牢獄 その4

 素空が定めた約束の日になり、昼食を共にするとすぐに出立すると告げていた。井坂又之進と駒込の伊兵衛が、素空に尋ねた。「素空様がいなくなると、わしらはどうすればよいのでしょうか?獄門の時は心が乱れて、取り乱しはしまいかと心配です。何時になるかと不安な心を抑えて毎日を過ごすのは、とても辛く、どんなにか空恐ろしいことでしょう」

 素空は2人の心が未だに強くなっていないことを憐れんだ。2日で固い信仰を持てる者などざらにはいないことも、2日前まで2人が極悪人だったことも承知していたが、極刑が下される前に固い信仰を身に付けさせることは、別れるまでに素空に与えられた使命だった。

 素空は暫らく考えて、梶野長次郎を訪ねた。梶野は下役の片岡と言う侍に後を任せて、素空を自分の部屋に案内した。

 「素空様、2人の様子は如何でしょう?」梶野は、素空を信頼しきった様子で尋ね、素空が答えた。「梶野様、お2人は真人間に立ち返ろうといたしております。しかしながら、私がいなくなった後、ご自分方の心を平穏に保てるかご心配のご様子です」

 梶野長次郎は眉根を寄せて言った。「役儀柄、死罪を言い渡された多くの者の最期を見て来たが、それぞれに覚悟のある最期でした。あの2人はご坊のおかげで改悛をし、真人間に立ち戻ったようです。あそこまで変わるとは思いも掛けないことでしたが、もう大丈夫でしょう。己の罪を改悛した者は、最期もおとなしく刑を受けるものです」

 素空が尋ねた。「梶野様は改悛するだけで良いとお考えでしょうか?」

 梶野長次郎が答えた。「初めに申した筈ですよ。あの極悪人を改悛させて最期を迎えさせたいと」

 素空は声音を変えて言った。「梶野様、人は改悛のみで赦しを得ることはできません。改悛とは、己の罪を認め再び罪を犯すまいと心を入れ替えることなのです。それだけでは御仏の御慈悲は頂けないのです。人としての最期は御仏にすべてを委ねて後の世の裁きを受けることなのです。改悛で己を見詰めるのではなく、御仏のみを見てその御慈悲を得んと願うことなのです」

 梶野長次郎はウーンと唸り声をあげて、何やら考えた後に言った。「それではご坊はこれからどうするおつもりなのかな?」

 素空が答えて言った。「回心かいしんをさせるのです。回心とは罪の償いを伴なう、完全な悔い改めの方法なのです。償いのない改悛など、御仏の前では無きに等しいことなのです。償いを伴なう完全なる悔い改めが回心なのです。そして、回心こそが御仏の御慈悲に与る唯一の道なのです。魂の救いがなければ、改悛したところで地獄に堕ちるのは免れません。あのお2人をお救いするのが私の使命と存じます。従って、罪の償いをすることで、御仏の御慈悲を願わねば僧としての勤めを果たせないのです。殺めた人々への償いはできる筈もありませんが、御仏の前で殺めた人々への謝罪の心を持つことは、御慈悲に与ることに他ならないのです。…私は1時ほど後には出立いたしますが、私がいなくなっても良いように御仏の御姿を描き残したいと存じます。付きましては、紙と硯をご用意願いたいのですがよろしいでしょうか?」

 素空の願いは聞き入れられ、文机で描くように紙と硯が用意された。素空が墨を磨りながら瞑想し始めると、金色の光が素空の体を包み、やがて収束して微かな光背となった。梶野長次郎は畏れて2、3歩下がって平伏した。このような驚きは初めてのことで、梶野の心に信仰の種が落ちた瞬間でもあった。

 素空は厚手の紙に阿弥陀如来の姿を描いた。2枚の紙に、別の姿の阿弥陀如来を描き上げた時、平伏している梶野長次郎に見せることにした。

 梶野は目を丸くして2枚の絵を見比べた。見事と言う他に言葉が出ないほど鮮明で実在感のある絵だった。梶野は恐る恐る自分の分を所望して、素空は喜んで3枚目の阿弥陀如来を描いた。

 3枚の阿弥陀如来はそれぞれ違った形をしていたが、どの姿も同じ阿弥陀如来を描いていることはすぐに分かった。素空は梶野に好きな姿を選ばせ、残りの2枚を持って牢内に戻って行った。

 素空が牢内に戻ると、井坂と伊兵衛は経を唱えながら、何やら物思いに囚われているようだった。

 素空が真ん中の牢に入ると、2人は憑物が落ちたように素空の方を向いた。

 素空は、2枚の絵を開いて井坂と伊兵衛に絵に描いた阿弥陀如来像を手渡した。

 素空が言った。「この御姿は、阿弥陀如来様の本当の御姿を写したものです。一心に経を唱えるならば、この御姿には本当の如来様が現れ易く、御降臨を得ることとなるでしょう」

 素空がそう言うと、2人はまたしげしげと眺め、奥の壁に飯粒で貼り付けた。

 暫らくして素空が経を唱え始めた。これまでの密やかなものではなく、2人の胸奥に直接響く強烈な力を持った経だった。

 井坂又之進と駒込の伊兵衛は初めての体験に畏れを抱き、素空がただの僧ではないことにやっと気付いたのだった。素空の経は2人の心を縛り付け、仏の側の他はどこにも居場所がないことを知らしめた。

 2人は、素空の経によって、生きている今、仏の慈悲にすがらなければ、死して後、地獄の苦しみを免れることができないこと。そして、ただ一心に祈ることだけが救いの道だと知った。

 2人が目の前に見ているものは、仏に限りなく近い素空の姿だった。

 素空が経を唱え始めて四半時しはんとき(30分)が過ぎた。その時、2人が貼り付けた2枚の阿弥陀如来像が金色こんじきの光を放ち、奥の壁を金色きんいろに輝かせた。

 2人は更に驚き、素空と阿弥陀如来像を交互に見遣り、両の手を合わせて拝んだ。

 井坂又之進と駒込の伊兵衛は畏れて、一心に経を唱え続けた。

 素空が、2人に語り掛けた。「お2人共来世が人の本当の生であることを信じて御仏の御慈悲を乞うのです。そうするうちに魂は汚れをなくし、罪の償いが素直にできることでしょう。御仏のまたの御降臨を望みながら、死するその日、その時まで『南無阿弥陀仏』と唱え続けることです」

 昼食の膳が運ばれ、3人は無言のまま箸を取った。

 昼食がすむと、いよいよ素空との別れの時が来た。

 井坂又之進と駒込の伊兵衛は、素空に恭しく頭を垂れると、牢を去って行く素空の後姿をいつまでも見送った。

 素空と栄雪は宿役場を発つ前に、梶野長次郎の詰め所を訪ねた。素空は、2人の咎人が最期の時まで心穏やかにできるように頼んだ。

 すると、梶野長次郎が言った。「素空様には人として足りなかった私を導いて頂いたばかりか、立派な阿弥陀様を描いて頂きました。私の方こそ、感謝申し上げると共に、素空様のご意向に沿って役目を果たす所存です」そう言うと、晴れ晴れとした笑顔で2人の僧を眺めた。

 梶野長次郎は、素空と栄雪との別れの後、7日もすると検分役が到着し、井坂又之進と駒込の伊兵衛は人の定めに従って罰を受けるのだが、その魂が地獄の責め苦からの解放を得ることを信じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る