勇者、逃走との闘争

空想師多朗

勇者、逃走との闘争

 そして俺は声の限り叫んだ。

「おい待て! 逃げるんじゃねえ!」


 かの有名なカプトゥラの大予言にその者ありと記され、畏れ多くもグワスペルの大王ルドラに勇者の二つ名を冠された俺だが、本当に欲しいものはこの手から零れ、するりと逃げてしまうさだめにある。

 手の甲に忌み痣を持って生まれた俺の人生は、養育の責務から逃げ出した親によって山奥に捨てられたところから始まった。この歳まで生きられたのは、奇特で優しい一人の魔物が俺を拾って育てたからだった。

 しかし、奇特で優しかったがゆえにその魔物は別の魔物にだまし討ちをされた。

「魔の者に育てられし男が、魔を統べる王を討ち果たすだろう」

 復讐を果たした俺が、肉塊となる寸前の魔物から聞かされたのは、ふざけた預言書に書き加えられた余計な一節だった。

 大切な者に恩を返す機会を永遠に逃してしまった俺は、代わりにその卑劣な魔物を全て滅ぼすべく旅にでた。

 力を蓄え、蔓延る魔物を倒し、いつしか名の売れた俺を、カプトゥラの大戯言を信じた愚か者は勇者と呼ぶようになった。

 大昔の死者が遺した戯言と、それが記された石書を所持する自分には権威があるのだということをなんとしても吹聴したいらしいその男は、大予言を成就するためならあらゆる手を尽くそうと言った。

 だが実際には、我が国大事なこのケチ王はろくな路銀もよこさず、さしたる物資も出さなかった。

 睨め付けられて、ようやく差し出してきたまともな品には、グワスペルに代々伝わる名誉ある宝剣ルドランダルと名がついていたが、その実態は、見せびらかす度に研がれてはチビっていった、使い古しのお飾り剣でしかなかった。

 しかし何より足りなかったのが人的支援だ。

 魔王討伐にあたって戦力を求めた俺に大王がもたらしたのはたったの一小隊。それも二十二人というごく小規模なものだった。

 しかも「魔王討伐を目標とするからには荒事に強い者を集めた方が良かろう」と意味の分からない言葉と共に与えられたそいつらは、あらゆる罪で牢にぶち込まれていた、質の悪い荒くれ者どもだった。

 二人ばかり王宮騎士の人間はついたが、聞けば彼らの元の配属は牢番であり、要するにルドラは、切り取った牢獄の一部で魔物の王を打ち倒せと言ったようなものだった。

 それでも戦力となれば儲けものだった。だが所詮は人間相手に暴れて捕えられた程度の者どもであり、野を往く魔獣に相対するほどの力量はもたず、知能だけはそれに匹敵していた。

 しかも、役に立たないだけならまだマシで、奴らは野にあれば畑を荒らし、町にあれば人波を荒らすのだ。

 極めつけに、それらは勇者の立て札を盾に町人の家に押し入り壺や棚に秘した財物を巻き上げようとしたので、その二つの鍵束だけはグワスペルの方へと投げ返し、王より賜りし牢獄にはガルガウスの森をその置き場にさせてもらうことにした。

 勇者としての魔王討伐の旅は、そうして出端をくじかれるところからはじまった。

 いっそ一人で魔王の喉元を目指そうかとも思ったが、クソ王ルドラに勇者と呼ばれることがこんなにも不服なことだと知るに至るまでの旅程を一人でこなした俺でも、ガルガウスの森に棲む獅面蛇尾を複数相手にするのは骨が折れる。その先に進むには、どうしても自分と同等の実力者が五人は必要だった。

 だが、どうにも仲間集めははかどらなかった。

 そもそも、クソ王と会うまで身一つであったのは望んでいたことではなく、ただ募れども募れども仲間が得られなかったからだ。

 魔物の元で育った俺にはどうにも人間的感情の機微が分からないようで、義を尽くして振る舞っているつもりなのに、どうにも関わる者からは煙たがられてしまう。

 しかも、魔物に育てられたという身の上は、見る者に俺の印象をいっそう胡乱なものにするらしく、カプチェフの眠れる瞳に魅入られた長耳族どもも、紫薔薇棘に抱かれしクロウェル城のボンクラ共も、アレだけ深く首を垂れていたにもかかわらず、俺の目線から逃げるように顔をそむけるのだった。

 ときたま俺の要望を素直に聞き入れてくれる貴族や商人もいないではなかったが、いずれも腹に一物で、グワスペルの馬鹿王よろしく、つまはじき者の厄介払いに利用されるばかりだった。

 それでも、馬鹿王から賜ったバカには見えない勇者の冠が利いたのか、北方連山を抜けるまでに、どうにか三人の仲間をかき集めることができた。

 剣を伴う摩訶不思議な舞踊により、ときに魔を斬り、ときに友を癒やす「舞闘士セルフィ」

 豊富な神術薬学の知識と強靱な肉体で、来るものは獣でも呪いでも祓う「賢術司ダイコウ」

 そして、今俺の目の前で、魔物の中でも最下級に分類される青小鬼に恐れをなして逃げていった「魔導師シック」の三人だ。


「おい、あんなのから逃げるんじゃねえつってんだろうが!」

「だって……青いし、ゴツゴツしてるじゃないですか!」

 全くもって意味不明の理由で逃げ出したこの男、魔導師シックはバルザダ寺院で捕まえた優秀な魔導師だ。

 ガジャラダ目録に記載されるような魔術のほとんどは使いこなすことが出来、いくつかの禁呪の解法を見いだしたこの男は、しかし恐ろしいまでの臆病者だった。

 野を歩くにもセルフィとダイコウとで作った三角陣の中心においてやらなければ進みたがらないし、洞穴に入るには説得に一日かかる。魔物に行き遭えばまず逃げだそうとするので、敵を見たら戦いの準備をするよりも先にこの男をなだめることからはじめなければならなかった。

 この男が使える魔術を以てすれば岩石傀儡さえ一撃で粉塵にすることも可能なのだが、青小鬼をも恐れる脆弱な精神がその実力をなかなか発揮させなかった。

 なんでもこの男は幼児の頃から魔術への関心が高い偏執狂だったようで、生まれてからこのかた二十数年、かの有名なバルザダ石書室にこもりきりだったらしい。

 外界はおろか部屋の外へもろくにでることはなく、俺に声を掛けられるまで実戦の経験は皆無だったのでは、魔物を恐れるのも分かる。

 がしかしそれにしても自身の腰丈にも満たない青小鬼に怯えるのは度が過ぎる。

「あの程度、お前なら火炎柱でも氷雨でも簡単に倒せるだろうが!」

「その叫び声を聞いて青鬼大移動がかえってきたらどうするんですか!」

「遙か彼方に去った後だって聞いたばかりだろうが! 戻らないと殺すぞ!」

「ひいい! 勇者さんに殺される!」

「待て! 分かったから待て!」

 青鬼族は低知性の魔物としては珍しく大規模な群れで渡りを行う。集団でこそ驚異となる青鬼族が単独でうろついている場合は高い確率でその群れからのはぐれであり、はっきり言ってとるにたらない。

 ダイコウからそのように説明された直後なのだが、一度臆病風に吹かれたシックの目と足は落ち着きを取り戻すまでは決して戦場に向かわないのだ。

 この北方連山を越えるためにガルガウスの森を通った際には、四腕金猿に恐れを成して止める間もなく逃げ去ってしまい、青い顔をしてギザン山の洞穴前でうろうろしているところを発見するまでには満月が糸月になるほどの時間を要した。

 発見時、周囲には爆裂魔法とおぼしきものにより六肢のちぎれ飛んだ四腕金猿のおびただしい数の死骸が転がっていたが、本人にはその記憶がないらしかった。

「もういい、ダイコウ! 気付けの一発をくらわせろ!」

「了解した」

 俺の後ろについて指示を待っていたダイコウが大地を蹴り、猪人ほどの巨躯を空中へ飛び上がらせた。それから宙でくるりと一回転すると、どういった人体構造をしているのか、頭を含めた全身を巨大な肉団子のように丸めて着地し、その勢いのままシックめがけて転がり始めた。

「うわあ! こないでくれえ!」

 あの体勢でなぜそうなるのかは分からないが、ダイコウは走るよりも速く、叫ぶシックへと転がって迫り、そのまま棒弾き遊びのピンの如くシックを弾き飛ばした。

 足下を掬われ、空中へ投げ出されたシックは、二,三回ほど回転すると顔面から地面へと落ちた。青小鬼を相手にするよりもダメージが大きくなったが、二十数年のあいだ石書を抱えていた肉体は伊達ではなく、数分もすれば回復するだろうと思われた。

「すまない、助かったダイコウ」

「なに、いつものことだ」

 嘆息して、ぐにゃりと人型に戻った肉団子に礼を言うと、俺ははっとして後方を振り返った。喫緊の問題であったシックの静止にかまけてほったらかしだったセルフィの姿が見えなかったからだ。

「よかった、ついてきてくれていたかセルフィ」

「もう、勇者様はすぐシックにかかりきりになるんだから」

「すまない。緊急時だった」

 幸いセルフィもはぐれてはおらず、走り終えて一息ついていたところだった。見たところ特に変調もなく、まだ気にするほどのことはなさそうだ。

 このパーティにおいて最も気にしなければならないのは、一も二もなくシックの逃走を防ぐことだ。

 この気の弱さではあるが、シックは大事な戦力である。それに魔王の居城も近いこんなところで一人放置しておく訳にもいかないので、シックが逃げ出してしまった時点でもうパーティは崩壊していると考えていい。

 厄介なことに、シックの気弱は筋金入りで、励まそうと脅そうと魔物に立ち向かう勇気を奮わせることはできない。敵を前にした時点で奴の気力はゼロになるので、ひたすら奴の前に立ち塞がり、敵を倒してみせ、少しでもMPメンタルポイントを回復させてやらないと敵に向き合いさえしない。

 ただ、最近は多少扱いにも慣れ、どのようにすれば自発的に行動させることができるかが分かってきた。

 もっとも手っ取り早いのは酒を投与することだ。

 酒が入ればいくぶんか気分が和らぐのか、多少のことでは逃げだそうとしなくなる。

 注意が必要なのは、シックは酒を身体に入れても気が大きくなるタチではなく、気分の波が激しくなくなるだけなので、気をつけてやらないとやはり逃げ出す可能性があることだ。

 その上シックは酒に強くもなければ好きでもないので、酒をそのまま飲んでくれる確率は半々であり、飲ませ続けるとそのままぶっ倒れる。

 それを解消するために、ダイコウが編み出したのが興奮薬だ。

 これは、すりつぶした植物や煎った生き肝などを漬け込んだ蒸留酒を様々な木の実を蒸して潰したものに練り込み乾燥させたもので、酒の味をごまかしつつ、安定して気分を高揚させる効果を持っている。

 これのいいところは、丸薬の形をしているおかげで効果の高さと持続時間が分かりやすくなるところで、これによってどのくらいシックの逃げ癖に気を揉まずに済むかが計算できるところだ。

 問題は必要な材料が稀少かつ酒に漬ける必要がある関係で精製に時間がかかることで、そのせいであまり大量には作っておくことができない。

 そこから酒を抜いていくつかの材料を香辛料で代用したものもあるにはあるが、味が悪い、というかやたらと辛いために、シックが食うのを嫌がるし、体調によっては腹痛に襲われて戦闘不能になることもあった。

 俺も試しに一粒食べてみたが、ケツがブランバンダンの別れ滝の様になったので、流石に可哀想になって以降はよほどの事がない限りは無理強いをしないことにした。

 あとは、寺院での長い自己軟禁生活によって生じた女体に対しての強い関心と低い耐性を利用して情欲を刺激してやれば、しばらくの間は恐怖心を忘れる程度には冷静さを失ってくれることが分かっている。

 ギザン山で見つけた温泉に浸かるセルフィについての話を聞かせてやった時などは、珍しく魔術についての講義をする時ほどに早口になっていた。

「すまないついでに、シックが目を覚ましたら、その……また『元気づけて』やってくれるか?」

 この時、俺は久しぶりに逃げ出したシックを捕まえたことに安堵したことで、すっかり油断していた。シックには目を覚ましたあとに興奮薬をのませれば良かったのに、ついそれをケチって完全な失言をしてしまった。

 失言に気付いたのはかすかに微笑んでいたセルフィの目が開かれ口が結ばれた瞬間だった。

「まだ……シックに気を使わないと、いけない?」

 血の気が引き、思わず息を呑みそうになったのをやっとのことで堪えた。そんなことをすればセルフィが次に何を言い出すのかはわかりきっていた。

「あ、いや。すまない。そうだったな。よく頑張ってくれている、お前は。誰よりも」

「振り返りもしなかったのに?」

 返す言葉は、見つからない。

 シックほどではないが、セルフィも俺の元に集まるだけあって大概な問題児だ。

 セルフィはガルガウスの森をどのように進むか思案していた頃に出会った、最初に定着した仲間だ。彼女はこちらが求めて得られた仲間ではなく、向こうが仲間となるためにわざわざ俺の足跡を辿って旅をしてくれたらしい。

 彼女は天候すら操る祈祷舞踊を得意とするどこかの遊牧民の出だそうで、魔物の台頭と戦争によって立ちゆかなくなった遊牧生活を取り戻すために、力を貸してくれる人間を求めていたようだった。

 魔王に平穏を奪われたことへの共感と、単純に求められたことへの歓びではじめは彼女のことを快く受け入れた。戦力としても申し分ない。

 事情が変わってきたのは、バルザダ寺院にいるらしい優秀な魔導師とやらを求めてグワスペル東のブランバンダン渓谷にさしかかったところでダイコウと出会った頃だ。

 ダイコウの腹の虫に付き合わされてくたくたになったある日、彼女は突然俺にこういった。

「惚れちゃったの」

 はじめはなんのことか分からなかったが、それ以降戦闘中にもべたべたとひっついてくるようになり、ダイコウの相手をし続けていると著しく機嫌悪くなるようになり、それで性愛的に惚れたのだと理解した。

 惚れるのは、まあ構わない。

 機嫌に波があるのも、許せる。

 だが彼女の勝手な不機嫌が頂点に達したら、拗ねたままどこかへ消えるとなると話が違った。

 シックとは違い、逃げる上に見つからないというほど離れていってしまう訳ではないが、一度拗ねると機嫌を取り戻すまでは何をしでかすかが読めず、見ているだけならまだマシで、気を引く為なのか妨害行動までやりだす始末だった。

 一番最悪だったのはギザン山でへそを曲げた時で、いつの間にかいなくなったと思ったらつんざくような咆吼が聞こえ、見に行くとセルフィは巣で眠っていた多頭毒龍をチクチクと突いて目覚めさせているところだった。この時は流石に毒龍ではなくお前を殺してやろうか、と思わずにはいられなかった。

 彼女が俺の気を引こうとどこかへ消えるのを防ぐには、もうひたすら彼女の機嫌をとり続けるしかない。

 彼女がおしゃべりをしようと言い出せばそうしてやり、手を繋いで欲しいといえば繋ぐ。野営の時も常に彼女の隣にいてやり、彼女が干し肉を差し出したらひな鳥のように口を開けて待たなければならない。

 少しでも機嫌が悪くなりだしたらモール・メイナの大冒険にあるような甘く浮ついた言葉をささやいて抱きしめる。例えそれが獅面蛇尾に囲まれている時でもだ。

 そうしなければ、俺たちは戦力を一人失った上に、覚醒狂化の舞でより強く凶暴になった獅面蛇尾を相手にしなくてはならなくなる。

 多頭毒龍を相手にするのが一体だけで済んだのは、偶然にもその足下に温泉を見つけた彼女が俺と湯浴みをすることを思いついた僥倖があったおかげだ。その際に俺が何をしなければならなかったについては、語る必要がないだろう。

「それは、君ならば振り返らずとも僕を見失う筈がないと信じているからさ」

 頭の中で知る限りの恋物語を索引し、それらしい言葉を投げかけるとともに俺はセルフィを抱きしめた。

「本当?」

「本当だとも」

「嘘。勇者様は私を見るまえにため息をついていたわ。それまで忘れていたでしょう」

 そうなのか?

 自覚はないが、俺の挙動に関して彼女より詳しいものはこの場にはいない。真実でないとしても、逆らって得することはない。

「そう、だったか。シックは、手のかかる、弟のようなものなんだ。許してくれ」

 これが弟だったら三回は殺しているだろう。

「じゃあ私は?」

 顔を上げてぴしゃりと言われて、俺は再び言葉に詰まらざるを得なかった。

 つい適当な言い訳として家族の話題をあげてしまったが、この言い方ではセルフィを何に例えたとしても自分との関係性を家族以下の存在であると曲解するだろう。そのくらいの論理飛躍を何度くらったかわからない。

 くそ、この上は仕方ない。

 俺は彼女の肩を掴んで引き剥がすと有無を言わせずその唇を奪った。

 とっさに目を瞑ったので彼女の様子は分からない。ただ、抵抗はしなかったので、息の続くかぎりそうしてからゆっくりと唇を離した。

「で、これは?」

 だが接吻の策はあまり成功しなかった。目を開いて飛び込んできた彼女の表情には、まだこちらの虚構の愛情を訝しむ色が見える。

 この場面で、いましがたした接吻について触れてはいけないのは経験則上分かっている。男女の間に何よりも大事なのは雰囲気なのだとは彼女の言で、これを破るとHPヒステリーポイントが回復する見込みは絶望的になる。

「き、君が一番大事なのだと、証明したのさ」

 心にもないことをほざきつつ、間髪いれずに俺は懐から小箱を取り出した。セルフィの怪訝な目線がようやく俺の顔から離れた。

「それは?」

「僕のくもりなき気持ちの証明さ」

 俺はひざまずき、小箱を開けて中に入っていた指輪を彼女の眼前に掲げた。セルフィの癪を防ぐ最後の手段、贈り物でごまかす策だ。

「それって、月涙石!?」

 月涙石とは緑掘鬼の棲むような洞窟で見つかる珍しい鉱石で、日中は薄く透き通った白色だが月の光を当てると月の色そのものになるという特徴がある。詳しくは知らないが、月が太陽を思って流した涙とかどこぞの王様が死んだ王妃に捧げたとかいう逸話があるらしい。

 まあ仔細はどうでもいいが愛情を証明する宝石として貴族が見せびらかすことがあるそうで、こういった時のごまかしに用いるにはちょうどいい鉱石だった。

「もしかして、私のために、作ってくれたの?」

「そうさ。他ならぬ君のためだ」

 嘘では無い。より詳しく言えば、セルフィが暴走しないため、だが。

 箱から指輪をつまみあげたセルフィはおもむろにそれを薬指に付けた。ほうと眺める、その目の色が月涙石の如く変わった。

 セルフィはしばらくの間そのまま鉱石を眺め続けた。火にも剣にもならない石を眺めて何が面白いのかは知らないが、どうやら贈り物の策が功を奏したのは確信してよいようだった。

「勇者様、ありがとう! うれしい!」

 セルフィはひとしきりの角度で月涙石の色形を確かめると、それから飛びつくようにして俺を抱きしめてきた。窮地に次ぐ窮地を脱するには脱したが、ルドランダルの柄からもぎ取った光る鉱石はそう多くなく、貴重な贈答品を一つ失ったのは少々痛手である。もぞもぞと身体を擦り付けるセルフィに、俺は色々な意味でため息をついた。

 それと同時に大きく腹の虫が鳴いた。長い山林を抜けて開けた土地に出たところで一息つこうかという矢先の騒動だったので、長らく食事を取りそこねていたことを俺は思い出した。

「もう、良い雰囲気なんだから邪魔しないでよダイコウ」

 だがその腹の虫は俺のものではないことに気付き、俺は覚え始めた空腹に苦虫を噛みつぶした。俺が空腹を感じるほどなのだ。巨大な図体を誇る男はそれ以上に腹を減らしているに違いなかったからだ。

「勇者よ、今は何時だろうか」

 腹の虫とともにダイコウは迂遠な抗議を口にした。その目はすでに据わっている。

「待て。お前、預けておいた干し芋はどうした」

「ない。そろそろ牛の目覚め時ではないだろうか」

「イジャラの筒漬けも渡しておいた筈だが」

「ない。ということは、農夫も願うではなく麦を口にするころではないか」

「その麦でできたパンもかなり持たせていた筈だが……」

「ない。要するに、飯を食うべき時間ではないかという問いに答えてはもらえぬだろうか」

「待て! 分かった、すぐ食料を探す!」

 与えておいた食料がすでに尽きていたことを知り、俺は冷える肝をひっくりかえしてそう叫んだ。

 三人の中で、ダイコウは比較的まともな方である。俺の気が回らない時はシックをなだめてくれるし、セルフィの機嫌が悪くなった際には邪魔が入らないように気を使ってくれる。知識人かつ経験豊富で、戦いの場でもあらゆる状況に対応することが出来る。

 ただ、この男はその巨体ゆえか肉体を維持するために必要な食料があまりにも多すぎた。

 歩けばMPマンプクポイントが減り、戦えばHPハラモチポイントが削れる。

 起きているかぎり食料を求める丸々と膨れた腹を抱えたこの男は、常に食べ物を口にしていないと気が済まないクソデブ野郎なのだ。

その上、ダイコウは空腹が極限に達すると怒れる猪人と化し、食料を探して徘徊し暴れ回ることになる。それは比喩ではなく、本当に起きることだ。

 ブランバンダン渓谷でダイコウと出会った時、俺は巨大な猪人と出くわしたのだと思った。

 戦闘中にも妙な目線をこちらに向けてぼんやりするようになってきたセルフィをかばいながらどうにか昏倒させた猪人にとどめを刺そうとすると、体表の毛が消え失せはじめ、気付けばそこには一匹の裸のデブが転がっていた。

 しばらくして目を覚ましたその汚い中年の肉塊に、あるだけの食料と布を与えて話を聞くと、どうやらこの男は魔物に呪いをかけられたために、常に空腹を満たし続けなければ、猪人となって、それこそ腹の虫が治まるまで暴れ回ることになるそうだった。

 普段は理知的な人物ではあるのであまり気を揉まずにすむのだが、ひとたび空腹を訴え始めるともうテコでも動かず、限度を超えたら野に放たれた猪人となって食えるものを探しはじめる。俺たちが渓谷で出会ったのは、最後の理性で人里を離れたからだった。

 この男に関しては対策もなにもなく、ただ食料を用意しておけばいい。だが、問題はその量だった。

 体積が俺ら三人を合わせたそれよりも多いこの男が日に食う食料は、三人が食うそれの更に三倍である。しかもそれは、運動量に比例して増えるので、戦いが激しくなるほどに必要量が増えていく。請われるままにこの男を仲間にして以降、俺は常に食料問題に頭を悩ませることとなった。

 通常の食料調達法ではとうていこの男の食費をまかない切れないので、俺は禁忌に触れる決断を迫られることになった。要するに何かというと、その姿形にかかわらず、倒した魔物を食料としてデブに食わせることだった。

 俺にとって大事な魔物などもういないので、それがどうなろうと構わないのだが、魔物の中にはやはり人の形に近い者もいる。それを食料として与えるのは、さすがに見るに堪えないものがあった。

 いっそコイツもガルガウスの森に捨て置くかと考えた時もあったが、食うこと以外に関しては善良であり、何よりコイツがいなければ興奮薬も作れないし、セルフィが拗ねてしまった場合は実質戦える者が一人もいなくなるので、維持費のかかるお守りとでも思って諦めるしかなかった。それに、猪人なったコイツを森に放った場合、多分食い尽くされるのは森の方だろう。知ったことではないが。

「いいか、まだ耐えろよ、さっき見逃した青小鬼がその辺にいるはずだ!」

「ない。既に時は来ている。腹時計は狩人が嘆く時を告げている」

 腹の虫ともに答えたこの猪が、理性との戦いを放棄して逃げ出す前に、俺は食料を与えなければならなかった。

「ええ。勇者様、せっかくこんなものをくれたんだから、ダイコウなんて無視してもっと一緒に居ましょうよ」

「そんなことしてられるか! あ、いや、今ではないという意味で、しないということではなくだな……」

 ダイコウにかまけている間に拗ねて、俺に後を追わせるためだけに、セルフィが逃げ出さないようそちらにも気を配らなければならなかった。

「ん……あれ、ここは」

「お前はまだ目をさますな!」

 誰よりも先に逃げ出してしまうシックが、魔物を見つける前に恐ろしい現実に気付いて逃げ出す前に、カタをつけねばならなかった。

 なぜ、俺の回りにはまともな人間が集まらないのだろうか。

 なぜ、必要なものは全て俺の元から逃げ去ってしまうのだろうか。

 まろび出た平地の先には、その余裕を示すかのように守るものもない丘の上に鎮座する魔王の居城が見えている。

 だが、来た道を戻る俺から魔王城は逃げるように遠のき、必要な仲間が散り散りに逃げてしまうまで一刻の猶予も無い。

 俺の本当の敵は、魔物ではない。

 何もかもが俺から逃げていく、このさだめそのものだ。

 だが俺はこの戦いに必ず勝ち、悲願を成就してみせる。

 もう二度と機会は逃さない。

 あの日からその決意を宿した俺の目が木陰に隠れる青小鬼を捕えた。


 そして俺は声の限り叫んだ。

「おい待て! 逃げるんじゃねえ!」

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勇者、逃走との闘争 空想師多朗 @aiueohitorimi

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