戦場の霊 その4

 郡上八幡ぐじょうはちまんは賑やかな街だった。栄雪は市を捜して小半時、あちこちの辻を覗いては引き返していた。土地の者に市の場所を聞くと良かったのだが、僧でありながら物々交換の干し魚を背負った後ろめたさがあり、どうしても聞くことができなかった。

 小半時した頃、表通りで托鉢していた素空と落ち合い、探し出した市へと向かった。市は街外れの広場で開かれていた。海の物は殆んどなく、鶏やその卵、猪肉や山鳥の燻製、川魚など肉や野菜や果物、五穀などが所狭しと並べられていた。

 栄雪はひとたび市に入ると俄然大胆になり、僧だと言うことを忘れたかのように商人然あきんどぜんとしていた。そのせいか交渉相手の受けがすこぶるよく、栄雪が持ち込んだ干し魚はすべて高値で交換してもらった。素空は、栄雪の商才の神髄を見た思いで感心するばかりだった。

 この日、2人は郡上八幡の旅籠で1夜を過ごすことにした。柏原かいばらを出てから風呂に入っていなかったし、山道の旅に備えて休養を十分に取りたかったのだ。2人はこの日、久し振りにぐっすり眠った。

 明くる朝、郡上八幡の宿を出て、郡上街道ぐじょうかいどうを暫らく歩くと関ヶ原と同じような塚が目立つようになって来た。素空と栄雪は1つひとつに手を合わせて短い経を唱えたが、素空は妙な胸騒ぎを覚えて塚の前で五体を地に伏せた。幾つかの塚の前で試みたが、すべての塚に霊の気配がなかった。素空は背筋が凍り付くような寒気を覚え、栄雪に道を急ごうと伝えた。

 素空のただならぬ表情を見て、事態が相当切迫しているのだと感じ、栄雪も真剣な表情に変わった。

 坂本峠さかもととうげ美濃みの飛騨ひだ国境くにざかいにあり、既に険しい山道だった。郡上街道の端は高山たかやまだったが、素空は、虚空が高山になどいよう筈はないと分かっていたし、気になる場所は位山くらいやまの裾野の辺りだと目星を付けていた。

 素空が言った。「今宵はこの先の追原おいはらで1夜を過ごしましょう」素空はそう言うと、位山の周辺には一位イチイの木があり、昔からしゃくの材料として使われていたことを教えた。栄雪が言った。「笏とは公家くげの持つ平たい板のことですか?イチイとはアララギのことですね?…虚空様の所在など、私には見当も付かぬことですが、素空様には何かの決め手がおありなのでしょうね?」

 素空が答えて言った。「さようです。アララギはイチイの別名で、笏を京に献上したことで一位いちいくらいを賜ったと聞いています。飛騨で彫り物と言えば、飛騨の匠が見せる鑿の技でしょうが、虚空様と言うお方はそのような場を好まないと存じます。笏であれば切出しの技で繊細な曲がりを作る手並みは、御仏の衣を仕上げる如くですから、これこそ虚空様のお好みのことかと存じます」

 栄雪は、素空の言葉を聴いて希望が膨らんだ。雲を掴むような人捜しに、初めは途方もないことだと思っていたが、こうして飛騨まで来ると虚空の方から近付いて来ているようだった。

 追原は街道沿いとは言え、閑散として通りや軒先に人の気配が感じられなかった。栄雪は廃墟のような街並みに不安を覚え、追原の殆んどの家が鬼に巣食われたような恐怖に駆られた。

 「素空様、鬼とは地伏妖じふくよう巖手妖がんでようの他にどれぐらい潜んでいるのでしょうか?」栄雪はかねてからの疑問を素直に口にした。

 素空が暫らく考えてから答えた。「私達が出会ったのは2匹の鬼でしたが、人の姿が人それぞれに違うように、鬼も様々に違ったものがいることでしょう。それも、夥しいくらいに数多の鬼が人目を避けて潜んでいることでしょう。世の中はあまりにも広く、従ってそれに値するほど人も多く、悪心を持った者は計り知れず、それに取り付く鬼の数は相当に多いと思わなければなりません」

 栄雪はそこいらじゅうから鬼が覗いているような嫌な気分になり、背筋が凍るような寒気がした。「この世から鬼を根絶することはできないのでしょうか?」

 素空が答えて言った。「人のすべてが御仏に倣いて生きる世であれば、鬼がこの世で生きて行くことはできません。しかしながら、人の心に罪に負ける弱さがある限り、鬼を根絶することはできないのです」

 素空は更に声音を変えて言った。「地伏妖や巖手妖は魂に取り付くのですが、生きる人間に取り付くのは人の心の鬼、悪心が作り出す心の中の鬼なのです。やがて、悪心を持って死ぬ者の魂には、更に大きい鬼が取り付くのです」

 2人は追原で街道筋から少し入った小さなやしろの中で1夜を過ごすことにした。社の祭神は少彦名命すくなひこなのみことだったが、社殿の奥は奉納された2本の刀を祀るためにちょっとした細工がしてあり、刀の存在は分かっても容易に取り出すことができないようになっていた。

 「素空様、この2振りの刀は何時頃祀られたのでしょうか?このままでは手入れもできず、錆びるばかりでしょうに。如何いたすのでしょうか?」

 素空は、栄雪の疑問が分からない訳ではなかったが、祀る時には後に手入れをすることは考えに入れておく筈だと思って、どこに細工を施したのか見定めることにした。

 栄雪の心配は尤もだった。社殿の奥には2本の太い柱があり、柱の半分ほどに丸い穴が明けられ、その穴に刀のつかさやの先端が入り、抜くことも叩き出すこともできないようになっていた。太いひのきの1尺柱を動かす時は、この社を壊す時だと思わせるほど、社殿に不釣り合いな柱の太さだった。

 素空は四角い1尺柱を上から下まで注意深く眺めた。すると、刀を差し込んだ穴の両端に小さな亀裂が2本天井から床まで続いていた。素空はこの2本の亀裂を不自然なことだと思い、何度も見比べた。1本は確かに本当の亀裂だったが、もう1本は巧みに作り上げられたにせの亀裂だった。

 素空は暫らく考えて、床下に入ろうと決めた。柱はその重量のせいで床下から直接床と天井を突き抜けてはりに繋がれているようだった。素空の見立て通り、社殿を造る時に柱がなくては成り立たない構造のようだった。素空は床下に細工をしているのを確認すると、彫りの道具の中から、つちのみを持ってもう1度床下に潜った。

 礎石の上1尺ほどに入った止め木を外すと、刀まで伸びた2本の亀裂に沿って挟まれた板が下りて来た。刀の鞘側が1尺ばかり下がったため、2本の刀はようやく取り出すことができた。

 素空は社殿に戻ると、刀を検めた。2本のうち、1方の刀に何者かの気配を感じて経を唱え始めると1体の霊が現れた。

 霊の名は菅野寅之進すがのとらのしんと言う侍で、関ヶ原から落ち延びる時、追手に打ち取られたのだった。菅野も、土師宗右衛門はじそううえもんと同様にこの世に未練を残して身罷った武将だったが、刀や武具が見事だったため鎧兜よろいかぶとは売り払われ、刀は或る侍大将に引き取られた。しかし、ほどなくしてその侍大将は寝首を掻かれ、次の男も腹を裂かれてすぐに死んだ。4人目が死んだ頃から妖刀ようとうの噂が広まり、菅野寅之進が打ち取られた付近のこの社に刀が奉納されたのだった。奉納されてから既に25年ほど経っていたが、2度ほど盗難に遭い2度とも無事に戻って来た。そのため、20年ほど前に社の改修の時にこのような細工が施され、抜くに抜かれぬ宝刀になったのだった。

 素空が刀に手を掛けると、刀の主が言葉を掛けて来た。「ご坊は一体如何なるお方か?この仕掛けを簡単に見破った者など初めてのことだったわ」

 菅野寅之進は50才を越えた瘦せ型の武士で、抜け目なさそうに素空を眺めていた。「わしがこの世に残ったのは、関ヶ原からの落人おちうどとして追原で討ち死にした時だった。敗走の途中我が屋敷の金品をせがれに託し、菅野家再興を果たして欲しかったからだ。わしの願いはすぐに叶い、倅の枕元に立つことができたが、また一方で、成仏できない苦しみを背負うことになったのだ」

 菅野寅之進はこの世に残った訳を話すと、刀のことに付いて語った。「刀は1方がわしの物で、もう1方が敵方の武将武井某たけいなにがしの物で、わしを討ち果たした者の刀なのだ。これもわしのたたりとして25年ほど前に奉納された物だ。庄屋の源兵衛げんべえと言うお方が、20年ほど前に虚空こくうと名乗る僧に頼んで奉納の2振りの刀を盗難に遭わぬよう細工を頼んだのだよ。庄屋の願いはすぐに聞き入れられ、社の建て替えに合わせて虚空様が細工を施されたそうなのだ。その時、わしは成仏をさせてもらうことになったのだが、わしは断って刀の中に封じ込められたのだよ」

 その時、素空が何故この刀に封じ込められたのか訊くと、菅野寅之進はあっさりと答えた。「霊となった後に関ヶ原の辺りには、未だ成仏できない多くの霊が、地中の骨の中で蠢いていることを知ったからなのだ。わしの配下の殆んどが関ヶ原の骨の中で蠢いていることであろう。その霊達が何んとか成仏できないのか、また、行く末がどうなるのか知りたかったのだ。虚空様に訊くと、20年ほど経った頃にはすべての霊が成仏するだろう、と言うことだったからこれまで辛抱して来たのだった」

 素空は意外なことを耳にしたように思い、もう1度念を押した。

 「20年ほど経った頃とは今時分ではありませんか?」

 今度は栄雪がハッとして口を開いた。「それは素空様のことです。虚空様より力の強い僧とは、紛れもないあなた様のことです!」

 栄雪は確信に満ちていた。しかし、素空はもう1人の素空の存在を疑うことがなかった。なぜなら、自分が虚空より力の強い僧である筈がないからで、そのことは自分が1番知っていることだった。

 素空が、菅野寅之進の霊に語り掛けた。「菅野様、今しばらくお待ち下さい。もう1人の素空様が参った時、あなた様の願いが成就するでしょう。私達は明朝早く位山を目指して、虚空様の消息を尋ねなければならないのです」素空は沈痛な思いで語った。

 素空と栄雪はその後経を唱え始め、菅野寅之進の心を沈め念願が叶うよう祈った。

 素空の声は菅野寅之進の心に響いた。辛い孤独の20年を刀の中で蠢きながら、ただひたすら待っていたのだった。素空の経は菅野の心を癒し、近まるその日への期待を膨らませて行った。

 3本の経がすんだ時、菅野寅之進の霊は静かに刀の中に籠り、素空はやがて叶うだろう成仏の日が1日も早く来たらんことを願った。


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