玄々坊虚空 その4

 翌日には虚空の体が回復し、玄術の手解きが始まった。

 「素空や、玄術とは何であるか夕べ語った通りであるが、今日からは身を以て会得するのだよ…」

 虚空は、素空を広場の真ん中に立たせ、術を掛け始めた。

 素空は立っていられなくなり、思わず地べたに座り込んだ。訳が分からないうちにまた立ち上がり、葛の吊橋の真ん中まで歩いて、虚空を振り向くといきなり淵目掛けて身を投げた。素空は、栄雪と同じように水を飲むことなく、更に落水した瞬間に我に返っていた。暫らくして、ずぶ濡れのまま初めにいた広場の真ん中に戻った時、虚空が側に寄って来た。

 「素空よ、これは妖術の業である。これから玄術を披露しよう」虚空は言うが早いか呪文を唱え、素空の濡れた僧衣に風を当てて乾かし始めた。それは、栄雪に施した術と同じく、実際に濡れた物を乾かすことであり、気のせいでは決してないことだった。僧衣が乾くと虚空が問い掛けた。「妖術と玄術の違いが見えたかな?」

 素空は、虚空の問い掛けに答えると、虚空がニッコリ笑って言った。

 「左様、妖術とは人の心を操る業なのじゃ。人の心に深く入り、強い暗示を仕掛けるのだよ。術者はその仕掛けの強さを競い、より強い者に屈することは死を意味するのじゃ。ところが、玄術とは御仏の秘儀を示す法力を以て成し遂げるもので、表すのではなく実現するのだよ」

 虚空は更に言った。「そなたが妖術に勝つためには心を守ること、つまり、そなたの心に深く入り込ませぬよう、守り抜くことが第一なのじゃよ。心を操られることがなければ、己の術を仕掛けることができるのじゃ」

 虚空はフッと一息吐くとまた語り始めた。「妖術に打ち勝つためには心を強くし、法力を磨き上げることだ。そなたに伝授する陰陽師おんみょうじの秘技は心を強くし、仏道の奥義を究めることは更なる法力を身に付けることなのだよ」

 虚空はこの日、素空を幻惑させる妖術を幾つも試み、素空はそのことごとくに操られた。「妖術とはひとたび術に落ちると、次には逃げられなくなるのだよ」

 虚空は目を閉じ、素空の操られ易い心を立て直すための苦しみの日々を思った。

 「素空よ、妖術を仕掛ける者は相手が正気であるならば、必ず術に落とすことができるのだよ。つまり、阿呆には術を掛けることができないのだ。素空が優れた頭脳を持っていればなお更、術に掛かり易いと言うものだ。そこで、妖術に掛からぬ方法を見つけだすのだ。人それぞれにその方法は違うから、そなたに合った絶対なる方法を必ず見つけ出すのだよ。いいや、見つけ出さねばならないのだよ…是が非でもな!」

 素空は昨日の教えを心の中で繰り返していた。『そもそも、玄術とは心の技である。深く心を沈めれば、森羅万象己が意のままとなる。ひとたび、心を沈めれば、如何なる敵にも正気で構うべからず。術を持って応ずべし』

 素空は何度も繰り返した。『そも、玄術とは心の技、深く心を沈めれば、森羅万象己が意のまま、心を沈め敵に正気で構うべからず。術を持って応ずべし…』

 素空はハッとした。短くした言葉を繰り返すうちに、妖術を打ち負かす鍵を見出した。

 「素空よ、如何した?」虚空は掛けた術が、素空に効かなかったため不審に思った。

 素空の表情は何かに囚われて、深い考えに没頭しているようだった。

 虚空は、素空が早くも妖術に掛からないための方法を会得したことを予感した。

 素空は我に返った。そして、老師虚空に向き直り、妖術に掛からないすべを会得したことを告げた。

 「素空よ、試してみようぞ」虚空は言うが早いか妖術の呪文と共に、素空に強い暗示を仕掛けた。素空は何度も術に掛かったこの呪文が、老師の渾身の力を込めたものであることがすぐに分かったが、防御は万全だった。

 素空は、老師の呪文の声が上がると同時に、深く心を沈めて悟りの瞑想の中に入って行った。そこには大日如来が現れ、強烈な金色の輝きに包まれていた。素空は瞑想の中で大日如来と合体し、己のすべてを大日如来に委ねた。

 大日如来は、素空の心のすべてを受け入れ、素空の言葉は大日如来が発したことになり、大日如来が発した言葉は素空の言葉になった。

 素空は、老師の呪文をハッキリと耳にしたが、妖術の業に引き込まれることはなかった。素空をことごとく操って来た呪文が空しく響き、その正体を露にした時、素空はその縛りから解き放たれた。

 虚空は呪文を止めて、素空に尋ねた。「そなたには驚かされるばかりだよ。如何にして妖術を克服したのか教えてくれまいか?」虚空は60年ほど前に、師である真空しんくうから玄術の手解きを受けた時、妖術の縛りから解き放たれるのに1月ほど掛かったことを思い出した。

 素空は問われるままに、大日如来と合体し仏にすべてを委ねたと答えた。

 虚空は自分の手法とはまったく違った方法でこともなげにそう言い切った素空の顔をまじまじと見詰め、『我より確かに力の強い僧である』と思った。

 虚空はこの日、仕掛けた妖術の種類を明かし、最も強い術者の存在がいずれ明らかになるだろうと伝えた。最も強い術者とは、最も強い鬼によって魂を奪われた者が、悪霊となって術を仕掛けるのだった。

 「素空よ、そのモノが放つ妖術は、わしが示した術とは比べ物にならないほど速くて強いのだよ。そのモノが何者なのかは術を繰り出さねば分からぬのだ。心して構えるべし」

 素空は、老師の言葉のすべてを受け止め、心に強く刻み付けた。

 妖術の防御を習得すると、いよいよ玄術の教授に入った。

 「素空よ、広場の端の倒木の前に立ってみよ。これから、玄術の種類とその身の使い方を伝授しようぞ」虚空は、素空に先立って広場の端まで進んだ。杉の大木が、根元から10間(18m)先の幹を高さ5間(9m)の崖に掛けるように斜めに倒れ掛かっていた。杉の大木は根から倒れていたものの、枯れてはおらず、崖の上の枝は青々と茂っていた。

 「素空よ、この木の上を歩き、崖の上に立ってみよ」虚空はそう言うと、素空の反応を見ながらすべてを素空の思いに任せようとした。

 杉の大木は根の半分が土に埋まっていて、半分が地上に現れて、のぼるならこの根からだと誰もが思うところだったが、素空はそうしなかった。

 素空は大木の幹の前に合掌して立つと、幹に右手を掛けて、身を上昇させて幹の上に立った。まるで水の中で体を水上に浮かせるように、いとも簡単に幹の上に立ったのだった。虚空は驚き、素空が手法の伝授ではなく、目標を与えるだけですべてを理解できると感じた。

 『課題を与えるだけで良いとは…驚くばかりじゃ』虚空はこの分では、教授はすぐに終わるだろうと予感した。

 それから、虚空は幹の途中で素空を逆様に立たせ、右から左からと重心を自由に変化させる業を教えたり、崖の上まで瞬時に移動させたり、崖の上から根元まで10間をひと飛びで戻って来させた。素空は少し考える姿を見せると、命じられたすべての指示を完璧に行った。

 『素空は御仏と合体して業を繰り出しているのだ。しかも、大日如来と合体したとは…無敵の法力を手にしたことになるのじゃ』

 虚空はこの日疲れて眠った。夕食の後に就寝前の経を唱えた時、素空と絶妙の間を持って唱えたのだったが、確かに夕べより今夕の方が殆んど同時に近かった。これは、素空の力が更に強くなった証だった。そして、薬師如来像は床柱の横で本当の姿を現していた。昨日、虚空と素空の前で本当の姿を現してからずっとそのままだった。

 虚空は明け方早くに目を覚ました。薬師如来を仰ぎ見て、寝床の上に座ると経を唱え始めた。

 虚空は自分がこの世に残って、素空に伝授することが思った以上に早く終わりそうだと感じていた。

 『御仏がこのように長く降臨されたことは、これまでになかったことだ。お言葉もなくこのまま御姿が続くと言うことは、御召しを受ける日がそこまで来ているに違いない。素空は、わしが思った以上に優れた僧であったと言うことであろう。期待以上の働きを見せてくれるであろうよ。よきことかな…」

 虚空は1夜の睡眠が自分の体力をもとに戻したことを不思議に思った。年毎に体力が落ちて行く中で、疲れ果てて眠りに就いた翌日に、このように力が漲ることはなかったのだった。『素空の癒しのせいであろうか?』思い当たることはそれ以外になかった。

 虚空は、素空の存在が自分に思わぬ恵みを与えてくれているように感じていた。

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