戦場の霊 その4
小半時した頃、表通りで托鉢していた素空と落ち合い、探し出した市へと向かった。市は街外れの広場で開かれていた。海の物は殆んどなく、鶏やその卵、猪肉や山鳥の燻製、川魚など肉や野菜や果物、五穀などが所狭しと並べられていた。
栄雪はひとたび市に入ると俄然大胆になり、僧だと言うことを忘れたかのように
この日、2人は郡上八幡の旅籠で1夜を過ごすことにした。
明くる朝、郡上八幡の宿を出て、
素空のただならぬ表情を見て、事態が相当切迫しているのだと感じ、栄雪も真剣な表情に変わった。
素空が言った。「今宵はこの先の
素空が答えて言った。「さようです。アララギはイチイの別名で、笏を京に献上したことで
栄雪は、素空の言葉を聴いて希望が膨らんだ。雲を掴むような人捜しに、初めは途方もないことだと思っていたが、こうして飛騨まで来ると虚空の方から近付いて来ているようだった。
追原は街道沿いとは言え、閑散として通りや軒先に人の気配が感じられなかった。栄雪は廃墟のような街並みに不安を覚え、追原の殆んどの家が鬼に巣食われたような恐怖に駆られた。
「素空様、鬼とは
素空が暫らく考えてから答えた。「私達が出会ったのは2匹の鬼でしたが、人の姿が人それぞれに違うように、鬼も様々に違ったものがいることでしょう。それも、夥しいくらいに数多の鬼が人目を避けて潜んでいることでしょう。世の中はあまりにも広く、従ってそれに値するほど人も多く、悪心を持った者は計り知れず、それに取り付く鬼の数は相当に多いと思わなければなりません」
栄雪はそこいらじゅうから鬼が覗いているような嫌な気分になり、背筋が凍るような寒気がした。「この世から鬼を根絶することはできないのでしょうか?」
素空が答えて言った。「人のすべてが御仏に倣いて生きる世であれば、鬼がこの世で生きて行くことはできません。しかしながら、人の心に罪に負ける弱さがある限り、鬼を根絶することはできないのです」
素空は更に声音を変えて言った。「地伏妖や巖手妖は魂に取り付くのですが、生きる人間に取り付くのは人の心の鬼、悪心が作り出す心の中の鬼なのです。やがて、悪心を持って死ぬ者の魂には、更に大きい鬼が取り付くのです」
2人は追原で街道筋から少し入った小さな
「素空様、この2振りの刀は何時頃祀られたのでしょうか?このままでは手入れもできず、錆びるばかりでしょうに。如何いたすのでしょうか?」
素空は、栄雪の疑問が分からない訳ではなかったが、祀る時には後に手入れをすることは考えに入れておく筈だと思って、どこに細工を施したのか見定めることにした。
栄雪の心配は尤もだった。社殿の奥には2本の太い柱があり、柱の半分ほどに丸い穴が明けられ、その穴に刀の
素空は四角い1尺柱を上から下まで注意深く眺めた。すると、刀を差し込んだ穴の両端に小さな亀裂が2本天井から床まで続いていた。素空はこの2本の亀裂を不自然なことだと思い、何度も見比べた。1本は確かに本当の亀裂だったが、もう1本は巧みに作り上げられた
素空は暫らく考えて、床下に入ろうと決めた。柱はその重量のせいで床下から直接床と天井を突き抜けて
礎石の上1尺ほどに入った止め木を外すと、刀まで伸びた2本の亀裂に沿って挟まれた板が下りて来た。刀の鞘側が1尺ばかり下がったため、2本の刀はようやく取り出すことができた。
素空は社殿に戻ると、刀を検めた。2本のうち、1方の刀に何者かの気配を感じて経を唱え始めると1体の霊が現れた。
霊の名は
素空が刀に手を掛けると、刀の主が言葉を掛けて来た。「ご坊は一体如何なるお方か?この仕掛けを簡単に見破った者など初めてのことだったわ」
菅野寅之進は50才を越えた瘦せ型の武士で、抜け目なさそうに素空を眺めていた。「わしがこの世に残ったのは、関ヶ原からの
菅野寅之進はこの世に残った訳を話すと、刀のことに付いて語った。「刀は1方がわしの物で、もう1方が敵方の武将
その時、素空が何故この刀に封じ込められたのか訊くと、菅野寅之進はあっさりと答えた。「霊となった後に関ヶ原の辺りには、未だ成仏できない多くの霊が、地中の骨の中で蠢いていることを知ったからなのだ。わしの配下の殆んどが関ヶ原の骨の中で蠢いていることであろう。その霊達が何んとか成仏できないのか、また、行く末がどうなるのか知りたかったのだ。虚空様に訊くと、20年ほど経った頃にはすべての霊が成仏するだろう、と言うことだったからこれまで辛抱して来たのだった」
素空は意外なことを耳にしたように思い、もう1度念を押した。
「20年ほど経った頃とは今時分ではありませんか?」
今度は栄雪がハッとして口を開いた。「それは素空様のことです。虚空様より力の強い僧とは、紛れもないあなた様のことです!」
栄雪は確信に満ちていた。しかし、素空はもう1人の素空の存在を疑うことがなかった。なぜなら、自分が虚空より力の強い僧である筈がないからで、そのことは自分が1番知っていることだった。
素空が、菅野寅之進の霊に語り掛けた。「菅野様、今しばらくお待ち下さい。もう1人の素空様が参った時、あなた様の願いが成就するでしょう。私達は明朝早く位山を目指して、虚空様の消息を尋ねなければならないのです」素空は沈痛な思いで語った。
素空と栄雪はその後経を唱え始め、菅野寅之進の心を沈め念願が叶うよう祈った。
素空の声は菅野寅之進の心に響いた。辛い孤独の20年を刀の中で蠢きながら、ただひたすら待っていたのだった。素空の経は菅野の心を癒し、近まるその日への期待を膨らませて行った。
3本の経がすんだ時、菅野寅之進の霊は静かに刀の中に籠り、素空はやがて叶うだろう成仏の日が1日も早く来たらんことを願った。
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