玄々坊虚空 その5
2日目になって虚空は早くも
「陰陽道とは古来より
素空は、老師の言葉通りだと認め、すべてを受け入れることから始めなければ、教えを受けることができないことを知っていた。
この日、虚空は庵で結界のすべてと、
素空は初めて虚空の結界の中に入った日のように、自分が作った結界を融合させて結界を破って見せた。しかし、虚空は眉根を寄せて喜ばなかった。素空もその訳を十分に理解していたので、気まずい思いで老師の前に立った。
「左様、わしが作った結界はその方法でのみ破ることができるのだが、この結界が悪霊の手になるものであれば、その方法では到底破れるものではないのだよ」
虚空は語った。「結界とは、妖術と玄術のように成り立ちの異なる手法によって結ばれ、悪鬼悪霊の手になるものを魔界の結界と言い、わしらが結ぶ結界を御仏の輪と言うのだよ。神仏を信じて身を委ねることのできる者が結界を結べば、それを破る方法は先の素空の方法と同じ方法のみとなるのだよ。そして、古来より阿倍流の結界はその速さと強さにおいて比類のないものなのだよ」
素空は昼食の後から、虚空が張った結界の破壊と修復を繰り返し、結界の結び方を競った。素空の速さは次第に虚空に近付き、その強さも虚空と変わりがないほどになった。
「素空よ、今日はこのくらいにして、休むがよい。結界の破壊と修復、更には新たに強固な結界を結ぶことは体力の消耗に繋がるのだ。
素空は、老師虚空の思い遣りが心に沁みた。庵に上がって言われた通りに横になって休むと、急に目眩がしてそのまま眠り込んだ。素空にとって初めての経験だった。
素空はこれまで随分無理を重ねて来たせいで、体が悲鳴を上げるくらい疲れていても、平気を装っていたのだ。
素空は夢を見た。素空が老師と並んで歩いているところに、玄空大師が現れて『都に異変が起こったから早く天安寺に来るように』そう伝えると忽然と姿が消えた。
素空は、消えた玄空大師を必死に探した。大きな洞窟に辿り着き、その中を覗き込んだ時、
悪鬼悪霊の群れが素空を呑み込む寸前、ドーンと言う鈍い音と共に強固な結界が現れて、素空の命は救われた。目の前には若い頃の虚空が厳しい表情で立っていたが、次の瞬間、玄空大師にすり替わっていた。目を凝らして虚空を探したが、今度は虚空が見当たらず、結界の周りには結界に衝突して死んだ蝙蝠や、悪鬼悪霊の死骸が散乱していた。素空は、虚空が張り巡らした強固な結界の外に出ようと試みたが、どうしても出ることができなかった。目の前には玄空大師が呆然として立ち竦んでいる。声を掛けても聞こえた風ではなく、木偶人形そのものだった。すると、玄空大師の顔は次第に虚空の顔に変化し始め、今度は虚空の若い頃に戻っていた。呆然とした虚空の顔はまたしても玄空大師の顔となり、渦のように入れ替わりを繰り返し、素空がその渦に巻き込まれ始めた時、素空の夢は終わり、また深い眠りに落ちていた。
「素空や、疲れは取れたかな?このところ、わしの思いのままに動いたせいで、調子が乱れたのであろうが、加えて結界の術には多くの労力が必要なのだよ。そこで、1つの教訓が生まれるのであるが、よいか素空よ、悪鬼悪霊と対峙する時には己の心身の調子を保つことだ。決して相手の調子に引き込まれないことだよ。そして、結界を張りあるいは消滅させる時は3度までにすることだ。体力を消耗させたところで悪鬼悪霊との対決を迎えることは身の破滅を招きかねないからだ」
素空は床に座して、老師虚空の言葉を深く心に受け入れた。
夕食は素空が初めて庵に来た時とは逆に、素空が粥を食べ、老師に介抱されることになった。素空は、老師虚空が玄空大師くらいの若さを取り戻したように感じた。年若い自分を介抱する言葉や身のこなしには何時になく張りがあるように思えた。
就寝前は短い経を唱え素空を先に休ませると、虚空は庵の外に出て夜空を仰ぎ見た。その表情は厳しく、眉間の深い皺が永年続いた戦いの日々の過酷さを物語っていた。虚空は夜空を眺めながら星と風の気配に妙に胸騒ぎを感じていた。鬼がこの世に現れた時に感じる気配だった。
『誰かの霊が、鬼に取り付かれたようだ。だが、わしには時がなくなった。素空が
その時、素空は目を覚まして庵の外に出て、老師虚空を探していた。素空が、老師を探し出したのは橋の上から身を翻して淵に落ちて行くちょうどその時だった。素空はアッと声を上げたが既に遅かった。
素空は玄々坊の額札の前で足が止まった。『今見たことは妖術であったのだろうか?』フッと我に返って瞑想を始め、アッと言う間に大日如来と合体した。橋に歩み寄り淵を覗き込んだが、老師虚空の姿は見当たらなかった。しかし、川下の岩の上に目を転じると、金色の光に包まれた老師の姿があった。妖術への警戒を解き、老師の姿を正しく認識することができた。
虚空は岩の上で座禅を組み、深い瞑想に入っていた。素空は橋の上からジッとその姿を眺めていた。声を掛けるつもりはなく、つい眺めてしまっていた。
虚空は瞑想から覚めると、座禅を組んだまま岩の上から体が浮遊し、次第に高く上がって谷間から広場に降り立った。
素空は自分の見間違いでないことを知っていた。広場に降り立った老師に近付くと、どのようにして宙を浮遊することができたのか尋ねた。
虚空が言った。「そなたが外に出たことも、橋の上に立ったことも知っていたのだよ。そのことを承知で見せたのだ」
素空はその訳を訊いた。
「そなたが瞑想のうちに大日如来と合体したと同じように、わしも御仏と合体してこの身を宙に浮かべたのだよ。これは法力の1つで、そなたの業と同様、玄術の極致なのだよ。つまり、そなたも同様にその身を自在に操り、御仏の業を成すことができるのじゃ」
虚空はそう答えると、爽やかな笑顔を素空に向けた。
素空は、老師の法力が既に御仏の業そのものだと言うことを理解し、老師が召される日が確実に近付いていることを感じた。
「法力の極致は我が身の浮遊から始まり、やがて、瞬時にして遠方に我が身を運ぶことで完結するのであるよ。更に、そなたは若くしてその極致を得るであろうから、法力の先を得ることも可能であろう」
素空はその先とはどのようなことであるか想像できなかったが、敢えて老師に尋ねることはしなかった。ただ、自分がその境地を得るまでには更なる鍛錬が必要だと思った。
位山の夜風が師弟を優しく包んでいた。
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