第8章 玄々坊虚空 その1
栄雪が言った。「素空様、お見事でした。しかしながら、確かな勝算があってのことでしょうが、その根拠を如何にして求められたのでしょうか?」
栄雪は失敗すれば無惨な最期となるところだったが、勇躍鬼の前に立ちはだかった素空の行動が計算されたものだと信じていた。
「それは、鬼の能力を見切ったからなのです。鬼とは人の心の中の1番醜い部分の表れのように思います。努力を惜しまず何かを達成しようと言う、言わば善なる意欲は鬼の心にはありません。他者を憎み、妬み、侮り、騙し、嘲り、攻める、そんな心は労せずして得をする怠惰な心と通じるのです。そのためにあらん限りの悪知恵を働かせるのですが、理を求め努力の末に掴む学識には到底及ぶべくもないのです。人が一生懸命学問をして努力の末に身に付ける知識は、怠惰な者があらん限りの悪知恵を振り絞ることより遥かに尊く、優れているのです。私は7才の頃より今日まで、身に付けた知識のすべてを武器にして鬼を滅したのです。知識は悪辣な者共の試みに打ち勝ち、自身を更なる高みに導くことは、古来より知られている人の真理なのです」
素空の言葉は、栄雪の心に深い感動をもたらした。そして、栄雪にとって、素空が一層遠い存在になったのだった。
山道を少し進んだ頃、栄雪が言った。「玄々様はこの先にいらっしゃるのでしょうか?この鬼達のせいで麓までおいでになれなかったのでしょうか?」
素空はハッとして道を急いだ。『玄々様がご無事であれば、鬼達が消滅した今となっては、お姿を現しても良さそうなものだが、出るに出られぬ何らかの訳があるのだろうか?』
素空は気をもみながら山道を無言で登って、右に大きく進路を変えた。
素空と栄雪は、
「この橋を渡るんですか?ちょっと勇気が要りますね。私は勇気を借りて参りますので、素空様からお先にどうぞ…」栄雪は震える足を引いて、素空に道を譲った。
葛の橋には手摺がなく、真ん中までは下り傾斜で、その先から急勾配の上りになるのだが、手摺がないので慎重に進まなければならなかった。橋の5間(9m)ほど下に深い淵があり、落ちても怪我をすることはなさそうだったが、谷から上がるには助けが要った。水量はさほどではなかったが、山奥の深い淵の水は冷たく、悪心を持つ者が落ちると邪心を萎えさせるのだった。
素空が言った。「橋の下は淵になっていますよ。万一落ちても助かるように考えてのことでしょう。さあ、勇気を出して私に付いて来て下さい。くれぐれも邪心を持たぬことです。一心に経を唱えるのです。よいですね!」素空は、くれぐれも念を押した。素空はそう言うと先に橋を渡り切った。栄雪は震える足で素空に続いて渡ろうとしたが、橋の真ん中で下の淵に目を遣った途端、葛の橋が大きく揺れて栄雪は淵に呑まれて行った。
素空は、栄雪の転落を見て、アッと大きな声を出し、谷底に目を遣った。栄雪の肩にいたカラスは、素空の頭上を越えて飛び立っていた。素空は橋の脇に
栄雪は麻紐を掴むと谷の岩壁を、素空の助けを借りて這い上がって来た。
「一体何を考えて渡ったのですか?」
「迂闊でした。経を唱え続ければよかったのですが、あの鬼達のことをふと考えて、
素空が励ますように言った。「栄雪様には私の足らないところを補って頂いているではありませんか。そのようなことは気になさらないで下さい。先日も
素空と栄雪は顔を見合わせて笑った。
栄雪は濡れたままの姿で崖下の洞窟の前にある
しかし、橋から2、3歩のところで足が進まなくなった。
「栄雪様、この空間には結界が張られているようです。解けるまで無理をなさらないように願います」素空は、玄々様に結界を解いてもらいたかったが、どのようにすればよいか思案した。既に2人の姿は承知している筈だったが、こちらの力を試しているのだろうか?素空は、玄々様の無反応を
素空はこの結界が敵対する者の仕業でないことを利用しようと思い、新たな結界の呪文を唱え、小さな結界をくっ付けるように作り、その結界の前で一心に経を唱えると、素空の結界が大きな玄々様の結界に呑み込まれて行った。
栄雪は、素空のしていることがどのようになるのか分からなかったが、結界同士が繋がったことはおぼろげに理解できた。
「栄雪様、そこからお入り下さい。私が作った結界の中にあったものはすべて、この入口を通れるようになりました」素空は、栄雪に続いて玄々様の作った大きな結界の中に入って行った。どうやらこの結界を自由に出入りできるのは、玄々様とあのカラスだけだったようです。しかし、私達も今自由に出入りができるようになったのです」素空は庵の屋根の上に止まっているカラスを指してそう言った。
庵の前に立つと、
素空は久し振りに身が引き締まった。中の老人が玄々坊と言うお方で、素空の推量では
「そなたが素空であるか?よう参った」老人は弱り切った顔で、自分の名を
素空は自分が
虚空は栄雪に目を移すと、にっこりと笑い庵の前の大きな踏み石の上に立たせ、何やら呪文を唱え始めた。すると、俄かに風が吹き始め、栄雪の周りだけ薫風に包まれ、栄雪の僧衣が見る見るうちに乾いて行った。
不思議だった。栄雪は弱り切った振りをしているが、『この老人は力を隠しているのだ』と思った。
素空も目の前で見る不思議な光景に、その秘密を探ろうと注意深く見守った。
その瞬間、虚空が言った。「素空よ、そなたは何も考えることはない。この秘儀も他の多くもこれからすべてがそなたのものになるからである。よいか、そなたには玄空に伝えねばならなかったすべてのことをこれから伝授し、我が意を継承してもらわねばならぬのだよ」
素空はおぼろげに、虚空の言ったことを理解した。
しかし、先ずは、虚空の弱った体を回復させることが急務だった。
庵の奥の土間には小さな
素空は持参した食料で10日は凌げるが、その後は尽きてしまうと見ていた。
栄雪が言った。「私はこれから克治様の家に戻ります。急げば日暮れには着く筈ですから、道中を共にして
この時、虚空の眼が光った。「素空や、鬼がいなくなったとはどのようなことか教えてくれまいか?その前に、栄雪に
破魔ガラスとはさっきまで栄雪が肩に乗せていた烏のことで、賢さと忠実さが身上だった。破魔ガラスは既に栄雪の肩に慣れていて、道中の相棒にはちょうど良かった。何より破魔ガラスは簡単な言葉を理解することができたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます