第9章 対決 その1

 玄々坊に戻った虚空は金色こんじきに輝いたまま素空を呼んで、対座させ、今しがた本山で語り合ったことを掻い摘んで伝えた。既に、肉体と魂は分離し、座したまま往生を遂げていたが、言葉が終わるまで素空は身動きすることなく聴いていた。

 やがて金色の輝きが強くなり、床柱の薬師如来像やくしにょらいぞうも同じように金色に輝き、虚空と一体になり、やがて、天井を突き抜け始めた。素空が庵の外に出て天を仰ぐと夜空に鳳凰ほうおうの羽ばたきを目にした。金色の輝きは鳳凰の背に乗って天空の遥か上に昇り始め、金色の点となってやがて夕空に呑み込まれるように消え去った。

 2日後、老師の亡骸なきがらは玄々坊の後方の崖下の平地に埋葬され、素空の経によって供養された。そこに栄雪が食料を背負って戻って来た。

 「素空様、虚空様は身罷られたのですか?何故突然亡くなられたのでしょうか?こんなに多くの物を得て来たので、お喜び下さるものと、そのことばかり考えておりました。残念でなりません…」

 栄雪は涙し、墓の前でひと言呟いた。『私も何か1つでもお教え願いたかった』それっきり呆然自失の体で墓前に額ずいた。

 素空と栄雪は数日の間玄々坊に留まり、虚空に教授を受けたことをすべて栄雪に伝授した。素空は、栄雪がすべてを会得できないことを承知ですべてを伝えたのだった。それは、栄雪が行動を共にする以上、出来るか否かに関わりなく頭の中で理解することは何かの助けに必ずなると確信していた。

 玄々坊虚空が身罷って7日目の朝、素空は墓前に地蔵菩薩じぞうぼさつを祀った。この日まで、虚空の道具を借りて石を彫り続け、粗彫りではあったが真の姿を現していた。

 虚空が即身成仏を果たして、魂は浄土に上げられたことは疑うべくもなかったが、亡骸は墓の中にあり、盛土で守られていたが、何者かに墓を暴かれても防ぐ術を持たなかった。しかし、地蔵菩薩はこの墓を守り続け、仮に墓を暴く者が現れたとしても、地蔵菩薩の威光を以って仏罰が下されることになるのだった。

 素空は更に墓標を立てた。即身仏に戒名は無用だった。仏は生前の虚空をそのまま浄土に召したのだから、玄々坊虚空の名だけを書き込んだ。

 庵はやがて朽ち果てるだろうが、この地に住まい、悪鬼悪霊との戦いの日々を送った老師虚空の記憶が残るよう、玄々坊の額札に念を込めて朽ちることのがないよう祈願した。

 「栄雪様、さあそろそろ出立いたしましょう」素空は荷物を背負って、渋る栄雪を促した。栄雪は未だに玄術の業を成すことなく、結界を結ぶこともできなかったが、もう少しこの地で修行すると業の習得ができるような気がしていた。

 素空が望むのであれば、当然の如く従わざるを得なかったが、この時から栄雪の心に小さなわだかまりが残ることになった。

 素空は道を急いでいた。梵亡鬼ぼんぼうきを滅した場所に立った時、全身に力が漲るのを感じ、瞑想の中に入って行った。

 素空は瞑想の深みにあった。そこには大日如来だいにちにょらいが居て、素空に1つの業を伝えた。素空は大日如来だいにちにょらいと一体になり、悪鬼悪霊を心の隅に思い浮かべた時、あの梵亡鬼が蘇った。大日如来は一体となった素空に言った。

 《素空よ、鬼と対峙する時は我が身から離れて、不動明王ふどうみょうおうの化身となりて仏の怒りを表すがよい。不動明王と一体になることで、法力の極みを修めることになるでしょう。その時そなたは玄々坊素空げんげんぼうそくうとなり、真の法力を得るのです》

 素空は、不動明王が大日如来の使者として仏敵に対峙する時に現れることは承知していたが、我が身が如何にして不動明王に化身すればよいのか分からなかった。

 素空には、大日如来の言葉を受け入れることしかすべがなく、後は如何にしてその意に報いればよいか心を尽くすのみだった。

 一方栄雪は、素空の行動の訳がまったく分からなかった。瞑想の中でどのようなことがあったのかを後で簡単に説明を受けるが、具体的に内容を実践することはなかった。栄雪の心に、玄々坊から尾を引いている不満が更に大きくなって行った。

 2人が克治かつじの家に着いたのは申の下刻さるのげこく(午後5時)だった。克治は京に上って留守だったが、女房のハツは喜んで招き入れた。濯ぎをすませると、すぐに夕食を出して持て成した。雑穀米だったが、野菜と香の物を添えて2人を喜ばせた。素空はすぐに、玄々様が身罷ったことを報告し、ハツは涙を流して手を合わせた。栄雪は背負った荷物の中から、虚空の遺品をハツに手渡した。

 その夜、素空は1人仏間に入り、玄々坊が彫った大日如来像に向かって経を唱え、姿を現すよう祈願した。素空は仏と一体になっていたのですぐに聴き入れられて、仏が仏壇の前に金色の輝きと共に姿を現した。

 金色の輝きが収束すると、大日如来像は元の木彫りの姿に戻り、仏壇の中から板間の上に納まった。素空が法力を用いて、仏壇から膝先の板間に呼び寄せたのは初めてのことだったが、随分前からそうしていたような気分だった。

 翌日、素空と栄雪は、ハツに丁重に礼を言い郡上八幡ぐじょうはちまんを目指して旅立った。

 素空は2人で歩く道すがら、栄雪の態度が妙なことに気付いていた。心の中にわだかまりを持って、そのことに囚われ続けているように感じていた。そかし、今はどうすることもできないと思いつつ、鬼と対峙する時に障りとならないことを願った。

 2人が坂本峠さかもととうげまで来た時、上空に1羽のカラスが舞っていることに気付いた素空は、手を高く上げて招くような仕草をした。カラスは空から付かず離れず付いて来たが、素空の招きには応じる風ではなかった。

 「栄雪様、破魔はまガラスです。呼び寄せては頂けませんか?」

 栄雪は初めて上空のカラスに気付き、素空がしたのと同じような仕草をすると、破魔ガラスは栄雪の招きに応じて一旦肩に止まったが、すぐに立ち木の枝に飛んで行った。栄雪は破魔ガラスを見ながら柔和な笑みを浮かべて歩みを進めていたが、依然として無言のままわだかまりを持っていた。破魔ガラスは、栄雪の心模様を承知しているかのように、素空には決して気を許すことがなかった。

 坂本峠を越えると美濃国みののくにだ。谷間たにあいの街道を下り続けて郡上八幡に近付くにつれ、不穏な気配が付きまとい始めた。破魔ガラスはひっきりなしに鳴き始め、確かに何かを感じているようだった。

 「栄雪様、郡上八幡で托鉢たくはつをした時に、何か変わったことはなかったですか?」

 「いいえ、郡上八幡の城下にはこれと言って変わったことはなかったようです」栄雪はそう答えながら、胸奥に妙に引っ掛かるものがあり、暫らく黙したままその何かを思い出そうとしていた。

 栄雪はハッとして口を開いた。「素空様、郡上八幡ではありません!加納城下かのうじょうかです。今思い出しました。加納城下で処刑の高札こうさつが出ていましたが、ひょっとしてその者達の霊に鬼が取り付いたのではないでしょうか?」

 素空は、栄雪に言われて高札に書かれていた賊の名前を思い出した。

 「確か、偸盗ちゅうとうの頭目が夜蜘蛛やぐも仙輔せんすけと言い、一味3人と共に10日前には処刑されている筈です。その4人がすべて鬼の手に落ちたのであれば、これはただならぬことです」

 栄雪は一味の名を思い出そうとしたが、すぐに諦めて素空に尋ねた。

 「韋駄天熊吉いだてんくまきち手妻てづま仁六にろくそれに小暮喜重郎こぐれきじゅうろうと言う恐らく侍崩れの者です」

 栄雪は、素空の記憶力に圧倒された時、行脚の始めに栄覚大師えいかくだいしから懸念されたことを思い出し、何時の間にか自分の心に小さな鬼が巣食ったことに思い当たった。

 「素空様、私をお赦し下さい。玄術と陰陽道の教授をもう少し受けたかったのですが、思いが叶わず心に不満を持っておりました。我が身の未熟さを省みず、足手まといになりかねない願いでした」栄雪はすまなさそうに詫びた。

 「いいえ、私が玄術と陰陽道を伝授された時、栄雪様に形だけでもお教えしようと思ったのです。何故なら、形を知れば窮地に陥った時、必ず助けになる筈だと信じたからなのです。業の習得はすぐにはできないでしょうが、形だけでも知っていれば、後は御仏の御慈悲を以って成せることもあろうかと思ったからです」

 栄雪は自分の未熟な心を恥じて打ちひしがれた。

 素空が言った。「栄雪様、私達は同じ目的を持って、それぞれが分に応じた役割を果たしているのだと思っています。栄雪様が私の助けとならぬお方であれば、私は1人で行脚をしていたことでしょう。2人で1つの目的に向かって歩きましょう!」

 素空の願いは、栄雪にしっかりと聴き入れられた。

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