こえなかった。ただ木々が風にそよぐ音ばかりが木霊している。

「ねえ玲子ってば」

 私は思わず駆けだした。 

 神社の参道、その中央は神様の通り道である。有名な話だ。そして私があの世界に行くために必要な儀式でもあった。

 玲子は、すでに向こう側にいる。ならば追いかけなくてはならない。そんな理屈にならない思いが私の背中を強く押した。

 参道のちょうど真ん中を通って、私は神社の鳥居をくぐる。


 乗っている新幹線がトンネルを抜けたときみたいな、空気に揺るがされる感覚があった。そしてふわりと地面に足をつく。

「おっ涼香、ようやく来たじゃん」

 手水舎で手を振る玲子の姿勢は、鳥居をくぐる前と何ら変わらない。三つに編んだ髪といいかにもなセーラー服は、あのころと変わらないままだ。

「どうよ。懐かしいでしょ」

 自慢げに玲子は胸のリボンタイを広げて見せる。

 初めて彼女に会ったときと同じ笑顔だった。この奇妙な世界でも全くその笑みを崩さない玲子だったから、私は彼女に憧れたのだ。

「そうね。何年ぶりだろ」

「七年ぶり、かな」

 指折り数えて玲子が答える。

「ウチとしては昨日ぶりみたいな感じだよ。あっという間だった」

 この七年間、確かにあっという間だったかもしれない。この世界から抜け出してから、私は家を飛び出した。それからのことを思えば確かに一瞬の出来事のようにも思える。それこそ一夜の夢のようだ。

「でも、私、何も変われなかった」

「何が」

 あっけらかんとした笑顔はやっぱり彼女の長所なのだろう。だからこそ、私の無いものを持っている彼女を前にすると、言葉にもしたくない醜い気持ちが噴き出してくるようだった。

「何もさ、変わる必要とかないんじゃないかな」

 そうやって玲子は私に安心感をくれる。目の前の嫌なことから逃げてもいいと言ってくれる。そんな彼女だけが私の拠り所だった。

「まあせっかくこっち来たんだから。余計なこと考えずゆっくりしようよ。ここには、ウチと涼香しかいないんだし」

 そうして差し出された手を、私は取った。七年前からずっと私はこうだった。


 玲子に手を引かれて、参道の端を歩いて鳥居をくぐる。この世界から戻りたければ、行きと同じく、鳥居の中央を通ればよい。それは何度も経験してきたことだった。

 行きはよいよい、帰りは怖い。童歌が脳裏をかすめる。

 それでも私はすぐに思い直す。帰りのことを気に留める必要はない。帰らなくていいのだから。

 鳥居の先には一面の暗黒が広がっていたが、それも途端に晴れてくる。背の高い樹木が三階建てほどのマンションを覆っており、その敷地は、塀と大型の門扉で区切られていた。

見覚えのあるところだった。学校だ。その造形は私の通っていた中学校と全く同じだった。

「懐かしいね」

 玲子に語り掛けてみると、私の思っているところに彼女はいなかった。

「そうだねー」

 私が想像していた場所よりも少し離れたところに彼女はいた。学校の敷地の中。まだ開いていない門扉の内側に玲子はいる。

 いつの間に入ってたのと問う間もなく、彼女は敷地を歩いていく。

「ちょっと待ってよ」

 慌てて追いすがろうとする私を見て、玲子はいたずらっぽく笑う。

「早くおいでよ」

 そういて玲子は校舎の昇降口へと姿を消す。私はありったけの膂力でもって門扉を押し開けた。その横に銘板が見えたが、書かれた学校名はかすれていてよく読むことが出来なかった。

 小走りで昇降口まで辿り着くと、確かにそこは私の母校であるようだった。年季を感じさせる校舎の作りも、下駄箱のこもった匂いもあの頃と同じままだ。

 とは言っても、私たちは深夜に実在の母校に無断侵入しているわけではない。

 過去に玲子と検証したところによると、ここは私たちにとっての夢の世界である、というのが正しいように思われる。例えば、この学校の敷地の外は存在していない。外へ向かおうとすればするほど暗い靄のようなものに視界を阻まれ、条件を満たさない限り、やがてこの学校へと戻ってきてしまう。

 当初は簡単に信じることが出来なかったが、要するにここはそういう不思議な場所なのである。誰も追ってこないだろうと私たちが確信しているのはそう言った理由からであった。

 少し立ち止まって思いに耽っていると、玲子が壁からちょこんと顔を出す。

「安心してください。中には誰もいませんよ」

 冗談めかして玲子が笑っている。

「ありがとう。今行く」

 今度は待ってくれた。

 また手を繋ぎ直して、校舎の階段を上っていく。

 私の母校は三階建てで、ここもそれに違わないようであった。まず一階を一通り確認して、何もいないことを確かめてから二階へ向かう。

「ここさぁ、覚えてる。めっちゃ大変だったよね」

 止まったのは二階の理科室だった。

「なんだっけ」

「覚えてないの。ほら、あれ」

 そう玲子が指さす先では、行儀よく人体模型が佇んでいる。

「ああ、あれね」

 ここが実在の学校ではない理由として挙げられるのが、余りにも現実味の無いいくつかの経験だ。例えば、人体模型が勝手に動き出して私たちを追いかけてくる、誰もいないはずの音楽室から聴こえてくるピアノの音色など。いかにも胡散臭い学校の七不思議。それを私たちは実際に見て聞いている。教室も大方締まっており、どうにか脱出の手がかりを得るため、七不思議たちの追跡を躱しながら鍵を探し奔走したものだった。

 だが、それももう過去の話だ。今となっては攻略済みであり、どの部屋の扉も開け放たれている。また、人体模型に関しても、特に動く気配はないらしい。

 ここに来るまでの不安は、どうやら杞憂だったようだ。

「大丈夫そうだね」

「よかった。ウチあれマジで苦手だったんだよね」

「そうなの」

 率先して私の手を引いてくれていたから、そんな風には見えなかった。思い返してみれば、私は玲子のことをよく知らないのかもしれない。私がこの世界に来ると、玲子はいつもいてくれる。彼女について確実に言えるのはそれくらいだろうか。

「実はね。ちょっとしんどかった」

「それなのに、助けてくれたんだ」

「まあ。あの時は必死なだけだったと思うけど」

「そっか。ありがとう」

 今のは少し素っ気無さ過ぎただろうか、とすぐに不安になるけれど、玲子はそんなこと気にしていないようでニコニコと笑う。

「いいんだよ。結果としては涼香のためなんだし」

 純粋な発言に少し恥ずかしくなる。

「それで、どこ連れてってくれるの」

「え、めっちゃ期待されてる、もしかして」

「うん」

「嘘でしょ」

 本当はこうやって、玲子と話すことが出来ればいいだけなのだろう。

「じゃあ、こっち」

 そして私たちは駆けだした。廊下を走ってはいけません、とクラスメイトがさんざん注意されていたのを思い出す。聞き分けの良かった私はいつの日からか一切規則を破ることをしなくなっていた。でも今は誰にも咎められたりしない。

 私たちは自由だった。

「ひぃー、疲れた」

 屋上への階段を上り切って、情けない声を上げて膝に手をつくのは私。対する玲子は、その学生服に恥じない体力らしく、余裕を保った表情を見せている。

「もう。涼香運動しなさすぎじゃないの」

「あのね、大人になると運動する機会なんてなくなるのよ」

 そう言ってから、その発言が自分に返ってくる。

 果たして私は大人になれたのだろうか。それこそ中学生の頃は、身長が伸びるにつれて大人になっていくんだろうと思った。高校生の頃は、異性経験がその役割を担うのだろうと考えた。でも、その頃の私が思っていた大人になってみて、経験すべきと思っていたそれらを経験してみて、私は大人になれたのだろうか。一体大人になるというのは何を意味しているのか。分からないことに塗れているけれど、少なくとも私はまだ子どもだと思う。

「どしたの暗い顔して。そんなに運動できなくなったのがショックだったの」

「いや、そういう訳じゃないけど」

「ふーん」

 深くは聞かない、という玲子の意思表示に見えた。

「てかさ、なんで学生服なのよ」

 改めて玲子の服装を見返す。やけに眩しい月明かりくらいしか光源の無い今、細部まで確認するのは難しいが、少なくとも居酒屋で見た時とは全く異なり、母校の制服らしきセーラー服に身を包んでいるのは確かである。

「だって、せっかくこっち来るならさ、思い出ある方がいいでしょ」

「だからって。勇気あるよね」

「どうせ誰にも見られないんだからいいじゃん」

「そっか。確かに」

 目から鱗が落ちる心地だった。

 どうしても私はまだ現実に囚われているらしい。

「ここは私たちの世界なんだからさ」

 そして、玲子は屋上への扉を開けた。

 この解放感は学生の時以来だ。閉塞していた環境から、一気に視界が開ける感覚は、私が自由の身であることを裏付けてくれるようだった。屋上からの景色は以前と変わらず、黒い霧に阻まれて敷地の外の情報を得ることはできない。ただ銀色の月が妖しく輝くのみだ。

「私たちは自由」

 くるくると舞うように玲子はその身を躍らせる。

「逃亡成功だぜ。涼香」

 ぐっと親指を突き立てる。

「ここなら何でもできる。真面目に現実の問題に目を向けてもいい。そんなこと一切しなくたっていい。生きたいように生きればいいんだよ」

「そう、だね」

 いよいよアルコールも抜けてきた。

 頬を涼しい風が撫でる。きっと何といっても玲子は頷いてくれるのだろう。でも、私にはまだ向き合わなくてはならないことがある。

「まず、ありがとう」

「どうしたの。急に」

 玲子の言葉を遮るように私は続けた。

「私の我儘に付き合ってくれて。玲子はきっと何て言っても私を応援してくれると思う。でも私の我儘だけに玲子を付き合わせるには、そうするには考えなくちゃいけないことがある」

「何、それは」

 息を飲む。見ないようにしていた事実を直視することは、いつだって怖い。そもそも今日だって、その怖い事実の一つから逃げ出してここにいるのだ。それが恐ろしくないはずはない。それでもどうにかしようと思うのは、きっと玲子が私にとってそれだけ大切な存在だからだ。極端に換言すれば、彼女は私の全てだ。

「七年前、玲子がいなかったらそもそも私はここまでやってこられていないと思う。玲子は親友だけど、それよりも命の恩人なの」

「それで」

「だからしっかりと知っておきたいの。あなたが、本当は誰なのか。あの時ここで何をしていたのか。あなたの居場所はどこにあるのか」

「なんか、めっちゃ重たい話だね」

 へらへら笑って、そうやって玲子はいつも自身のことについては話さなかった。彼女とたくさん話をしてきたつもりだったけれど、結局会話は彼女にリードされて、私が一歩的に自分のことを開示する場となっていた。つまり、私は玲子のことを何も知らない。彼女について知っているのは、玲子が自身のことを開示したがらないということ。それには何か理由がありそうだということ。

「あなた、本当に私と同じ世界の人なの」

 自分で言っていて、身が竦むようだった。

 ただ、そう思わせる要素はいくつもあった。彼女は私がこちらの世界に来るときはいつも一緒にいた。現実の玲子の素性について全く知らないし、現実で会うときは毎回その前後の記憶が朧気である。そして、靄のかかった曖昧な記憶ではあるが、現実において玲子が他の人から存在を認められたことはないように思える。

 疑う理由は十分だった。

 仮にそれらすべてが思い違いであったとしても、その場合彼女の現実について思いを巡らせる必要が出てくる。

 つまり、私がこれからの逃亡生活を続けるにあたって、彼女のことをしっかりと知らなくてはならないのである。

 それらの思いを言葉に出した時、私は怖くて俯いていた。

 やがて私が顔を上げた時、玲子は震えていた。想像していたよりもすんなりと、彼女は私の言葉を飲み込んだ。

「そっか。気が付いちゃったか。まあそうだよね。うん。しょうがないよね」

 そう零す独り言には、悔しさと寂しさが滲んでいるようだった。

「ウチはさ、人間だったんだけど、人間じゃなくなっちゃった。みたいな感じなんだよね。伝わるかな」

 首を横に振る。

「ウチはこっちの住人なわけよ。この世界は、誰かを求めている。常にこの世界を認識してくれる人、この世界に囚われてくれる人を求めている。だから私は、こっちに来て役割交代してくれる人を待っているわけ。つまりさ。ウチそれなりに怪異って言うか。化け物になっちゃったんだ」

「化け物」

「ここ一人だし何もないし寂しいんだよね。だから外に出たかった。ここには自由しかないから。自由と引き換えになっても、他のいろんなことを経験したかった。だから、ウチと真逆の涼香が羨ましかったの」

 一際強く風がなびいた。玲子の髪が彼女の顔を覆った。そしてもう一度彼女の顔が見えた時、それは以前とは全く違うものになっていた。

思い出したのは黄泉の国の神話だ。先立った愛する妻を蘇らせるようにと嘆願し黄泉の国へと降りた男は、その許可を得るとともに、帰る間絶対に振り返ってはならないという制約を課せられる。しかし男はそれを破ってしまった。するとそこに在ったのは、朽ち果てた配偶者の顔だったという。

玲子の姿も、そこから遠くないものだった。美しかった玲子の面影は間違いなく残っているものの、その皮膚の多くが腐り落ちている。眼窩は窪み、ただれた皮膚の隙間から筋繊維の赤を覗かせていた。

「だからウチはずっと犠牲者を待っていたの。ウチの代わりにここでずっと、自由と退屈と遊んでいられる人。涼香みたいな、現実に疲れて逃げ出して来てくれそうな人」

「じゃあ、どうして」

 どうしてすぐにでも取って代わらなかったのか。どうしてそれを打ち明けなかったのか。

「初めはね、大変そうだなって思ったから。割とマジでしんどそうだからやめとこうかなって思ったの。この子の立場を奪ったとして、聞いているような大変なことが待っているんだったら、まだここに残っていた方がマシかもなって。そう思ったの」

「初めは」

「そう。初めは。でも聞いているうちに段々、協力できることないかなって考え始めてたの。なんだかんだで、辛いことにも懸命にぶつかって乗り越える涼香がカッコよかったから。それに、結局ウチも一人で寂しかったからさ、お友だち欲しかったんだよね。きっと」

「それじゃあ、私のために」

 飄々としたいつもの表情はどこかに消え失せ、はにかんだような笑みを浮かべる。

「まあ。友達のためなので」

「ありがとう」

「打算だし。感謝することなんて一つもないよ」

「私は玲子が何て言っても、ありがとうって言い続けるから」

 すると玲子は眉を曲げた。困ったようにありがとうと言う。

「まぁ、そんなわけだからさ。ウチは涼香に合わせるよ。これからどうするの。帰るもよし、残るもよし」

「私は」

 私は、どうするべきだろう。また立ち向かうべきだろうか。ここにずっと残るべきだろうか。

 あ、と何かを思い出したかのような声を玲子が上げる。

「飲みの時ってか、ずっとそうだったけど。人からの評価なんて気にすんなよ。涼香は涼香の好きなように生きるのがいいって。絶対にそう」

 今まで見せたことのないような、純朴な笑顔だった。この世のものではないとしても、玲子は玲子だったのだ。

「そうだね。私、生きたいように生きてみるわ」

「おう。それじゃあ、答えは決まったんだ」

「うん。またぶつかってみるよ」

「逃げないんだ。やっぱかっけぇな涼香は」

 玲子は私の肩を軽く叩いた。

「そんなこと、あるかも」

「いいね。その調子で頑張れよ」

「それじゃあ、元気でね」

 そうして彼女は私の背中を強く押す。

「あの頃を思い出しながら、いきな」

 玲子がそう言った途端、地鳴りのような音が全身を揺るがした。いつの間にか玲子の周りには人体模型やらトイレの花子さんみたな女の子やらバスケットボールやら二宮金次郎像やらが大集合していて、それらが奇妙な浮遊をしていた。

 そして、玲子と目が合った瞬間、それらが私にめがけて襲い掛かってくる。思わず駆け出した。

「わーい。逃げろ逃げろ」

 声高く叫ぶ玲子の声がどんどんと遠くなっていく。屋上に今まで見た学校七不思議が大集結していて、最後にそこから逃げることになる。全く同じ筋書きを私は知っていた。七年前、玲子と初めてここで会った時と同じだった。あの時玲子は的確に逃げ道を指示してくれて、おかげで無事脱出することが出来たのだった。

 そしてそれは、今回もきっと変わらない。あらゆる箇所から突如出現する怪異たちも、七年前と同じ逃げ道で難なく躱すことが出来る。

 やがて昇降口を抜けた。勢いそのままに門扉まで向かう。

 後方に化け物たちの大運動会を引き連れて、私は学校の門を抜けた。暗闇に視界が飲まれても、まっすぐ走った。

 いくら走っただろうか。限界を遥かに超えた時、私は神社の境内にいた。

 呼吸を整えながら辺りを見回すが、風がそよぐばかりで周囲には何もない。帰ってきたのだと知る。

 鳥居の前に立った。

「最後に聞きたいんだけどさ」

真後ろから、聞き覚えのある声がする。

「なぁに」

「どうして、戻ることにしたの」

「だって、玲子が好きなようにしなさいって言ってくれたでしょ。私には自分のしたいことってまだわからない。そんな私のことを、私はまだ好きにはなれない。でも、玲子がカッコいいって言ってくれた私のことは、少しだけ好きになれそうだった。それが理由」

 少しだけ間があった。

 それから玲子は、そっかと呟いた。

「頑張れよ。カッコいい私の涼香」

「うん」

 そうして私は、参道の中央を歩き鳥居をくぐった。


 そこには風と、車と帰りを急ぐ人の生活する音があった。帰ってきたのだ。

 振り返って境内を見ても、そこに誰の影も見つけることはできなかった。しっかり探したはずだから、きっと滲んだ視界のせいではないだろう。


 それから三日後、私は晴れて自由の身となった。

 辞表を出す前に、手を出してしまったからである。最悪な上司を殴ったのでついでに今までの全てを公表し、沙汰が下る前にさらに上に辞表届を出した。現在はありったけの有給休暇を消化している最中だ。

 最悪な辞め方だったけれど、でもとても清々しい気分だった。玲子はこんな私でもカッコいいと言ってくれるだろうか。

 その顛末を伝えに、私は例の神社に向かった。

 そして、ちょうど真ん中を通って鳥居をくぐって、しかし何も起こらなかった。異世界への道は、閉ざされてしまった。

ウチらだけの秘密だからな。玲子がそう言っているように思えてならなかった。

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