対決 その4

 「フフフフフ、ハハハハハ、坊主はただ者ではないようだな。名を訊いておこう」地の底から響くような低い声がした。

 素空は結界の中に残った最後の悪霊、夜蜘蛛やぐも仙輔せんすけが笑っているのではないと直感した。夜蜘蛛の仙輔は木偶人形でくにんぎょうのように無表情で突っ立っていた。夜蜘蛛の仙輔の背後にできた暗闇が鬼の正体であることは間違いなかったが、その鬼は何故戦う前に夜蜘蛛の仙輔から離脱したのだろうかと素空は考えた。いきなり素空と戦うには危険が大きいのに、敢えて本体を現すのはよほど力に自信があったのだろう。素空は暗闇の中にいる鬼はこれまで出会ったことがないほど強大な力を持っていると結論した。

 「お前は何者か?結界の中では逃げ場などないことは知っていよう!今日がおのれの最期と知れ!」素空は鋭く言い放つと、夜蜘蛛の仙輔に調伏術を施した。しかし、木偶人形と化した夜蜘蛛の仙輔には、調伏術が全く効かなかった。

 素空は暗闇に向かって数珠を翳し、調伏術を施した。しかし、こちらも空しく空を切ったばかりで、暗闇には何の変化も表れなかった。

 暗闇は、夜蜘蛛の仙輔の背後からだんだんと大きく膨らんで、素空の前に巨大な暗闇となって立ちはだかった。

 「お前がただの坊主でないことは分かったが、今日でこの世と別れ、俺の手先となるのだ。それくらいの法力では俺を倒すことはできないのだ」

 暗闇が発した言葉は、素空の心に直接入り込み、素空は強大な力を持った鬼の存在に驚きながらも、凛とした眼差しで暗闇の全貌を見定めようとしていた。

 素空が鬼の名を訊いた。鬼はじらすようにせせら笑いながら、素空を翻弄するような言葉を投げ掛けた。

 素空は次第に鬼の姿を見定め、言葉の奥に潜む鬼の真意を推しはかった。やがて、鬼の心に入り込むと、鬼の名を引き出してしまった。

 鬼の名は邪界鬼じゃかいきと言い、鬼の中では極めて強力で、梵亡鬼のような大鬼よりも更に邪悪だった。鬼の世界は上下の関係で成立し、力に応じて階級が分かれるのだった。有象無象の小鬼は名もなく、邪悪なだけの最も下劣な地位だった。その上には、名はないが術や呪文を使う者共がいた。さらに上には、ようの名を持つ鬼どもで、地伏妖や、巖手妖などがいた。地伏妖とは1匹の名ではなく、場所を変えて存在する複数の鬼の名で、巖手妖と言う名を持つ鬼もまた、何匹も存在するのだった。そして、と言う名を持つ鬼は更に強力だったが、その中でも階級が定められていた。しかし、それ等さえ凌駕する大鬼が存在したが、素空はまだ出会っていない最悪の鬼だった。

 「よいか坊主!俺の名を読み取っても、俺に敵うことなどできはしないのだ!」

 鬼は狼狽したことを隠すようにすぐさま言葉を発し、素空の注意を誘った。

 その時、ドーンと言う衝撃と共に素空は地に打ち付けられ、思わず意識が遠のいた。倒れた素空の頭もとに何者かが歩み寄り、せせら笑いながら邪界鬼に語り掛けていた。「邪界鬼様、とどめを差してもよろしいでしょうか?」素空を倒した何者かの声が邪悪に響いたが、邪界鬼は制して言った。「仙輔よ早まるな!止めは俺が差すのだ。この世ではありえないような痛みの中で死に、地獄の果てまで俺が連れて行って、来る日も来る日もそれ以上の苦しみを与え続けるのだ。見ているが良い」

 素空の耳に底知れない邪悪な声が聞こえた時、素空は心の中で経を唱えながら瞑想の中に入って行った。

 「さあ、仙輔よく見ているがよい」邪界鬼は言うや否や右手を高く上げ、そのまま素空の背中に突き落とした。

 素空はうつぶせで地面に倒れていたが、邪界鬼の右手が背中に突き刺さる前に向き直り、その手を掴むとギュッと握り潰した。ギャーッと声を上げて邪界鬼が飛び退いた時、右腕の先には手の平や指が付いていなかった。黒い闇は手先を握り潰した者の正体を見定めようと、素空を覗き込んだ。その時、素空の姿は不動明王ふどうみょうおうの怒りの姿に変わっていた。

 「お前は坊主なのか?」邪界鬼は不思議そうに尋ねた。

 《私は大日如来の遣いとして天上より下り、お前を消滅させるために、素空の身を借りて現れた。この時が魂の最期と知れ》

 「不動明王?」邪界鬼は驚愕し、恐怖に震える声でそう言った。それが邪界鬼の最期の言葉になった。結界の中に1つ取り残された夜蜘蛛の仙輔は、不動明王に見据えられ身動き取れないまま消滅させられた。不動明王は、鬼と鬼の手先を簡単に消滅させると、素空の体から離れて天上に戻って行った。

 素空は今起こったことをすべて記憶していた。自分の力を越えた崇高な力が漲った感覚を体験し、仏と一体になったことを実感した。

 やがて、素空の体は凄まじい緊張から解放された虚脱感の中で、意識が遠のきその場に倒れた。素空が張った結界は、鬼達の消滅の後消え失せ、その中に栄雪が入って素空を介抱した。

 栄雪は、素空が成し遂げたすべてのことを見届けていた。何時の間にか強大な法力を持った素空に改めて畏敬の念を抱いた。それは、虚空直伝の玄術と陰陽道をすぐさま会得した素空の仏性の高さに近寄り難いものを感じた時と同じ思いだった。

 栄雪は、不動明王の姿に変わった素空をの当たりにして、天空に戻る姿を仰ぎ見ながら倒れ込んだ素空を介抱した。

 素空の体は紛れもなく人だったが、さっきまでの姿は不動明王だったことが不思議な思いだった。

 栄雪には、素空の身に起こった変身が素空の弛まぬ精進の賜物だと言うことを分かってはいたが、何故そうなることができたのかどうしても理解できなかった。

 ただ、人が生きる上で付きまとう小さな罪ばかりか、どんなに小さな罪の種さえない者だけが仏と一体になれると言うことだけを理解していた。栄雪は、素空を介抱しながらあれやこれや考えた。『素空様が時折見せる悪への怒りは罪の種ではないのなら、憤りや嘆きを秘めた怒りはどうなのだろうか?』明らかに身勝手や、憎しみからの怒りはともかくとして、人の心に自然に沸き起こる怒りは、罪の種とならないのか?暫らく考えているうちに、素空の力が元に戻り立ち上がることができた。

 「栄雪様、私は気を失っていたのでしょうか?不動明王が私の体から離れるまでは記憶しているのですが、その後のことを憶えません。ご介抱下さりありがとうございました」素空は身を起こしながらそう言った。

 「素空様、不動明王の姿を借りて怒りを表した時、それはご自身のお気持ちでしたか?それとも、不動明王のお言葉でしたか?」栄雪は今しがたの光景を思い出しながら尋ねた。

 「すべて私の思いであり、不動明王の思いでした。私の体に不思議な力が宿り、不動明王に化身したことも、どのように動き、どのような言葉を発するかもすべて承知していました」

 栄雪は、素空の言葉ですべてを悟った。素空の身は仏道の極みにあり、法力の極致を表したのだった。

 明くる朝、素空と破魔ガラスを肩に乗せた栄雪が、中山道なかせんどう関ヶ原せきがはらを目指して歩みを進めていた。陽は天上に輝き、極めて快晴だった。   仏師素空諸国行脚編 上巻 終わり

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仏師素空 諸国行脚編(上) 晴海 芳洋 @harumihoyo112408yosi

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