玄々坊虚空 その3

 虚空は翌日にはかなり体力が回復し、素空と同じ食事をとるから、気を遣い過ぎぬようにと言うと、粥を1膳しか口にしなかった。素空がもう1膳勧めると、虚空は遠慮して言った。「わしは粗食に慣れ、米の粥を1口頂いただけでその養分を余さず吸い取ることができるのじゃよ。お陰で元気になれたからには、これ以上の気遣いは無用に願いたいのじゃよ」

 素空は60才も年の離れた老人を前にして、その謙虚な言い方を心苦しく思って言った。「これより玄々様をお師匠様とお呼びいたします。私は今日より玄々様の弟子となりました。一心を以て師にお仕えする覚悟でありますれば、何事もご遠慮なさることのないよう願い申し上げます」

 素空がそう言うと、虚空は笑みを浮かべて言った。「よいか素空よ、わしの最初の教えである。我が身が謙虚なのは、人に対しても、御仏に対しても常に変わることのない姿を表すことを心掛けているためなのだよ。誰に対しても変わらぬ姿は御仏の前では尊く、我が身をへりくだる心は常に御仏の御慈悲を願う心なのだよ」

 目の前の人物はまさに、玄空大師のようであり、素空は伊勢滝野いせたきのでの生活の続きをこの場所で始めようとしている思いだった。

 虚空には明日から教えを乞うことになるだろうと思ったが、早速1つ教えられた。しかし、虚空の教えはそれだけに留まらなかった。

 「素空や、明日から伝授することを掻い摘んで話しておこう」虚空はそう言うと、素空の眼を見て語り始めた。

 「先ず、玄術げんじゅつを伝授しよう。次に、陰陽道おんみょうどうを説いて遣わそう。そして、仏道の奥義おうぎを究めるのだ」虚空は笑みを浮かべて言った。

 「よいか素空よ、そもそも玄術とは心の技である。深く心を沈めれば、森羅万象己しんらばんしょうおのが意のままとなる。ひとたび、心を沈めれば、如何なる敵にも、正気で構えるべからず。術を持って応ずべし」

 虚空は暫らく目を閉じ、やがて、素空の目をしっかり見詰めて言った。

 「素空よ、妖術ようじゅつ玄術げんじゅつとの違いとは何か…それは、使い手の心の違いなのじゃ。心の曲がった者が、人を術に掛ける時、それは妖術となり、幻術と言われ、人を陥れる魔界の術となるのだよ。そして、玄術とは悪鬼悪霊やそれらに心を売り渡した者共に対して用いる御仏の業なのじゃよ。言わば、悪なる者と戦う法力ほうりきのことを言うのだよ」

 素空は、虚空が言葉を終えた時、その目にギラギラと炎のような闘争心が漲るのを見取っていた。老師の孤独の戦いが、如何に過酷だったかと思うと、胸に込み上げるものを感じた。

 虚空はその後疲れて横になると、それっきり寝入ってしまった。

 素空は老師の体力がまだ回復しないまま、無理をさせてしまったことを悔やんだが、僅かな時の中に、早くも深い教えを頂いたことが嬉しかった。

 その後、素空は外に出て谷川の流れに近付き、静かに経を唱え始めた。虚空の回復と、この後の教えを正しく受け入れることができるように祈願した。

 素空の声は浅瀬の石伝いに音を立てて川下に下る水のように、川の流れにも、そよぐ風にも逆らわず、自然に溶け込んでいた。その声は谷から湧き出るように溢れ出ると、玄々坊の額札を呑み込み、庵を包むように密やかに伝わった。素空の声はやがて、虚空の全身を包み、弱った体に染み込むように溶け込んだ。

 素空は川面に近い岩の上で3本の経を唱えると、瞑想のうちに薬師如来に近付くと、老師虚空の癒しを願った。

 薬師如来は、素空に言葉を掛けた。

 《素空よ、汝の願いはすぐに叶うでしょう。この後汝は、虚空の業を継承し、我が道具となりて世に仏道を広め、仏敵を打ち滅ぼすのです》

 薬師如来はそれだけ語ると、素空の瞑想のずっと後方に消えて行った。素空はこの日、老師から明かされたその名の由来と、己がこの世にある使命を重く感じていた。

 素空は瞑想から覚めると、谷川を吹き抜ける風のそよぎを心地よく感じていた。月明かりでせせらぎが煌めいて、更に谷の中を輝かせていた。素空は両側に聳える岸壁に白く輝く夜霧の露と、空に輝く月を見て、この世に降り注ぐ仏の慈悲に似ていると思った。素空は岩の壁を登りながら、経を口の中で唱え始めると、身が軽くなり急な石段が一向に苦にならなかった。降り注ぐ月明かりはまさに仏の慈悲の光のようだった。

 素空が谷から上がり庵の前に立った時、額札の「玄々坊げんげんぼう」の文字がどうしても気になった。玄々と言う深遠な様は、何を表そうとしているのか?玄術の奥深さであろうか?それとも、仏道の深遠さだろうか?素空は何度も額札の文字を眺めては、天を仰ぎ月の明るさの先を見た。仏道の奥義を究める。素空はハッとした。

 『玄々坊とは、仏道の奥義を究める場所を意味するのであろうか?』素空は、悟りを開いた老師虚空の求める果てが、更なる仏道の奥義を究めることにあったことに気付いた。

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