NoTitle…

 その声は唐突に私の耳を掠める。


 絶望したか。

 諦めたか。

 希望はあるか。


 にたりと笑う声に私は首を横に振る。


 ——私には、分からないわ……。





「ッ——!」

 バチンッと音を立てて閃光が走る。それはまるで、切れかけの電球がいよいよその役目を終える前に最後の主張を、と瞬いたようだった。そんな影が目に焼き付くような光を見て、私の意識は覚醒する。どうやら悪夢を見たようだ。全身汗だくで肩で息をしている。……最近、こんな目覚めが多いような気が。疲れているのだろうか。

 嫌々ながらに体を起こした。確か私は学校から帰ってきて、疲れてベッドに倒れ込んだのだ。いい加減夕飯を食べて、お風呂に入って、勉強をしなければ……渋々と、その場から立ち上がる。

 その時点で違和感があった。何故なら私のベッドは木製の収納ベッドで、一度ベッドから降りるという行為をしなければならない。なのに私は今、座った地面で立ち上がるような動きをしてみせた。……私は、床の上で眠っていたのだ。

「……あれ、」

 辺りを見渡す。黒い壁に、黒い床、天井も黒く、電気というものがない。窓すらない。私という存在以外、この部屋には家具も何もなかった。

「……どこ?何この部屋……」

 当たり前に覚えがなかった。私は自分の部屋で寝てしまったはずなのに、この得体の知れない部屋はなんだ。扉すら見当たらない。私が今まで横になっていた場所にも布団すら敷かれていなかった。本当の意味で床に寝ていたということになる。どうりで身体が痛いわけだ……。

 私は自分のスマホを探す。とにかく現状把握がしたかった。制服のポケットに手を入れて長方形の薄い板を取り出すその過程で、そもそもその光源たるものが一つもない部屋なのに自分の姿や壁がどこにあるか認識できてるのは一体どういうわけなのだろう、と疑問が過ぎる。その事実にも気がつき、身が震えた。

 余計な不安を払い除け、電源ボタンを触る。パッと明るい光に目が眩んだ。再び目をあけると、壁紙に設定している好きなアニメのキャラクターが私に向かって微笑みかけていた。白い髪に赤い瞳。俗に言う「アルビノ種」だ。数多くのアニメのキャラクターは高校生だと言うのに金髪だったり、オレンジの髪、ピンクの髪がいたりする。そんな現実ではあり得ないようなキャラクターより、この世界のどこかには確実に存在しているだろう白髪赤眼のキャラクターに心惹かれるのだ。あぁ、やっぱりかっこいいねぇ……なんて、壁紙を見てにへらと笑ってしまう。そんなこと言っている場合じゃない、と改めて画面に映る時間を確認した。

 17時56分。やはり私が家に帰ってきた頃の時間だ。今日は塾がないから、いつもより早めの帰宅だった。帰ってきて布団に倒れ込んだが、別に寝落ちたわけではないらしい。

 そして、電波を見た。こんな不気味でよく分からない場所、漫画やドラマだったら圏外にでもなっていそうだが……変わったこともなく、普通にアンテナが立っている。ネットは使えそうだ。

 ならば、地図を見てみよう。電波があるならここがどこだかわかるはず……と地図アプリを開いてみた。アップになり表示されたその場所は、どうみても我が家その場所だ。くるくると向きを変えてみると、地図上の自分を示す丸いマークもくるくると動き出す。……私はやはり、家にいるのだ。

「あぁもう!なんなのここ!」

 夢に違いない。頬を引っ張ってみたが、痛いだけだった。

 はぁ、と落胆する。こんな訳のわからないところに居続けてたら、そのうちお母さんに怒られてしまうわ。どこ行ってたの、って……。夕飯抜きって言われたらどうしよう、なんて考えてたらお腹が空いてきた。墓穴を掘ってしまった。

 とにかくこの意味のわからない空間からでなければ。夢なのか現実なのかわからないが、とにかく動かないことには始まらない。結局のところ光源がなくても周囲が見渡せるので、スマホのライトはつけずに探索することにした。

 壁に手をつき、ぐるっと回ってみる。その部屋の広さは八畳間の私の部屋よりも広い……その倍くらいはありそうだ。距離からしてきっちりとした正方形。おそらく壁の高さも同じくらいだから、完全なサイコロ型の部屋だ。そしてぐるっと回り、やはり窓も扉もないと分かる。

「誰かいませんかー?」

 試しに声を張り上げてみた。しかし声は跳ね返ってくるだけで、誰が答えるでもない。壁をノックしてみても、ブロック塀を叩いているかのようにノックの音が響かなかった。粘土か何かでできているのだろうか。粘土ならば突き崩せないだろうか、と考える。しかし周りを見渡しても、掘る道具なんてない。

 ……出られそうにない。

「はぁ……」

 大きくため息をついて、気づいた。

 窓も扉もないのなら、酸素はどうなるのだ?

 咄嗟に口を抑える。今まで何不自由なく呼吸できていた。しかし、それはいつまで続くのだ?さっき私は、夕飯が食べられないことを想像した途端お腹が空いた。空気がなくなるのではないかと、考えてしまったせいで……

「ッ……」

 私はその場にしゃがみ込んで身を丸めた。荒い呼吸になり、冷や汗が頬を伝う。なんだか苦しい。呼吸がしにくい。息ができなくなるんじゃないか。怖い、苦しい、誰か……そう願ったって誰も助けに来ない。

 目の前が暗くなった気がして、あぁ、もう私死ぬのか……と、漠然と考えた時。


『大丈夫、大丈夫だから——!』

 

 声が聞こえた気がした。

 ふと、顔を上げてみる。振り返って、部屋を見渡す。しかし誰もいない。

「……だれ?」

 幻聴だろうか。そう思ったが、また声が聞こえてきた。

『大丈夫、苦しくなるはずがない。君はしっかり呼吸ができるはずだよ。大丈夫だから、ゆっくり呼吸してみて』

 優しい、青年の声だ。棘のない、紳士的な、優しい声。私は彼が言うようにゆっくりと息を吸ってみた。そうすれば、肺の奥まで酸素が染み渡る。……ただ、息ができなくなると思い込んで、自分で自分の呼吸を狭めていただけなのだ。たくさん吸った息を、声に出しながら吐き出す。ただ呻くように、言葉じゃない声を出したらなんだかスッキリした。

「大丈夫、酸素が薄いなんてことない」

 声に出して自分に言い聞かせる。それだけで何となく、本当にそうなのだと納得することができ、安心した。

 すると、どこからかくすくすと笑う声が聞こえた。

『そうさ、その通り。君の言う通りだ』

 なんだか、馬鹿にされたように思えてむっとする。姿なき声は少しの間くすくすと笑い続けた。私は部屋の中央を見て、声を張り上げる。

「あなたは誰?どこにいるの?ここがどこだか知ってる?」

 するとまた笑い声が聞こえた。

『いっぺんに聞かないで!大丈夫、今は見えないところにいるけど、すぐに会えるよ。だからまずは、そこから脱出するんだ』

 簡単に言ってくれる!私はもう隅々まで部屋を探したと言うのに!

『何を言うの。君はまだ自分ができる最大限のことをしていないはずだ。まだやれることはあるんだから、諦めちゃダメだ。早くしないと、押し潰されてしまうよ』

 そう、くすくすと笑うような声が聞こえて以降何も聞こえなくなった。また、私の周りは静寂に包まれてしまう。

 私ができる最大限のことをしていない?だって全ての壁を見てみたし、床だっておかしなところは見当たらない。壁が薄いところがないかって、叩いてもみたし……。

 ……いいえ、壁を叩いてみたのは一箇所きりだわ。他三枚の壁がどうだったかは見ていない。

 私は直ぐに近くの壁を叩いてみた。響かない重い音しか返ってこないその場所から、できるだけ早歩きをしつつ直ぐ先の壁を叩く。少しでも音が違う場所があれば分かるように、耳をそば立てて。そうして最初にいた壁の反対側の壁を叩いている時、音が変わった。

 明らかに軽い音だ。まるで向こうに空洞があるかのような!

「ここなら……ッおりゃ!」

 女子の体当たりなんて大した結果を生まないだろう……そう思いながらも、大きく助走を付けて壁にぶつかってみた。そうしたらなんと、壁は簡単に砕けてしまった。さっき壁を叩いていたその力でも崩れたんじゃないかと疑いたくなるような脆弱さだった。あまりの勢いを付けてしまったため私の体は宙に放られ、崩れた瓦礫と共に向こう側に倒れる。

「いッたぁ……」

 土埃に塗れてしまった自分の体をはたきながら、傷がないかを確かめる。幸い擦り傷も何もない…そう安堵して、周りをよく見ようと顔を上げる。その瞬間、眩しいと感じた。

 先ほどの真っ黒な部屋と打って変わって、真っ白な場所だ。ただここは部屋とは言い難く、少し広めの廊下のようだった。先は白く眩しく、どこまで続いている廊下なのかわからない。…ここ、本当に私の家の座標なのよね?いい加減、現実味が無くなってきているのだけど。

 漫画やドラマは、夢を見ているか確認するために頬をつねるシーンがよくあるし、私もそうしたけど…本当に、たかが痛みだけで現実かどうかの区別を計ることなんてできるのかしら。

 考えても仕方ない。私は立ち上がり、廊下の先を行くことにした。



 延々と続く廊下をひたすらに歩く。後ろを振り返れば、先ほどまでいた黒い部屋へ続く壁の穴も見えなくなっていた。それでもあそこが道の始まりだったのだから、進むべき方向はこっちであってるはずだが、一向に出口が見えない。

 さっき聞こえてきたあの声はあの部屋から脱出しろと言っていた。だったらもう、姿を表してくれたっていいのに。こんな長い、途方もない道を歩かされて……。

 相変わらず窓も、扉もない。絵画が飾られても良さそそうなまっさらな壁には、シミ一つない。行先には何も見えない。屈折することもない、真っ直ぐな道……。

「あれ?」

 ようやく、視線の先に変化が見えた。少し遠くの床に、何かが見える。少しの変化が嬉しく、私はそれに駆け寄った。しゃがみ込んで見てみると、それは二匹の鳥だった。

「わぁ、かわいい!」

 文鳥のようだ。しかし一般的に見られる色味ではなく、片方は透き通った水色に差し色で青い色が入っている。もう片方はオレンジ色で、黄色い模様が入っていた。とても綺麗な色合いに思わずかわいいと言ってしまったが、その文鳥は横たわり目を瞑っていた。死んでいるわけではないらしい。ただ傷や血も見えないのに、なにやら苦しそうだった。

「鳥さんどうしたの?病気……?」

 文鳥を持ち上げようとした。しかし、手のひらに掬いもち上げようとすると、かしゃりと金属のような音がする。文鳥の足に細い鎖が絡まり付き、その先は地面に食い込んでいるようだ。この文鳥はこの廊下に捉えられているのだ。誰がこんな酷いことを……。

「どうしよう、助けてあげたいのだけど、」

 べちゃ。

 そんな音が後ろから聞こえる。憎悪掻き立てられる濡れた音に、私は恐る恐る振り返った。

 それが視界に入るとともに、私の心の奥底は震え短い悲鳴が出た。少し離れた場所に、何かがいる。それは、異常に肥大した肌色の塊だった。人の足や腕、頭のようなものが見える。想像をするに、二つの身体をぐちゃぐちゃに混ぜたような肉塊が、そこにいた。

 それが歩き出すたびに、べちゃりという音が廊下に響く。その肉塊は至る所から血を流していた。黒い油のようなものも。四本の足が動くたび不快な音が響き、四本の腕が蠢き、二つの頭はあらぬ方向に動かし続けている。

 なんなんだ、あの化け物。

「う……ぉぇ……」

 思わずえづく。空腹がためか吐くものはない。それでも気持ち悪く、恐怖に身体が痺れた。

 音が止む。その化け物は私がえづいたことで、私の存在に気づいてしまったようだった。二つの顔がこちらを向き、白と黒に反転させた大きな目で私を見ていた。

「ひ、」

 その瞬間、その化け物はこちらに向かって走ってきた。べちゃりべちゃりと音を撒き散らして、真っ直ぐに私を狙って走り込んでくる。先ほどまでは何も持っていなかったはずなのに、体から生えた四本の腕にはそれぞれ……包丁やら鉈やらの刃物が、握られていた。

「いッ……やぁあ、ぁぁぁああ‼︎」

 逃げたい。逃げ出したい。きっと逃げれる、体は痺れているけど、足は動くはずだった。

 でも、逃げられなかった。私は咄嗟に、今私が逃げ出せばここに捕まっている二匹の文鳥があの化け物に殺されてしまうと思ったのだ。彼らはここから動けない。なら私が、私が守ってあげないと……!

 私は化け物に背を向けた。そして文鳥を守るように両手に二匹とも掬い上げて、体を丸める。守らなきゃ、守らなきゃと文鳥二匹を抱きしめると共に、私の体は悲鳴をあげた。

 背中に激痛が走る。今まで体験した痛みのどれにも覚えがない、鋭い痛み。痛いと叫ぶ間も無く、また背中に痛みが。また、また、何度も、私の背中を何度も、あの化け物が刃物を振るっているんだ。

 声にならない叫びを吐き出す。痛い、痛い、痛い。ごめんなさい、許してください、どうかお願いです、許してください。どんなに念じても、背中を突き刺す痛みが止まらない。口に血の味が溢れてくる。もう体を起こしているのも辛い。文鳥は、無事だろうか?手のひらに収まっているはずのそれを確認することもできず、意識がだんだん遠のいて、力が抜けてきて……。

「何やってるのッ!しっかりして‼︎」

 突然、私の肩を誰かが掴んだ。その怒声に目を開けると、私の顔を覗き込んでいる必死な表情の男の人がいた。

「どうして逃げないの、君は何を守っているの⁉︎早く立つんだ、でなければ死んでしまう‼︎」

 どうして逃げないの、って言われても……。

「……だって、鳥が、死んじゃう、から……」

「それは君を助けてくれたの?違うでしょう⁉︎君を助けてくれない人をどうして君が身を挺してまで守らなければいけないの⁉︎そんな顔をしてまで耐えなくていいんだ!」

 彼は私の頬を包んで、自身の目を見させた。その目には正気のない虚な表情の、私がいる。

「逃げてもいいんだよッ‼︎」


 ……いいの?


 気づけば、足を動かしていた。私がそうしたことで、彼は私の腕を掴み引っ張る。手のひらにいた二匹の文鳥は手から滑り落ち、地面に落ちた。

 私は彼に引っ張られながら、懸命に足を動かした。背中の痛みと血の味にえづきながら、必死に走る。白い廊下の先をただひたすらに走る。逃げてもいい、逃げてもいいのなら、私は……。

 途中、振り向いた。文鳥はどうなったのだろうと、走りながら首だけを振り向く。そしてわたしは、あ、と声を上げてしまった。

 化け物は鎖で繋がれているそれを手のひらに乗せていた。そして優しく撫で付けている。しかし、そこに乗っているのは文鳥なんかじゃない。……肉塊だ。化け物に劣らない、二つの肉塊。赤黒くぐちゃぐちゃに濡れたその肉塊を、愛おしそうに化け物は眺めていた。

「……なに、あれ」

 前を走る彼は振り返りもせずにつぶやいた。

「あれが、君が守ろうとしていたものだよ」



 だいぶ長い距離を走った。二人息が切れ、そのうちスピードを緩めて立ち止まる。私はしゃがみ込んで、彼は膝に手をついて呼吸を整えた。背中は相変わらず痛いのだけど、服が血に染まっているわけじゃない。どうやら痛みはあれど、傷口は一切ないようなのだ。でなければ、こんな長距離走れるはずもない。

 荒れた呼吸の中彼のその姿をまじまじと見る。そのうち視線に気付いたのか、彼は私を見て微笑みかけた。

「どうかした?」

 さっきは顔を見る余裕がなかった。だから今改めて彼がどんな容姿をしているのかわかったのだが……。

「……あなた、彼に似てるわ」

 白髪に赤眼。優しい面持ちの彼に目をやりながら、私はスマホを取り出した。ロック画面を表示して、映し出されたそのアニメキャラクターと見比べる。細部はもちろん違う、だから目の前にいるのがアニメキャラクターその本人、というわけではなさそうなのだけれど、どことなく雰囲気が似ていた。どれどれ、と彼も近寄り、スマホを覗き込む。

「僕はこんなにイケメンに見えるの?それは嬉しいな」

 そういって、さっきの黒い部屋で聞いたようにくすくすと笑う。

「……ねぇ、あなたは何者なの?名前は?」

 また笑われた。

「君はいっぺんに聞くのが癖なの?ふふ……何者、って言えるほどの立場じゃないさ。名前なんてものもないし」

「名前がないの?じゃああなたのことなんて呼べばいいの?」

 名称がないと、会話がしづらい。彼はううんと首を捻ってから目を瞑って答えた。

「それじゃあ、うーん……。スキアー、っていうのはどうかな」

 ……。

「何語?」

「さぁね」

 くすくす笑う。

「そんなことよりも、さっさとここを出よう。まだ出口は遠いんだ」

 そういって、歩き出してしまう。慌ててあとを追って、彼の横についた。

「ねぇスキアーさん、出口を知ってるの?ここがどこかも知ってる?これは私が見ている夢なの?」

 また、いっぺんに聞くなと笑っているようだ。でもそれを口に出さず、赤眼が私を見つめてくる。

「ここが夢か、という質問だったらなんとも言えないかな。ここは現実でもあり、夢でもある。君が出口を見つけることができたらここは夢だし、それができなければ現実だ」

「……わけが分からないよ」

「そのうち分かるよ、きっとね」

 何かに気づいたように彼は前を向く。どうやら廊下の突き当たりにたどり着いたらしい。少し古びた鉄の扉が見える。錆び付いて重そうだ。

「あれが出口?」

「いいや、あれは入り口だ」

 スキアーはその扉を開けた。錆び付いた音と共に、異臭が漂ってくる。腐った臭いではない、ただどこかで嗅いだことのあるような嫌な臭いだ。その部屋に足を踏み入れて確信する。白く汚れた、中身の詰まったビニール袋が山のようにある。瓶や缶が転がり、雑多な壊れた物たちがそこらへんに放置されている。ここはゴミ捨て場のようだ。

「うわぁ、なかなかに酷いね」

 頷きながらその先を進んだ。どうも、黒い部屋とおなじように正方形の部屋一面がゴミ捨て場のようで、その先にもう一つ扉が見える。そこに向かって行こうとしたのだが、扉の近くに気になるものを見つけた。

「……あ!懐かしい!」

 たくさんのゴミに埋もれるように、ピンク色のうさぎのぬいぐるみが顔を出していた。小さい時に大事にしていたぬいぐるみ。どこへ行くにも持ち歩いていたそのぬいぐるみだ。おしりの方についているタグを見ると、なんとそこには私の名前が書いてある。正真正銘、私が持っていたものらしい。

「やっぱりかわいいなぁ!すっかり汚れてるけど」

「君のぬいぐるみなのかい?」

 スキアーが覗き込んでくる。そしてうさぎの耳をつまんで小さく動かしていた。

「私の……だったんだ。友達にあげちゃったの」

 不思議そうな顔を向けてくる。

「どうして?」

「え、あれまって!あそこにあるのも……」

 ぬいぐるみがあった近くに、今度は本が落ちていた。少し分厚い、表紙が革でできている物語が書かれている本だ。その裏表紙を開けば、そこにも私の名前が書いてある。これは私が小さい時に大好きだった本だ。

 そんな物を見つけていれば、芋づる式に思い出の品が大量に出てきた。小さい時のものから、最近のものまで。私が大切にしていたものがたくさん出てきて、少しだけ嬉しくなる。どれも煤けて、汚れてしまっているけど。

「わぁ、久しぶりに見た!このお話大好きだし、これも大事にしてたんだよね」

 しゃがみこんで思い出の品々をまじまじと見ていると、スキアーが隣に座り込んできた。その顔は先ほどと違って、訝しげだ。

「大好きで大事にしていたのに、どうして懐かしがっているの?」

「あぁ、これね、全部友達にあげちゃったの」

 幼い頃から近所にいた友人。高校も同じで、今でも仲良くしている。彼女の家は貧乏だったようで、私が持っていたものを羨ましがった。祖父がよく私にいろんなものを与えてくれていたので、欲しいならあげると手渡していたのだ。

「……どうしてあげちゃったの」

「だって、欲しいって言うから。それに喜んでくれるし」

「じゃあどうしてこんなところに捨てられてるの」

 最初は言っている意味がわからなかった。

「どういうこと?」

「友達は欲しいっていったからあげたんだよね?じゃあなんでゴミ捨て場に捨てられているんだって言ってるんだ」

 ゴミ捨て場にあるというからには、必要がなくなったからここに置かれているのであって。

「君、自分が大事にしていたものを泣く泣くあげたんだよね?その子が欲しかったのは物じゃなくて、」

 スキアーは急に後ろを振り向いた。私もつられて後ろを振り向く。そこには…子供がいた。ワンピースを着た、おさげの女の子。……その友達の昔の姿に、よく似ていた。

「ねぇ、ちょうだい」

 女の子は言う。

「それちょうだい」

 女の子は私を指差す。私の左胸を、指差している。

「それ欲しいの。ちょうだい、ねぇ」

 何を言っているの、この子は。私はどくどくと響く鼓動を押さえつけるように、心臓に手を当てた。

「……無理、あげられない」

「なんで?いつもちょうだいっていったらくれたじゃん。頂戴よ、ねぇ」

 言いながら、女の子の声が低くなる。段々と大人の声色に変わる。そしてその声を毎日のように聞かされていることを思い出す。耳にこびりつくその声が、勝手に再生される。


『そのペン頂戴?かわいいから』

『ねぇお金頂戴?今月ピンチなの』


『あなたの彼氏、頂戴よ。あなたには似合わないから』


「ッ、ぅ……あぁ……」

 奪われ続けた物が再生される。同時に思い出される友人の笑顔は、これでもかというほど嬉しそうだった。あぁ、喜んでくれるならあげるわ。小さい時からそうしてきたのだから、そうよね、今更あげないと言うのも変な話だわ。私の心臓が欲しいの?あげたら喜んでくれる?わかった、じゃああなたに、

「何やってんだよバカ……!」

 スキアーは私の耳を塞いだ。そのまま向こうの扉に向かって走り出す。頭を掴まれているものだから、一緒になって私も走り出してしまった。扉を開けて、投げ出されるように向こうの部屋に転がり込む。勢いよく扉を閉めて、また私を向かせるように両頬を包まれていた。

「分かっただろ⁉︎あの子が欲しかったのは、君のその嘆く表情だ!君が大切にしていたものを奪いたかっただけだ!物自体には興味がないんだよ、それでも君は渡し続けるの⁉︎」

 すごい剣幕に、目の前が霞んだ。涙が溢れて、声が震える。

「でも、あの子、欲しいって」

「君があの子に与える利益はどこにあるの?君はあの子からなにか与えられたの⁉︎君は奪われて嬉しかった⁉︎違うでしょう‼︎」

 涙が溢れる。あの子に渡し続けたものを思い返す。大切だったその全てが私の手から離れて行った時のあの子の顔を思い返す。とても、笑っていた……。

「……ほんとは、嫌だった」

「ならもうあげなくていい!自分の物だと言わなきゃ!奪われそうになったら逃げていいんだ!君が大切にしているものは、自分にしか守れないんだから!」

 扉が叩かれる。くぐもった声で、頂戴と叫ぶ声が聞こえる。その取手が回った。

「逃げるよ!」

 彼は私の腕を掴む。私の足も動いた。後ろの声に背を向けて、走り出した。


「本当は気づいていたでしょう?君が守ろうとしているものは、君を殺そうとしていたって」

 あの醜い化け物は、きっとあの二人なのだろう。

「君の友人とやらの心だって、君は分かっていたはずなんだ。でも知らないふりをした」

 大切な物を踏み躙ってまで渡していたのは、きっと嫌われたくなかったからだ。

「君の心は誰かのためにあるわけじゃない。気づけたのなら、きっと戻れるよ」

 真っ白な世界、走った先、光が見えた。足を止めて顔を見合わせる。

「自分のために生きて。だから、」

 両肩を押される。光に落ちる。彼に手を伸ばしたけれど、

「死なないで」

 そう言って、彼は笑うだけだった。



「え?」

 目の前に、紐が見える。上から伸びる、輪になった紐。

 足がすくんで尻餅をついた。私は今、何をしようとしていた?

 そこは私の部屋だった。私の部屋のクローゼットで、ただぼやっと立ち尽くしていたようだ。……クローゼットで、首を吊ろうとしていた?

 ……あぁ、全てが嫌になって、終わらせようとしていたのね。

 身を切る親の虐待も、あの子からのいじめも。

 でも……。

「……死んでたまるか」

 そう呟けば、彼が笑ったような気がした。

 

 彼はなんだったのだろう。私の意識は自分を追い詰めていたものに侵食されていたはずだった。それ故に、こんな紐なんか用意したのだから。

 私の心の中で、唯一私を生かそうとしたその人。

 逃げてもいい。耐えなくていい。誰かの言いなりになるくらいなら、そんな偽物の友情捨ててしまってもいい。

 それが出来る強さを、気づかせてくれたあの人。


 ……そもそも、『スキアー』ってなんなのよ。

 気づけば私はスマホを取り出して、その言葉を検索していた。

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