玄々坊虚空 その2

 栄雪が出掛けてから、素空はすぐに、玄々坊げんげんぼうに鬼との戦いがあったことを伝えた。

 玄々坊は暫らく思いを巡らした後、ウムッと小さな声を発して素空を眺めた。

 「素空よ、わしの見立ては間違いなかったようだ。そなたはわしが予見した通りの僧であるよ。そして、わしの亡き後を託すに足ると確信した…」

 玄々坊はそれだけ言うと横になって眠った。

 素空はすぐに夕食の支度を始めた。米で1人分の粥と、雑穀米で1人分の飯を炊いた。野菜は傷んだ部分を捨て、漬物と、生に分けて残りは火を通しておかずにした。アジの開きを片身だけ焼くとその後に目刺しを2本焼いて自分の分にした。

 素空は夕食の支度がすむと、虚空を起こして経を唱え始めた。玄々坊が僅かに先を唱えたが、その声は庵の障子を振るわせ始め、素空の声が共鳴するように響き始めると、小さな庵はガタガタと揺れ始め、玄々坊の枕元にあった見事な薬師如来やくしにょらい金色こんじきに輝き、背に光背こうはいをまとい、肌も美しい生きた色艶に変わり始めていた。衣は涼やかな皐月さつきの風になびいていて、口元の紅が何かを囁いているような風情だった。

 素空は、瑞覚大師ずいかくだいしに献上した薬師如来像より2回り大きい如来像が、瑞覚大師の文机の上で降臨した時とまったく同じ姿になっていた。

 「わしには多くの時が残されていないようだ。そなたは玄空の次にわしの弟子となり、玄空に伝授できなかったことをすべて受け継がせるつもりなのじゃ。これは僧として、人として必ず果たさねばならぬ使命なのじゃよ」読経が終わると玄々坊は、素空の眼を見てシカと伝えた。

 夕食の膳は玄々坊を感嘆させた。暫らくこれほどのご馳走を口にしていなかったからで、食べ終わってからだんだんと力が漲って来るようだと喜んだ。

 玄々坊は話し好きで、素空が閑の様子の時は決まって声を掛けて来た。

 素空が関ヶ原せきがはらのことを尋ねた。「実は、関ヶ原で玄々様が、土師宗衛門様はじそうえもんさまに仰せのことを私は存じております。不可解なことがありますので、どうかお答え下さい。玄々様より力が強いお方とはどなたのことでしょうか?」

 玄々坊は即座に答えた。「左様、わしより力の強い僧とは、今わしの前に座している素空、そなたのことじゃ」

 素空は当惑して、答えた。「私など虚空様にはとても及ばぬ未熟者です。何かのお間違いではないかと存じます」

 すると、玄々坊、即ち虚空が、笑みを浮かべて答えた。

 「そなたはまだ己のことをよく知らぬようだから、教えて進ぜよう。わしより力が強いとは、何も今のそなたを言っているのではないのだよ。わしが伝授するすべてを身に付けた時、それこそ、わしなどとても及ばぬ強い力を持つのだよ。心して修行をするのだ!」

 虚空の眼差しは厳しかった。玄空大師のような慈愛が滲み出ていないのは、数10年の永い年月を悪鬼悪霊と戦って来たせいだろう。

 素空は更に尋ねた。「これより20年も以前に何故、と言う名を口にだせたのでしょうか?」

 虚空は笑みを浮かべて言った。「わしが悟りを開いたのは、一体何時頃のことであろうか?そなたと同じくらいの年であったろうか?…そなたは分かっている筈じゃ。悟りを開いた者は御仏と言葉を交わし、その意向を直接受けるばかりでなく、我が意を直接奏上できることをな!そなたをと名付けたのはわしなのじゃ」

 虚空はジッと黙り込んで昔のことを思い出していた。

 「わしが摂津せっつの寺で玄空を弟子にしたのは、御仏の御導きであった。玄空は利発で向学心が強く、すべてを己の頭脳の中で片付けることのできる小僧であった。わしは満足であった。御本山から帰って来たら、これからそなたに授ける秘儀を玄空に伝えるつもりだったのじゃ。しかし、玄空は摂津に戻って来なかった。わしに顔向けができなかったからであろうか?あるいは、己の未熟さを恥じて新たな修行を志したのであろうか?わしは暫らく待ったが、悪鬼悪霊との戦いが既に始まっていたのじゃ。わしは熊野くまのに行き随分長く行者としての修行かたがた、悪鬼悪霊と戦ったのじゃよ」

 虚空はまた黙り込んで、昔を思い出していた。

 「わしは駿河するがの海沿いに出て、甲州方面こうしゅうほうめんまで回ったり、出羽でわまで足を延ばしたが、25年ほど前にフッとわしがいなくなった後のことを思ったのだよ。玄空にわしの後を継いで欲しかったから御仏に願ったのじゃ。玄空の所在を教えて欲しいとな。だがハッキリと断られたのだよ。御仏は仰せであった」

 《そなたの願いは叶わぬことです。玄空の代わりにその弟子をそなたに任せましょう。名も付けさせましょう》

 「御仏は約束を違えることはないのだよ。わしはそなたと会うまでは決して死にはしないことを悟り、心おきなく鬼達と戦うことができたのじゃ。しかし、今日は御仏の御告げでこの庵を出ることが叶わなかったのじゃ。結界を張り、これを解くことも禁じられたのじゃよ。すべては御仏が御与えになられたそなたへの試練であったのじゃ」

 虚空は話を前に戻した。「わしは、わしの師である真空様しんくうさまから秘儀を伝授されたのじゃが、真空様の師のことは訊いてはいない。だが、真空・虚空・玄空・と3代の後に続くとしたら…わしはそなたが生まれる前から、玄空の弟子の名を素空と決め、御仏に奏上したのだよ。玄空が弟子を取ることも、そなたが、玄空の弟子になることも御仏はご存じであったのだよ」

 虚空は布団の上に横になり、素空に慈愛の籠った笑顔を見せた。素空は目の前に玄空大師がいるような不思議な気分になっていた。

 素空はもう1つかがみのお堂のことを尋ねた。すると、虚空は2つの理由を答えた。

 「鏡は琵琶湖びわこ付近で霊の出入りの多い街だったのじゃ。霊がひとりでに出入りする訳ではなく、すべては鬼の仕業であったのじゃ。我が師真空は、鬼の出入りするあの場所にお堂を建て、羅刹らせつ夜叉やしゃを祀っていたのじゃが、30年ほど前にわしはそこに12神将の中の宮毘羅くびら大将と毘羯羅びから大将によって、力を強くしたのだよ。摂津から真の御姿を成してはいない玄空の閻魔天えんまてんを持ち込んだのは、玄空がそのお堂に参った時のためだったのじゃ。御仏像で鬼を封じ、玄空への示唆となるよう考えたのだが、無駄だったようじゃ」

 素空はすべてに合点が行った。これから虚空の教えを受けるのだが、すべてを伝授された時が虚空との別れだと寂しく思った。

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