玄々坊虚空 その6

 素空は老師虚空によって、玄術と陰陽道の教授を得ていた。残るは仏道の奥義を学ぶだけだった。

 しかし、老師は玄々坊の額札の前で、素空にシカと伝えた。

 「素空よ、わしにはいよいよお召しが掛かったようじゃ。つまり、そなたに伝授すべきことはすべて伝えたのであるよ。今日からは世に仏法の絶えぬよう力を尽くしておくれ。そなたが仏敵と対峙する時、玄々坊素空となって働いておくれ。玄々とは仏道の奥義を意味し、それを知り得る者だけが使うことを許された御仏の業を言うのだよ。更にお励みなされよ!」

 素空は腑に落ちない思いだった。まだ教えのすべてを伝授されていなかったからで、今日は仏道の奥義について教授してもらえると思っていた。

 「素空よ、そなたが既に悟りを得た身であることは承知していたが、わしが仏道の奥義を伝授するまでもないことが2日の間に分かったからなのだよ。昨夜、そなたに見せた法力はそなたには既にできることなのだよ。その訳は悪鬼悪霊と対峙し、そなたが窮地に陥った時、身を以て知ることになるであろう」虚空はそれっきり黙して、身罷る前まで語ることはなかった。

 素空は庵に戻る老師を見詰めていた。矍鑠かくしゃくとした後ろ姿には死の影が微塵も感じられなかった。

 『瑞覚大師ずいかくだいしが召された朝にはお元気なご様子だったと聞いていたが、虚空様のお姿も既にその表れだろうか?』

 その日の正午、庵の藁葺き屋根のずっと上に揺らぎが現れた。瑞覚大師の時と同じ揺らぎが現れたことで、虚空の即身成仏そくしんじょうぶつがすぐ目の前に迫っていることを確信した。

 素空は谷間を下りて岩の上で座禅を組み、老師のために経を唱え始めた。やがて、瞑想のうちに薬師如来と向かい合った。

 《素空よ、揺らぎの中に鳳凰ほうおうが現れた時、虚空の魂は浄土に入るのです。また、揺らぎはもう1つの場所に立ち、虚空の思いのすべてを果たすことになるでしょう》

 仏の言葉はそれで終わり、素空は瞑想から覚めると言葉の意味を考えた。

 もう1つの場所がどこかはすぐに分かった。老師虚空の心残りは生き別れた弟子、玄空との再会だろうと容易に察しが付いたのだ。身罷る前にこの庵から天安寺てんあんじに身を運ぶことは、法力の極致だった。法力の極致のことは昨夜のうちに虚空の最後の教えとして聴いていた。そのために、相手の居所が分からなければならないのだが、玄空が今は天安寺の東院とういん貫首かんじゅを務めていることは虚空には伝えていた。

 天安寺に異変が起きたのは未の刻ひつじのこく(午後2時)になってからだった。

 西院の正倉しょうそう維垂いすい臥円がえんが、忍仁堂にんじんどうの屋根の上、遥か高くに揺らぎが現れたのを見て、憲仁大師けんにんだいしに知らせに走った。西院では揺らぎが現れたことがアッと言う間に広まり、興仁大師こうじんだいしのもとにもすぐに知らせが入った。憲仁大師が本当に久し振りに釈迦堂しゃかどうを訪ねた。他にも数名の大師が姿を見せていたが、口々に忍仁堂の異変の内容を推測していた。

 その頃、忍仁堂では東院のすべての僧が集められ、2人の僧が認可を受けていたため、揺らぎに気付く者は1人としていなかった。

 認可の儀は既に終わりに近づき、新たな法名と袈裟と大玉の数珠が与えられ、2人の僧が皆に深々とこうべれていた。

 虚空が姿を現したのは玄空大師の居室の奥に置かれた、素空が献じた薬師如来像を、瑞覚大師が祀っていた文机の前だった。虚空は障子を少しだけ明けて庭を眺めていた。部屋に着くとすぐに本堂で集会があることに気付き、それがすむまでは暫らく思い出に浸ることができた。

 思い返せば、60余年前に初めて天安寺に上がり、悟りを得て本山を下りるまで、3年の歳月を過ごした東院に、殆んど40年振りに遣って来たのだ。

 虚空は本山を下りると摂津せっつの寺に戻り、師である真空しんくうの教授を受けて、玄術や陰陽道の修行に励んだ。真空は時折寺をでると、10日から20日ほど寺を留守にした。

 悪鬼悪霊との戦いが始まった時、真空が時折寺を留守にする訳が分かったが、師からそのことを告げられなかったし、玄空にも告げることなく寺を留守にしていたことを思い出しながら笑みを浮かべた。すべてがアッと言う間のできごとのように思えた。

 障子を閉めて文机の前で瞑想を始めると、すぐに障子が開き、玄空大師が明智みょうちを伴なって部屋に戻って来た。文机に向かって瞑想をしている姿を見て、すぐに虚空だと気付いた玄空大師は、その場に立ち尽くし涙を流した。

 明智は玄空大師のただならぬ姿に驚き、座を外そうとしたが、玄空大師はそっと制止した。そこに薬師堂から栄覚大師えいかくだいしが尋ねて来たが、玄空大師は、栄覚大師も部屋に招き入れた。

 玄空大師は虚空の姿に驚愕しながらも、この2人にはこの場にいて欲しいと感じた。素空からの文はまだ届いていなかったが、虚空の言葉の中に、必ず素空のことが語られる筈だと確信していたからだった。

 やがて、虚空が瞑想から覚めて、おもむろに玄空大師と向き合った。目に涙が溢れ、万感の思いが胸を揺り動かしていることがすぐに分かった。玄空大師は、虚空の前に座して言葉を発するのをひたすら待った。そして、思いも寄らないことが起こった。

 【希念きねんや、久し振りだな。そなたが思わぬ道を選んだこともすべては御仏の御計らいであったようだ】虚空は、玄空大師の心に語り掛けたのだった。

 玄空大師は初めての経験で答えようがなかったが、虚空は更に語り掛けた。

 【希念や、そなたの思いはすべて分かるのだよ。そなたが分からぬ我がことを伝えよう】虚空は、玄空大師の心に語り始めた。

 天安寺に上がった希念が法名を頂いた時、既にその名を玄空と決めたのは、我が師である真空の意向だったこと。玄空となり悟りを得た僧となってからは、真空直伝の玄術を伝授し、更に、陰陽道の秘儀を説くつもりだったことが語られた。

 素空に話したすべてのことを、玄空大師にも告げて、素空の使命を仏の望みだと語った。

 玄空大師は心に届いた言葉のすべてが、思いの端にあった疑問に答えるものとなった。

 ここで虚空が言葉を発した。「わしは玄空の師で、虚空と申すが、そなたが明智で、そなたが栄覚であるな?…素空の心に大きく関わる僧であることは存じているよ。わしは今、法力の極致を得てこの身を御本山に運んでいるのだよ。我が身が素空のもとに戻った時、我が魂は御仏に召されるのだよ」

 虚空はここで素空のことに触れて3人に語り始めた。

 「素空は、御仏の遣わした特別な僧であるよ。わしが伝授すべきことを2日で会得し、わしがこの世に存在する目的は果たされた。御仏の御計らいによって今日まで生き長らえたが、今、心残りなくやっと浄土を踏むことができるだろうよ」

 虚空はそう言うと金色の光に包まれ始め、やがて、強烈な輝きとなって姿を消した。明智と栄覚大師があっけに取られていると、玄空大師が2人に言葉を掛けた。

 「これが法力の極致なのだろうよ。人が瞬時にして居場所を移すためには、御仏の御力が必要なのだよ。御仏と一体になった時、人にできないことが容易にできるのが法力と言うことであるよ」

 2人は納得し、栄覚大師が改めて素空のことを口にした。

 「素空様も法力の極致を得ているのでしょうか?」

 玄空大師はジッと考えて答えた。

 「今はその力を持たないだろうが、遠からず得るであろう。素空の力は、虚空様も驚くほどのものであったようだ。素空が2日のうちに虚空様の教えを習得し、浄土に上がる日が思いのほか早くなったことがその理由であると思っているのだよ」

 2人は、玄空大師の言葉を深く受け止め、遠い空の下で苦難と立ち向かおうとしている素空と、同行の栄雪に思いを馳せた。

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