第7章 飛騨の仙人 その1
素空は
百姓家の亭主が答えた。「ここいらにゃお坊様はいないが、
百姓家の亭主はそれだけ言うと顎をしゃくって道の先を指し示した。
素空と栄雪は歩きながら仙人について語り合った。「150才の仙人とは本当でしょうか。仙人とは
「そうですね、私もそう思います。玄々様と言うお名前が、虚空様との関りを思い起こさせないのが気になるところですが、150才とは信じ難いところです」素空は心の中で、玄々様が虚空の別名であって欲しいと思った。
山道を1里ほど歩いた頃、行く手の斜面が急に険しくなろうとするところに、1軒の藁葺屋根とその向こうに1反ほどの耕地が見えた。
素空はその家でいちいの笏造と玄々様のことを尋ねた。
「わしはいちいの笏造と呼ばれているが、
素空は更に尋ねた。「玄々様は虚空と言うお名前を持ってはいないでしょうか?また、僧であったとか、仏師であったとか仰せではなかったでしょうか?」
「いいや、玄々様は人間であった頃のことは何1つおっしゃらないから分からないねぇ。ここにおいで下さるのは、恐らく2日後になる筈だから、それまでここに泊まって待つことだ」克治はそう言うと、女房を呼んで2人の僧に濯ぎを取らせ、狭いが幾部屋もある中の1部屋に案内した。女房の名はハツと言い、小太りの丈夫そうな気のいい女だった。奥の小さな部屋に着くとハツが言った。「お坊様、この部屋は玄々様がお使いになるお部屋ですから、綺麗に使って下さいよ」
素空は荷物を置くと、仏間に案内してもらおうと思った。どの家でもそうだが、仏間を見ればその家の信心深さがすぐに分かるのだった。信心深い家の者には経を唱えるだけですますのだが、不信心な家の者には仏間、仏具の掃除を勧め、日頃から仏に近付き慈悲を乞うよう説くのだった。
果たして、克治夫婦は、2人の僧にどうしても仏間を見せることを嫌がって、素空の申し出を断った。素空は不思議な思いで2人を見ていた。『決して不信心でも、仏壇を持たないのでもなかったようだが、何故頑なに拒んだのだろうか?』素空は断られたものをどうしても見ようとは決して思わなかったが、栄雪は違った。
栄雪は、素空のそうした潔癖さとか誠実さを尊いと思いながら、素空に替わって見届けるのが自分の務めだと思っていた。
素空は客間に戻ると、東の壁に向かって経を唱え始めた。素空の経は克治の仕事場に緩やかに流れるように響き始め、やがて土間を抜けて外に流れだした。ハツも勝手口から漏れ出す流れに心が洗われるような心地よさを感じてその場に立ち尽くした。
克治夫婦は『若い僧の経である筈だが、まるで玄々様の唱える呪文のようだ』と素空がただの若い僧ではないと気付き始めた。2人は素空の声をなぞるように経を唱え、仕事を忘れて客間に近付いた。
素空は客間の外に克治夫婦が立っていることを知り、客間の中に招じ入れた。
客間は経を唱える4人の声で満たされ、部屋の中に陽が差したような晴れやかな思いをもたらした。
経がすむと克治夫婦は『お坊様』という言い方を止め、『素空様』と名前で呼ぶようになった。次第に打解けた頃、ハツが夕食の支度に取り掛かり、克治も笏の品定めを始めた。
克治は笏を毎回100本ほど
栄雪はこの時を待っていた。克治の笏を眺めた後、素空をそこに残し、客間に戻る振りをして仏間を探し当てて引き戸をひらいた。
一瞬度肝を抜かれてたじろいだが、もう1度中を覗き込んだ。仏間を探して引き戸を開くまでは後ろめい気持ちもあったが、今の栄雪は一変して大胆だった。
狭いながら仏間の中はありとあらゆる仏像が置かれて、足の踏み場もないほどだった。栄雪は仏壇を探すと、何かの手掛かりがないか調べ始めた。この家の本尊は
栄雪が見たところ本物の姿をしていた。『素空様に見て頂くのが1番なのだが、恐らく仏間に入ることを拒むだろう。一体どうすればよいやら…』
栄雪が思案しているうちに仏間の戸が開き、中がパッと明るくなった。
「お坊様、仏間に入ることは固くお断りした筈です!」
栄雪がドキッとして振り向くと、そこには脹れっ面をした克治と、その後ろに素空の姿があった。
栄雪は狼狽し、口の中でモゴモゴと言い訳のようなことを言って赤面し、深々と頭を下げて謝った。
克治は、栄雪の姿が滑稽だったため、思わず笑みをこぼして言った。「栄雪様、よいのですよ。素空様に乞われて中をお見せしようと、お連れしたところなのです」
栄雪はホッとするやら、ガッカリするやらで、自分の浅知恵を悔やんだ。
素空が言った。「栄雪様、このお部屋は玄々様がいらっしゃる前に片付けるおつもりだったらしいのです。彫り貯めた御仏像を見て頂くために、中にある物のうち良い物から順にお見せするおつもりだったらしいのですが、私達が邪魔をしたことになるので、お手伝いをしようとここにお連れ願ったのです」
素空はそう言うと仏間の中に入って仏像を一通り眺めた。良いと悪いの間を行ったり来たりしているような、何とも心模様を疑いたくなるような並びだった。
「ご主人、この並びはお彫りになった順に並べているのですか?」素空が尋ねると、克治がすぐに答えて言った。「いいえ、おハツが納屋から出した物を、奥から順に並べただけなのです」
素空は新しい物から順に奥に置くように告げると、その様子を眺めて加勢し始めた。素空は次々と克治に手渡し、克治はそれを受け取るだけで精一杯になった。
「いやはや、お陰様で随分はかどりました。それにしても、なぜ彫った順序がお分かりになったのでしょうか?」そう言うと素空の顔を覗き込んだ。
素空は克治の疑問には答えず、良い物だけを見せるよう助言し、区切り目を示した。すると、克治が思い出したように語り始めた。「これは昨年の春からですね。そう言えば昨年の冬は未曾有の大雪で、山においでの玄々様がご無事でいらっしゃるかそればかりが心配でした」克治はその頃を思い出すように目を細めて、玄々様のことを思い出していた。
素空がそれからどうなったのか尋ねると、克治が目を瞬かせて言った。
「2月の終わり頃、最後の大雪が降りました。すると、その翌日ひょっこりこの家まで遣って来て、こちらの様子を訊いて、ご自分のことは心配いらないとだけおっしゃられて帰りました。戸口で声を掛けられたのは確かですが、来る時も帰る時も足跡1つ残していません。これは玄々様が仙人様でいらっしゃる確かな証拠です」
克治は、玄々様が仙人だと言う証拠を他にも知っている様子だったが、素空はもはや仏壇の奥の大日如来像に興味を惹かれていた。
「ご主人、この家の御本尊様を拝見させて頂いても良いでしょうか?」素空は金色の強い輝きを示す大日如来像の姿を恭しく拝観した。素空が瞑想のうちに出会った如来の姿とまったく同じで、なおかつ彫り手の特徴がまったくない真の姿だった。素空にはこの大日如来像の作者にただ1人だけ思い当った。
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