対決 その2

 素空と栄雪は郡上八幡で托鉢して、城下の外れでお堂を探すつもりだったが、谷屋たにやと言う屋号の宿で呼び止められ、泊めてもらうことになった。

 谷屋の主人は壱介いちすけと言い、声を掛けたのは番頭の仙次郎せんじろうで、見るからに実直そうな男だった。

 「お坊様、どうぞお入り下さい」仙次郎の案内で座敷に通され、中に入ると壱介が障子を背にして座していた。

 素空と栄雪は、勧められるままに上座に座ると、仙次郎が下手に座して言った。「お坊様方には、奥様のことでお頼みしたいことがありましてお招きいたしました」

 今度は壱介が口を開いた。「実は7日ほど前に、家内が妙な病に罹りまして、医者に診てもらいましたが、一向に治る気配がありません。それどころか一昨日から人相が変わり、私ばかりか我が子の顔も覚えなくなったようで、医者に見放された今となってはご祈祷を願って憑物つきものはらって欲しいのです。家内の名はツガと申しますが、今ではその名もわきまえません」

 素空と栄雪は旅籠の奥にある離れに着くとすぐに異様な気配を感じた。

 「素空様これは何者の気配でしょうか?久瀬明蓮くぜみょうれんのような妖異よういとも違っているようですが…」

 ツガは布団の上で繋がれた狂犬のような醜い姿を晒しながら息巻いていて、獣のような妙な臭いを部屋に充満させ、2人の僧に噛み付くような格好をした。

 栄雪は思わず眉根を寄せて目を背けたが、素空はその醜い姿から目を逸らさなかった。

 「ご主人、谷屋さんの仏間にご案内下さいませんか?」素空は、主人の壱介に言ったが、この家には神棚かみだなはあるが仏壇ぶつだんは3年前からないと答えた。当然のように仏間は他の用途に使われているらしく、壱介は消え入りそうな素振りを見せた。

 素空は1人でツガの側に歩み寄ると、暫らく様子を見ていた。ツガは付き添いのフデと言う女中にだけは暴力的ではなかったが、他の者が近付くと食い千切らんばかりに歯を剥きだして威嚇した。素空は静かに経を唱えて、ツガの反応を見たが、ツガは相変わらず素空に歯を剥いて威嚇し続けた。

 素空は、ツガの目を正面から見据えて、その正体をあれこれ考えた。

 「かーつ!本性いでよ!」素空はいきなり声を張り上げた。すると、ツガは途端におどおどした様子で項垂うなだれて、横目で下から素空を仰ぎ見た。一見すると憑物が取り付いたような節はなく、ボケて知力が衰えたようにしか見えなかった。

 ツガは、既に素空に従順だった。力のない者が空威張りをした挙句、敵わないと分かると手のひらを返したように下手にでる。一見邪気のないような姿を見せているが、素空はその者の正体を必死で探りだした。

 素空は護摩壇ごまだんを作るために、谷屋壱介に中庭を使いたいと願い出た。

 素空と栄雪は庭木を2本切り倒して護摩壇の準備を始めた。素空は倒した木をそのまま炊き付けてわざと煙が出るようにした。護摩壇の横には戸板のような台が置かれて、ツガが寝床と一緒にその台の上に寝かされた。台の上には陽が差して、陽に照らされても怯える節がないのも腑に落ちなかった。

 護摩壇に火がおこされて炎が徐々に大きくなった。やがて、素空の経が始まり、生木が焚かれると辺り一面に煙が広がり、ツガが煙の中で異様な苦しみ方をした。

 谷屋壱介は心配の余り、素空に煙でいぶすようなことは止めるようにと訴えた。しかし、栄雪が、素空の祈禱の邪魔をさせないよう、谷屋壱介の袖を引いて戻した。それでも気が気ではない様子の壱介に、素空の仏性について語り始めると、ようやく落ち着いてツガの様子を見詰めることができた。

 護摩木に生木を使うことは滅多にないが、この時ばかりは素空の予想通り、ツガの中に巣食っていた悪霊を燻りだすことができた。ツガは身を捩りながら苦しみ、素空の経に反応した。やがて、ツガの体を離れて黒い煙のような姿を現して、戸板から護摩壇の反対側にスルスルと逃げ去ろうとしていた。黒い塊は斜めに浮遊しながら、ツガから離れて行ったが、2間(3.6m)ほど飛んだところで、素空が張った結界にぶつかって地べたにへばり付いた。

 素空は黒い塊の真ん中に数珠を置いて拘束した。黒い塊はピクピク動いていたが、消滅してはいなかった。

 「汝は何者か?ツガ殿に如何にして取り付いた?」素空の問い掛けに、黒い塊が答えた。「ワ、ウ、ハ、ジョテ、ト、ダ」言葉にならない声音がした。

 素空は鬼の中でも下等な生き物が、知恵のない小悪党の霊に取り付いたと判断し、他に仲間がいるのかと訊いた。素空の言葉は分かるようで、底意地の悪い声を出してせせら笑うだけだった。素空は降伏呪文こうぶくじゅもんを唱えて黒い塊を滅した。素空の呪文は、虚空直伝の強力なもので、いったん声を発すると消滅以外に行き着くところは決してなかった。

 ツガは、憑物が落ちてぐったりしていたが、正気を取り戻したように壱介の問い掛けに頷いていた。

 やがて、護摩壇から生木が引き出され、水を掛けられるとジュッと音を立て黒い炭に変わった。残った護摩木は灰の中に埋められて護摩壇が片付けられた。

 谷屋の客間で、壱介は深々と頭を垂れた。「お坊様には何とお礼を申し上げればよいか言葉も見つかりません。ただただ感謝の思いです」谷屋壱介は丁寧にお辞儀して、素空に感謝した。

 素空は下等な悪霊が最後に見せたせせら笑いが気になって仕方なかった。

 『あの悪霊と共に鬼が現れたような気がしてならない…』素空の呟きは、栄雪にも聞き取ることができるほどだったと言うより、栄雪に聞こえるように言ったのかも知れなかった。

 「例の4人に取り付いていたとしたら、とんでもないことになりかねませんね?」

 栄雪の言葉通り、素空が1番恐れていた事態になっていたことをまだ知らなかった。

 その夜、素空達は宿屋ではなく、谷屋の客間に泊められ、下にも置かぬ持て成しを受けた。食後は谷屋壱介と歓談したが、壱介はことが終わって、初めて素空がただの僧ではないことに気付いた。素空を呼び止めた番頭の仙次郎でさえ、主人から徳の高そうなお坊さんがいないか探すように頼まれているところに、折り良く托鉢の経を聞いて声を掛けたまでのことだった。

 素空が言った。「仏壇のないことは、御仏を信じる者にはおよそ考えられないことで、その不信心が奥方の不幸を招いたのです。すべての人は御仏の御慈悲を受けて生きているのです。御仏を信じる者はその御慈悲を受けて、この世にある様々な危難から守られているのです。もしも、我が身に不幸が生じた時は、御仏を信じる心に翳りが見られた時でしょうから、今日、この時から御仏の御慈悲に感謝して一心にお祈りなさいませ」

 素空はそれから経を唱え始めたが、谷屋の奉公人まで客間に入って素空の後に続いた。客間は信仰深い空気に包まれ、それぞれが仏の実在に気付かされた。

 素空は夜半も庭に下りて1人護摩壇の前で密やかに経を唱えた。護摩壇に使われた木枠や四手しでは既に取り払われていたが、生木を燻した炉だけが残っていた。火の気はすでになく、冷めた炉の中に灰が積もり、仏の業を示した跡も消え失せたようにひっそりとしていた。

 炉に向かった素空は経を唱えた後、ジッと目を閉じ、瞑想のうちに仏の前に立つことができた。素空は処刑された4人の霊がどこにいるのか尋ね、答えを得た。

 素空は、鬼に取り付かれたツガの回復と、谷屋の平安を祈願して客間に戻った。

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