飛騨の仙人 その2

 素空は大日如来像の作者を、仏師真空ぶっししんくうではないかと尋ねたが、克治はあっさりと否定した。

 「これは玄々様げんげんさまからここで直々に彫って頂いたもので、『この家の者以外には人目に触れないようにしておくれ』そう言われて、未だ嘗て近所の者にも見せたことなどないのですよ」

 素空は不思議な思いに囚われていた。真空が存命で、自分が探し求める虚空が、何時しか真空と入れ違ったような思いだった。素空は口の中で玄々様と言う仙人の名を何度も繰り返し、真空と虚空の2人の類稀な仏師を結び付けようと試みた。

 素空は混乱していた。真空が生きているとすれば100才を越えているだろうし、150才の仙人には1番近い人物であり、大日如来の姿もまさしく真空の彫り方だった。しかし、この時素空はハッとしてひとつのことに思い当たった。

 『虚空様が、真空様と同じ彫り方をした時、お2人の作を見分けることはできない筈だ。虚空様は既にご自分の特徴を捨てて、真の御仏をお彫りになっていたのだろうか?」素空は渾沌とした思いから脱し、晴れやかな思いで仏壇の如来像を脳裏に焼き付けた。

 素空が言った。「ご主人がお彫りになった御仏像には人を気遣う徳が込められているのです。これよりそとの彫り物は、もう1度心を尽くして手直しなさいませ。こちらの御仏像と同じ物となりましょう」

 そして、更に言った。「玄々様は私達が捜し求めている虚空様であることに間違いなさそうです。いずれ玄々様のお住まいに伺うことになるでしょうから、どの辺りかお教え願えませんか?」

 克治は困った顔をして言った。「玄々様から聴いただけで、行ったことがないのですが、私の思い描いた景色を申しましょう」

 素空にはそれで十分だった。玄々様が語る風景は、克治の思い描く風景を承知してのことだと信じていたからだった。

 克治が言った。「そこの道を真っ直ぐお山に向かって歩きだすと、2里ほど行ったら道が二股に分かれ、右側の細く険しい道を上って行くのさ。左の道も終いにはまた右の道に繋がるんだが、左はとにかく遠回りらしいのですよ。半里ほど先のところを右に折れたたら、玄々様がおいでらしいのですが、左の道とは入り口のすぐ手前で合流するらしいのです。入り口には葛の橋があるからそれが目印です」克治はひと息吐いてまた説明した。

 「右に折れると谷になっていて、橋には玄々様の呪文がかかっていているので、くれぐれも、邪心を持って渡らないようにとおっしゃっていました。邪心のある者は必ず落ちるだろうとおっしゃっていましたよ」

 素空と栄雪は最後の言葉に引っ掛かった。『邪心を持つ者と持たない者をどのようにして見分けるのだろうか?』

 素空は何時になく考え込んだ。『橋の上を歩く者の心を読み取ることができるのだろうか?玄武堂げんぶどう仁王像におうぞうを見た時に感じたように、何らかの意図を持って作ったのだろう…』素空は未知の秘技があるのかも知れないと、玄々様と呼ばれる仙人が、仏師虚空であることを願っていた。

 この日の夕食には鯵の開きがだされた。栄雪が持参した物だったが、労せずして虚空の手掛かりに行き着き、金子と食料の大半は不要になっていた。栄雪は、虚空への手土産に半分を残して、後はすべてハツに手渡していた。

 食事の豪華さに喜んだのは克治とハツだった。「海の物は久し振りに口にするが、美味いもんだなあ、おハツ」克治が満足げにハツに同意を求め、ハツもニッコリと笑顔を返した。栄雪は何とも質素な生活に耐えて、それでも明るく生きている2人に、仏の慈悲があらんことを願った。

 「この辺りでは米を口にするのは盆と正月と京に行った時だけです。このように海の物をおかずに米の飯を頂けるとは勿体ないことです」克治は目を潤ませながら、ハツを見た。

 夕食の片付けがすんだ頃、すっかり綺麗になった仏間に素空の声が響きだした。素空の声は胸奥に直接響き、克治夫婦に心の安らぎをもたらした。

 2本目の経が始まった頃、2人は仏壇の大日如来像が金色に輝くのを確かに見た。

 殆んど目を瞑っていたのだが、経の切れ目に息を大きく吸い込んだ瞬間、大日如来像が金色の光に包まれて姿が見えなくなったのだった。2人は畏れてすぐに目を閉じて暫らく後にまた目を明けたが、その時には普段の姿に戻っていた。2人はこの初めての体験を、本当のことかどうか不安に思ってジッと考えた。金色に輝いただけなのかも知れないと思い込もうとするかのように、2人はそのことから遠ざかろうとした。3本目の経が始まる頃には、克治夫婦は冷静になり、一心に素空の経をなぞるように唱えた。金色の輝きが現れるかもしれないと思い、時折目を明けて見たが2度と見ることはできなかった。

 克治夫婦は経が終わると清々しい気持ちになって、2人がそれぞれに見た金色の輝きには触れることなく床に就いた。

 素空と栄雪も客間に戻り床に就いたが、栄雪が何やら心に引っ掛かっていることを尋ねて来た。「素空様、虚空様は何故真の御姿に近づけようとしたのでしょうか?仏師の特徴を表しても本物には違いないことでしょうに…天安寺に残るのも、鏡のお堂にあった2体も虚空様の手になるものです。今になって何故癖を隠さねばならなかったのでしょうか?」

 素空は考えたが答えなど出る筈がないことを承知していた。虚空は、素空の想像を遥かに超えた世界に身を置いているからで、すべてが分かるには是が非でも会わなければならないのだった。

 次の日、素空は朝食の前に克治と畑を見に行った。克治の案内で桑畑と穀物畑を見た後、家の裏手の野菜畑を見て回った。

 「今のところ年貢を納めていないので何とか凌げるのですが、役人が来て検地をされればすぐに年貢を納めることになるのですよ」克治は暗い顔で言った。

 「以前はお蚕様と笏を商う者として上納金を治めればよかったのですが、御領主様が代わると何かと心配の種が増えるのです」

 素空は笏の外に京で商いになる物を探したらよいと言ったが、克治はろくに思案もせずに諦めているようだった。素空は克治を説得するのを諦めて、彫り物に使うための一位の木の乾燥材を分けてもらうと、栄雪と共に彫り物に没頭し始めた。

 「素空様、これまでの彫り物とはまったく違って何と小さいことでしょう。一体何をお彫りになるつもりですか?」栄雪は明らかに仏像ではない何かの彫り物をするために、楠材を12個の異なる太さに切りながら言った。

 「栄雪様、もう暫らくご覧になっていて下さい。1つ2つ彫るうちに答えに辿り着く筈です」素空は微笑んで黙々と拳大の材料に切り出しを当て始めた。12個の材料は異なる形に粗彫りされ、更に中彫りされた頃栄雪が声を上げた。

 「十二支じゅうにしですね!今ようやく分かりました」栄雪は喜びに満ちた顔を素空に向けて言った後、急に疑問が生じたようで、素空に何のために彫るのか尋ねた。

 「これは克治様の生活を支えるものです。如何なる者もこの信心深いお2人から無用な搾取をすることがないよう願ってのことです」

 栄雪には何のことかよく分からなかったが、素空の答えがハッキリしない時はそれ以上訊くまいと決めていた。

 2日目の夕刻、夕食の後に素空は十二支の彫り物を克治に披露した。

 「克治様、見事な御仏像を彫るほどの腕をお持ちなら、干支の彫り物など造作もないことでしょう。毎年翌年の干支を彫り、神無月かんなづきまでに京屋分家岩倉屋きょうやぶんけいわくらやさんに扱って頂くと良いでしょう。数は毎年同数ずつを納めるのです。笏が克治様の誇りであるなら、干支の彫り物はこの家の暮らしの糧となることでしょう」

 克治は見事な干支の置物に目を奪われ、これを真似て心を込めて彫り上げることを約束した。最後に素空は、欲張って数を増やさず、毎年30体ずつに留めるようにと忠告することを忘れなかった。

 2日目も仏間に荘厳な時が流れて、克治夫婦は心洗われる思いだった。経が終わって床に就いてから、枕元の干支の置物に目を向けると、文机の上で何やら小さい生き物が蠢いているような気がしてハツを起こして言った。「おハツ、おハツや起きてご覧!文机の上に何かが動いているようだ」

 ハツは寝入りばなを起こされて不機嫌そうに文机を見遣った。かすむ眼が次第に文机の上の置物を捉えた時、突然克治にしがみ付いた。克治の陰から覗き見ると、ネズミやトリやサルたちが文机の上で生きているように動いているではないか。

 「お前さん、動いているよ!置物が動いている!ほら、見えるだろ!」ハツは狼狽し、亭主が見えたからこそ、自分が起こされたことをすっかり忘れたように言った。

 外の薄明かりの中でも、文机の上はハッキリと見えていた。

 「こんな勿体ない物を俺にまねができるか心配だが、一生懸命真似してみるよ」克治はそう言うと両手を合わせて文机の上にある12の彫り物に手を合わせた。

 克治は横になってからも気になって文机を見遣ったが、置物は元の姿のまま動くことはなかった。 

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