第6章 戦場の霊 その1

 素空と栄雪は柏原かいばらの宿役場を東に進み、美濃国みののくにに入った。関ヶ原せきがはらの近くに来ると、妙な気配を感じて、素空が地に両膝をついて五体投地ごたいとうちの構えを取った。

 栄雪は、素空が見せる初めての姿に妙な胸騒ぎを感じ、2、3歩下がって素空の様子を見守った。地に這った素空は、この付近に夥しい霊が彷徨っていることを感じ取っていた。戦乱の世が過ぎてもなお成仏を果たせない霊が、地中の骨にまとわり付くように蠢いているようだった。

 素空は思った。『このまま見過ごす訳には行かない。この霊達に地伏妖じふくよう巖手妖がんでようのような鬼が付け入ることがあれば大変なことになる』

 素空は起き上がると地中の霊達のために経を唱え始めた。やがて素空は、栄雪に訳を話すとその場に座してまた経を唱え始めた。栄雪は先へと進み街沿いのほこらを探してあちこち覗き見ていると、そこに通りすがった初老の男に声を掛けられた。男の名は関原孫士朗せきはらまごしろうと言う隠居で、元は彦根藩ひこねはんの家老付きの用人だったが、今は当主の座を嫡男ちゃくなんに譲って、母親の実家に近いこの地で、悠々自適の暮らしをしていた。

 関原孫士朗は、栄雪に近付くと陽気に声を掛けた。「ご坊、何かお探しかな?」

 栄雪の答えを聞くと、関原孫士朗がほこらの場所を教え、礼を言う栄雪に何のために探しているのか尋ねた。

 栄雪の説明を聞くと、関原孫士朗は興味深げに微笑んで、自分の屋敷を使うように勧めた。関原は3年前に連れ合いに先立たれ、下男夫婦と3人で暮らしていた。下男の名は伊勢次いせじと言い、女房はクマと言った。

 栄雪は、関原孫士朗を伴なって素空のところに戻って来て、事の成り行きを説明した。

 関原孫士朗は、素空の顔をひと目見るなり畏れて顔をまともに見られなくなった。遠目で見ていると、ただの旅の僧だったが、近付くにつれ全身からただならぬ気が湧きだしているように見えた。まさしく、近くで顔を合わせた瞬間、何とも神々しい容貌にすべてを見通すような清らかで聡明な瞳を持っていた。

 『人の中にこれほど美しいお顔を持つお方がいようとは、この年まで思いも付かないことだった』関原孫士朗は、素空の内面が顔に表れていると、畏れながらもそう思った。

 素空が言った。「関原様、本日は1夜の宿をお貸し頂けるそうで、まことにありがとうございます。この地に夥しい霊が成仏できずに蠢いているため、この霊達を御仏にお返しせねばなりません。今宵1夜の供養で如何ばかりの霊が成仏できるかは分かりませんが、このまま見過ごす訳には参りません」

 関原孫士朗が言った。「お坊様、失礼ながらここは今須います御座ござって、峠の先には関ヶ原と言うところがあるのだよ。そこには、それこそ何千何万もの霊がいる筈だが、その全部を成仏させることなど、とてもとても難儀であろうよ」

 素空は眉根を寄せて言った。「関原様、それでも遣り遂げなければならないのです。このまま放っておくことは世の乱れの始まりとなるからです」

 関原孫士朗は、素空の意志が固いことを知ってそれ以上のことは言わなかった。

 素空と栄雪は、関原孫士朗の後に付いて今須の屋敷に入った。主が帰ると伊勢次が出迎え、女房のクマに濯ぎを取らせて、旅の僧を客間に上げた。

 下男夫婦は主に似て陽気で気さくだった。特にクマは亭主より先にものを言うおしゃべりだったが、余計なことや嫌なことは一切口にしない女だった。

 関原孫士朗は客間に案内すると、2人の僧を上座に着かせて、自分は縁側に近いところで庭を眺めていた。栄雪が荷物を開いて壁際に整理し終わると、早速庭の景色をひと褒めした。

 関原孫士朗が言った。「わしは庭の草木を見ている訳ではないのだよ。この小さな庭にも可愛い小鳥が遣って来るのだが、それが唯一の楽しみなのだよ」

 関原孫士朗は40才半ばの武士らしい風格を備えていたが、陽気な性分に似合わぬ妙に寂しそうな横顔を、素空は見取っていた。

 関原孫士朗が素空に尋ねた。「ご坊は何故、うていなされた?また、世の乱れとはどのようなことであろうか?」

 素空が答えて言った。「大地に這うたのは地中に夥しい気配を感じたからです。これはこの世に未練を残した霊が、後の世に行くことなく地中に蠢いているからです。世の乱れとは、この夥しい霊に鬼が取り付くことにより、霊が力を持ち悪鬼となって人に取り付くのです。人の心は乱れ、善き人も悪心に負けることになり、やがては世の乱れを生じることとなりましょう」

 関原孫士朗は日頃通っている道の下に霊が蠢いているなど思っても見なかった。ましてや、その霊にこともあろうに鬼が取り付き、果ては世の乱れとなるなど、思いも掛けないことだった。

 「ご坊の名は素空様と言われたかな?」素空の名を確かめると、関原孫士朗は昔を思い出したように語り始めた。「20年ほど前になるが、大垣おおがきの母の実家を訪ねての帰りであったが、関ヶ原の辺りを通った時に、同じように五体を大地に投げ出している僧がいたのを思い出したよ」

 関原孫士朗は目を細めて当時の記憶を辿り始めた。「その僧は、素空様のような痩身だったが、やや小柄であった。遠目に見ただけで、お顔のほどは分からなかったが、年頃は60才に近かったようだった。やがて、身を起こすと天を仰ぎ何やら呪文のような言葉を発していたように見えたが、果たして空が俄かに掻き曇り大粒の雨がいきなり降って来て、いっぺんで着物を濡らしてしまったのだよ。わしは雨宿りもせずジッとその僧を見ていたのだが、不思議なことにその僧の周りだけが雨が降っていなかったようだった」

 関原孫士朗は語るうちに次々と当時の記憶を手繰り寄せ、その僧の名前を思い出そうとしていた。「わしがその僧をジッと見ているところに2人の百姓が近付いて、ご坊と似た名を口にしていたよ。2人は大垣に近い久瀬川くぜがわの者で、わしも昔から存じ寄りの者だった。その僧の名を、確かトクウとか、カクウとか言っていたようだった」

 素空がすかさず虚空こくうの名をだすと、関原孫士朗は記憶が鮮明に蘇ったように虚空と言う僧を思い出した。

 「そうだ、身なりは旅慣れた行者のようでもあったが、天聖宗てんしょうしゅうの僧と分かる数珠じゅずを腰に下げていた。その坊様は暫らくしてどこかに立ち去ったが、わしが見たのはほんの少しのであったが、若い頃に強く心に残ったせいか、僧を見ると時折思い出していたのだよ。わしの記憶の良さが用人の仕事柄もあってのことなのさ」関原孫士朗は目を細めてすべてを語った。

 素空は行脚の大きな目的が、虚空の消息を尋ねることにあると伝え、関原孫士朗の言葉に感謝した。飛騨方面ひだほうめんのどこかに手掛かりがあるような微かな期待が、素空の胸に更に膨らんで行った。

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