戦場の霊 その2

 素空は酉の下刻とりのげこく(午後7時)に夜の勤めをするために仏間を借りようとした。夕食の前に既に申し伝えていたので、関原孫士朗は自分の寝室に案内した。仏壇が置いてある寝室は、客間と壁を挟んだ反対側にあり、昼でも薄暗い部屋で陰気臭い空気に満ちていた。

 素空は仏壇に向かった時、この家の主が奥方への思いだけを胸に生きていると思った。仏壇は綺麗に掃除され、奥方の遺品が周りを飾り立てていたが、どれも皆、よく手入れされていた。素空は、関原孫士朗の陽気な笑顔の裏に、暗い孤独な世界があることを哀れに思った。素空は、亡き奥方への消え去ることのない愛情を、身罷るその時まで持ち続けるようにと、関原孫士朗のために心を尽くして経を唱えた。

 素空の経は部屋全体に共鳴するように深く鋭く響き、障子を震わせた。

 関原孫士朗は驚き、素空を見てたじろいだ夕方のことを思い出した。『何んと言うお方だ。若い僧にこれほどの畏れを感じたことがないばかりか、このお方のお経を聴くだけでもただならぬお方であることが分かるよ』

 関原孫士朗が驚き畏怖したように、伊勢次と女房のクマも仕事の手を止めて、主の寝室に向かって手を合わせて経をなぞった。2人は正直者だったが決して信心深くなかった。2人の生活は善と言う常識のうちで暮らすうちに、信仰による善悪から離れてしまったのだった。つまり、善には2通りあり、人の前の善と、神仏の前の善であるが、伊勢次夫婦はそんなことには頓着していなかったのだ。素空が後にこの家に逗留する時に、そのことは改められ、仏の道を知ることになるのだった。

 素空は経が終わって、関原孫士朗に言った。「関原様、ご仏壇にはあなた様の奥方に対する深い思い遣りが表れているようでした。ですが、ご仏壇の場所はあまり良いとは思えません。できれば隣の角の部屋がよいでしょう。できるだけ明るい場所があなた様と、奥様の心を繋ぐにふさわしいと存じます。寝所に仏壇も悪い訳ではありませんが、仏間が暗すぎるのは如何なものかと思います」

 素空にこうハッキリ言われては、関原孫士朗も考えない訳にはいかなかった。

 宗派が違うとは言え、同じ仏道にある素空の言葉がただならぬ力の裏付けによるものと気付いてのことだった。

 「承知いたしました。早速明日にでも場所を移すことにいたしましょう」関原孫士朗はそう言うと、持ち前の陽気な顔で笑い飛ばした。

 亥の刻いのこく(午後10時)になって素空は外にでて行った。皆寝入って、素空の行動に気付いていない様子だったが、素空が1町(100m)ほど歩いて行くと、ひたひたと人の足音のような音が聞こえてふと立ち止まった。素空が止まるとその足音も止まり、歩きだすと1歩遅れて付いて来た。素空は歩きながら考えた。『これは狸か狐の仕業に違いない。どのような子細があるのか、問うてみたいものだ』素空は立ち止まると、5間(9m)ほど後ろで身を潜めているモノに見られないように左右に石積みを始めた。2間歩いてはまた左右に石積みをして、4個の石積みで道を二の字に挟んだ。

 素空は道を二の字に挟むと、道の先に走るように去って行った。すると何者かが慌てて茂みの陰から身を踊りだし、素空を追って石積みの中に入った。その瞬間、素空がキッと強い言葉を発した。

 「カーツ!正体現わせ!」

 同時に発した呪文によって結界が張られ、そのモノは、素空の手中に落ちたのだった。素空は結界の中に狐が1匹入ったことで、この狐が何らかの霊の化身だと思った。

 素空が問い掛けた。「狐に取り付く汝は如何なる者の霊か?」すると狐に取り付いた霊が人には分かりにくい言葉で語り、素空は耳を澄まして心で声を聴いた。

 『私は20年前に虚空と名乗る僧に命じられて、ここに眠る幾千もの霊を守る者です。そのお方は、私を冥府に上げようとなさいましたが、私の配下がすべて成仏するまで先以って上がることはできません。そう答えたら、その僧はすべてを冥府に送ることはできないから、鬼に取り付かれないように守るよう命じられたのです。そして最後にこう言ったのです。そのお方より力の強いお方がきっと遣って来る筈だから、それまで獣に取り付いておくようにと言われ、鬼が来たら退散させるようにと呪文を授かりました』狐の言葉は、次第に素空の耳に馴染んでハッキリと分かるようになって来た。

 狐に取り付いた霊は、土師宗右衛門はじそううえもんと言う30人の部下を持っていた武士で、30人の部下に2、3人の雑兵が付いていて、そのすべてを1時いっとき(2時間)のうちにうしなってしまったのだった。

 『私の配下は100人に近いほどだったのですが、何とも無惨でした。半数は冥府に上がったようですが、まだ半分は地中に蠢く虫の如くの毎日なのです。どうか1日も早く成仏させて下さい』土師宗右衛門の霊は結界の中で素空に頼んだ。

 素空は結界を解くと、頼みの通り地中の霊のために経を唱え始めた。しかし、志賀観音寺で経を唱えて冥府に送ったことが、この時はまったく通じなかった。

 素空が言った。『この地は封印されています。私の力ではどうにもなりません。恐らくあなた様にも同じような封印が施されているものと思われます。虚空様は私より遥かに力の強いお方でいらっしゃいます』

 素空は、土師宗右衛門と別れて、力なく帰ろうとした時、土師宗右衛門がひとこと言った。『お坊様のお名前をお聞かせ下さい』土師宗右衛門は、素空の名を聞くと、更に言った。『素空様のことなら、その虚空様から伺っております。あのお方より力の強いお方の名を素空様とおっしゃっていたのです』

 素空は驚愕した。狐の言葉は落胆した素空の心に追い打ちしたように影を落とした。素空は思った。『狐に言ったことは20年前のことであろう。その時、素空と言う名を口にできる筈がない。その頃、素空と名乗る力の強い僧がいた筈で、どのような訳があって20年の歳月が経ってもこの地に来ないのだろうか?』

 それから素空は、土師宗右衛門に聞こえるように言った。『素空と言う力の強い別のお方は何故来ないのだろうか?そして、この封印は何時までもつのだろうか?』

 土師宗右衛門は、素空の言葉に1つだけ答えた。『素空様、虚空様は飛騨ひだの辺りでご存命の筈です。封印が消えないのはその証なのです』

 素空は考えた。『虚空様がご存命と分かれば1時いっときの猶予もできない。早く探し出して教えを乞わねば…』

 素空は、土師宗右衛門と別れると、関原孫士朗の隠居所に戻って来たが、床に就いても眠れなかった。

 素空は落胆と驚きの中で、自分を失い掛けていることに気付いたが、己の心をどうにもできずにいた。その時、フッと師である玄空大師げんくうだいしのことを思い出していた。『お住職様なら一体どのようにするであろうか?』素空の思いは幼い時の希念きねんに戻っていた。それから素空の思いは天安寺てんあんじの3年間の日々を具に思い出し始め、やがて、玄空大師の最後の教えに辿り着いた。

 素空は、玄空大師の言葉を呟いた。『そなたが守護神を仕上げた時、千手観音せんじゅかんのんを越えてその眷属けんぞくを見たことは、容易に察しが付いたのだが、その高みを見た者なら自ら答えを存じている筈じゃ。…これが、わしの最後の教えなのじゃ。だが、今はもう少し先のことを語ろうぞ。わしが最初に千手観音に行き着いたのは、あの毘沙門様びしゃもんさまの仕上げ半ば、つまり、天安寺を下りる10日ほど前のことであった。毘沙門様は千手観音菩薩の眷属ばかりではないから、そなたが初めに目にした天部てんぶの中の四天王してんのうに属しており、彫り始めた時には四天王を見ることで、真の御姿を求めることができたのじゃ。千手観音の28部衆にじゅうはちぶしゅうの中にも属することは分かっていたが、容易に近付けなかったのじゃよ。そなたと同様にな』

 素空はその後を呟いた。『天部の四天王とは別に、28部衆の中の毘沙門様を見ておきたい。そう思い立つと、ひたすら禅を組み、来る日も来る日も、千手観音の先を目指したのじゃよ。そなたも同様、やっと行き着いたのじゃが、同時に、悟りを得た瞬間でもあったのじゃよ』

 そして素空は、玄空大師の最後の言葉を呟いた。『素空が志を抱いて仏師となりて、早8年。既にわしと並ぶ者となったのじゃ。つまり、これよりはわしの教えを乞うことなく、独り立ちできるまでになったのじゃよ。めでたいことじゃ』

 素空は床の中で涙に濡れた。つい先ほどまで幼い時に戻って玄空大師にすがる思いだったが、既に自分が頼るべき人の手を離れたことを思い知った。

 素空は前を見た。『自分と栄雪の行く先は既に飛騨と決まっているではないか。そう思うと涙は涸れ、勇気が湧いて来た。『急がねば、虚空様のもとで教えを乞うことが沢山あるではないか。弱い心ではお会いできますまい』素空は何時の間にか小さな寝息を立てて寝入っていた。

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