飛騨の仙人 その4

 素空は周りに注意を払った。暗闇は無数にあり、そのすべてが鬼だと言うことは察しが付いた。鬼の多くは手先を持っていて、打手妖うちでようが最初に現れたと言うことは、その後ろには更に強力な鬼がいると予想した。闇の塊は合体したり分離したりして、その姿が次第に認識できるようになると、5間(9m)ほど先の最も大きな闇に近付いた。無数の鬼に囲まれた状況では2人が圧倒的に不利になるため、先に動くことが上策だと判断した。

 素空が鬼に呼び掛けた。「この鬼たちの中で最も力のある鬼は誰か?それとも、お前等より強い鬼が他にいるのか?この結界の前に出て来て姿を現せ!それとも、我が調伏術が怖いのか?」すると、素空の2間前に巨大な暗闇が2つ、左右にその姿を現した。鬼は、上半身に手が4本、前と後ろに向いて使えるように肩から2股に生えていた。

 素空は次第に実体を持った鬼の顔を見た。2体共、邪悪に満ちた目が、半開きの口に薄笑いを浮かべて、素空を睨み付けた。

 素空が言った。「お前達は何者か?結界に取り付くとは大胆な奴、一体誰の手先なのだ!打手妖うちでようの配下なのか?」鬼はれていた。素空の言葉が終わる前に、打手妖は功をあせっただけの愚か者だと笑い捨てた。

 素空はそれを聴いて微笑みを浮かべ、右の鬼に名を訊いた。

 「我は爬眼妖はがんようで誰の手先でもないワ!お前達を餌食にするのが楽しいだけよ!」

 素空は左の鬼に問い掛けた。「ではお前は爬眼妖の手先なのか?それなら先に相手をしようぞ」

 左手の鬼は声を籠らせて笑い始め、やがて、素空を嘲るように言い放った。「わしが爬眼妖の手先だと?この齧歯妖げっしようが爬眼妖の手先であろう筈はない。こいつはわしの真似をしているだけのことだ。わしがこいつに劣ることはない」

 そこまで言った時、爬眼妖が牙を剥いて齧歯妖に襲い掛かった。2匹はもつれ合いながら結界の前で争った。素空はすかさず2匹の鬼を結界の中に取り込み、その中で争わせた。他の鬼達は、結界の中の2匹の争いをせせら笑いながら眺めていた。

 結界の中では齧歯妖の鋭い牙に肩口をザックリと食い千切られ、毒々しい黒い血のようなものを流していた。しかし、爬眼妖も黙っていなかった。食い千切った肩をうまそうに食べる齧歯妖の両目を鋭い指先で切り裂き、目を潰してしまった。2匹は最後の死闘を繰り広げ、結界の中で縺れ合った。

 その時、素空は2匹の結界を解き、他の鬼達の眼前に晒すと、弱り切った2匹の鬼は群がる鬼達の餌食になった。縺れ合ったまま殆んど原型を留めない残骸に調伏呪文を唱えて消滅させ、更に地面に残った痕跡も跡形なく消し去った。打出妖に施した調伏呪文だったが、威力は増していた。数珠から金色の閃光が暫らく続き、黒い塊は見る見るうちに小さくなって行った。地面に残った黒いシミに、数珠の端を当てて経を唱えると、地の底から吐き捨てるような胸糞の悪い悲鳴が聞こえ、もとの地面に戻った。

 素空が発した閃光によって、周りの闇が少し減り、素空を畏れる鬼達も現れた。素空が暗闇に数珠を翳すと、暗闇は消え去り明るくなった。

 素空は数を減らしながらも、2人を取り巻く闇のせいで前進できてない状況を危ぶんだ。このまま暗くなると、いたずらに死を招くようなものだった。

 「栄雪様、鬼の頭領は一体何者なのでしょうか?こうなれば1度会ってみたいものですね。このような雑魚を相手にグズグズしていても仕方がありません」素空は鬼達に聞こえるような大きな声で栄雪に語り掛けた。

 栄雪は、素空の企てを瞬時に理解して言った。「そうですね、鬼の中の鬼と言う者がいるのであれば、話のタネに会って言葉を交わしたいものです。浄土に参った折には良い土産話となりましょう」栄雪がいささか調子のよいことを言った時だった。周りの闇が消え去り、代わりに邪悪な気配が素空の周りに押し寄せて来た。

 邪悪な気配はこれまでにない強い気で覆われ、素空と栄雪をその気の中に呑み込もうとしているようだった。

 「栄雪様、このままではいけません。この鬼は最も邪悪で危険です。カラスが凍り付いたように動かなくなったのは、既に結界の中に力が及んだせいでしょう。経を絶やすことのないようご忠告いたします」素空は注意深く身構えた。

 素空も経を唱えたが、既に邪悪な気配は大きな魔力を素空に向けていた。結界の中の素空が地面から3尺(90cm)の高さに上げられたかと思った瞬間、結界の外に張り付けのような格好でだされてしまった。

 栄雪はどうすることもできないまま素空を見守った。邪悪な気配は1つの黒い塊のように、素空の前に収束し始め、やがて、小さな黒い塊になった。決して力が衰えた訳ではないことは、素空に掛かる力の加減でよく分かっていた。

 「お前が素空か?もっと力の強い相手かと期待したが、とんだ期待はずれだったわ。お前の命が手に入ることは仏の悲しみとなるであろうから、わしは大いに満足であるよ。さあ、どこから喰らおうか?腕か脚か、それともはらわたを喰らおうか?わしに喰らわれてもすぐには死なず、生きて苦しみぬいて死ぬのだよ。わしがいいと言うまで苦しみ、恨む心を持つまで死なせはしないのだ。フフフフフ」気味の悪い笑いを残して小さな黒い塊は消え去った。素空は結界の外で宙に浮いたまま、身動き1つできなかった。

 「素空様大丈夫ですか?私が言い過ぎたせいでしょうか?」栄雪は必死に素空に声を掛けた。しかし、ハッとして経を唱え始めた。如何なる時も仏から心をらしてはいけないことに気付いたのだった。素空の願いでもあったが、栄雪には、素空自身も今心の中で経を唱えている筈だと思った。

 素空は消えた黒い塊に向けて語り始めた。「お前は一体何者だ?私が知っているお方より遥かに力の弱いものが、1番の鬼であるかのように錯覚しているのではないか!地獄の鬼からはじき出された中途半端な出来損ないめ!名も名乗らず消え去る小ものが…1番であろう筈がない!」素空の声は辺り一面に聞こえた筈だったが、鬼から何の反応もなかった。鬼は、素空のこの状況を満足して見ているようだった。

 素空が、鬼に語り掛けた。「地伏妖じふくよう巖手妖がんでよう!…いるなら出て来い!お前達が鬼の中で1番であると聞いていたが、この鬼がお前達のいないのをいいことに、1番の鬼と言っているぞ!」

 素空は森中に聞こえるように大声で言い放った。すると、先の鬼が喰らい付いて来た。鬼の名を知っていたことが不思議な様子で口を開いた。「お前は地伏妖と巖手妖を知っているのか?あいつらはさっきの小鬼よりましだろうが、わしの敵ではないのさ。何せわしは鬼の中で1番強いからな!」

 素空はすかさず叫んだ。「地伏妖・巖手妖!いるならでて来い!今私の前にいる何んとか言う名のない小鬼がお前達を下に見ているぞ!でて来て懲らしめてやるのだ!」その時、邪悪な塊が素空に向かって怒りを露わにして言った。

 「わしは梵亡鬼ぼんぼうきと言う正真正銘の鬼である。地伏妖や巖手妖は鬼になれない半端ものだ。この場に現れたら食い殺してやるわ!ワッハッハハハハ」邪悪な言葉を散々言い放ち、高笑いした。

 素空は追い打ちを掛けるように、更に語り掛けた。「お前がどう思おうと勝手だが、お前が半端もの扱いをする鬼達が、総掛かりで襲い掛かるとどうなるのかな?お前が1番の座にいることは他のすべてが嫌っているのだとすれば、何時寝首を掻かれるか?安心できまい!お前に一斉に飛び掛かるとお前はなすすべなく食い千切られるのだ」

 素空の言葉は暗闇の鬼達を喜ばせ、梵亡鬼ぼんぼうきに一斉に飛び掛かり食い千切ろうと暴れだした。梵亡鬼は思っても見なかった状況に困惑しながら、喰らい付く鬼達を払いのけたり潰したり、果ては嚙み返したりして応戦した。鬼達の争いは凄まじく、最強を誇った梵亡鬼も食い千切られて小さな塊になっていた。梵亡鬼の衰退と共に、素空をはりつけにした力も消え去り、素空の数珠の下で消滅した。

 素空は残った数匹の手負いの鬼に調伏呪文を施し、最後に経を唱えて消滅させた。

 地面に落ちた無数の黒い塊に数珠を翳して経を唱えると、黒く染まった地面が綺麗に元に戻り、鬼達のすべてが消滅した。素空と栄雪は完全に窮地を脱したのだった。

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